この作品はオリジナルキャラクターを含みます。
この作品は執筆を終了しています。
やがて死にゆく僕らのために
-
- 1 : 2015/07/24(金) 23:12:20 :
-
その世界は空の色から道の端々に至るまで全て白で染められていた。
白い空間の中に悠然とそびえ立つ白い門。絡まる蔦だけが唯一異なる色をしている。その大きな門を通った者が住まうのが『白い街』だった。
この世界の人々は傷ついた魂を癒す為にこの街を訪れ、また同時に傷ついた他の人を癒す為にここで暮らす。
この街は誰も傷つけず、傷つかない。そんな弱い人間の“天国”だった。
『この地には神も奇跡も存在しない。ここにあるのは真実を探す手掛かりと、それを選ぶ権利のみ』
-
- 2 : 2015/07/24(金) 23:13:16 :
一歩、また一歩と足を踏み出す。
点滅する電光掲示板が視界に入った。独特な駅のにおいが鼻につく中、その灯りもどこか嫌なものに感じる。
でもそんなことはもうどうでもいいのだと、嫌なことを忘れるために頭を振って一歩でも足を踏み出す。
「まもなく五番線に電車が参ります――」
それなりに人が並んでいるため、それを避けるようにどんどんとホームの端へ歩いた。
「黄色い線の内側に――」
途中走っているサラリーマンに肩をぶつけられ、盛大にカバンが吹っ飛んでしまった。幸い中身は出ていなかったため、それを掴んで人目を避けるように早足で歩を進めた。
そしてとうとう人の少ない場所を見つける。少ないといってもそこには既に八人ほどが並んでいた。でももうここしかない。
眠そうな顔で正面を見据える大学生らしき人の隣に並び、電車を待つつもりだった。
でも、気付けば足が余分に一歩を踏み出していた。そして気付いたときには全てが遅かった。
「え……?」
誰かの惚けた声が虚しく耳に響く中、電車がいつもの音とともに流れ込んできた。
それだけ。
【やがて死にゆく僕らのために】
-
- 3 : 2015/07/24(金) 23:14:09 :
両親が事故で死んだ。
うちは親戚付き合いが全くなかったため、僕を引き取ろうなんて考える酔狂な親戚もなく、形だけの後見人として叔父を据えた後は一人暮らしを強いられることになった。
まだ僕は十六歳だった。
元から家庭環境はあまり良くはなく、ヒステリックな母の怒声に苛まれる毎日。父は単身赴任でよく家を空けていたから、そんな母のことは知らないし見ても見ぬふり。
僕自身そんな両親が好きではなかったため、はっきり言ってしまえば二人が死んでよかったとさえ思っていた。
今でもその認識は間違ってはいないと思っている。――あの両親は僕のことが嫌いだったのだ。僕が出来たばかりに結婚するハメになったと母が嘆いていたのを、僕は幼少の頃から知っていた。
だからかもしれない。僕は両親が死んだとき、自分を虐げていた存在を失ったのと同時に、自分の生きる理由も失った。
結局僕も両親に認められたいという、ありきたりな願いを最後まで忘れられなかった子どもだったのだ。
だから、僕は飛んだ。
-
- 4 : 2015/07/24(金) 23:15:15 :
***
目を開ける。白い天井に白いベッド、白いカーテン。何もかもが白に染められたその空間が僕の今の居場所だった。
ここは病院ではない、れっきとした僕の部屋だ。でもここは仮の家で本当の家ではない。
どういうことか、と問われたら少し困る。
「おはよう。空」
僕は部屋を出て、先に起きていたと思われる女の子に挨拶をした。ここに来た当初は女の子と一つ屋根下で暮らすことに戸惑っていたけれど、暫く暮らすうちにすっかり慣れた。
「おはよう」
久能空。整った顔立ちの女の子だ。黒くて長い髪に折れそうなくらい細い手足。異様なほど透き通った白い肌。人形のように感情を出さない表情――多分、僕が一番お近づきになりにくいタイプの綺麗な子。
「今日で最後だな。ここでの暮らしも」
「そうね」
特に感慨もなさそうな声で、空は静かに言葉を返した。彼女にとって僕との会話は洗面所へ行くことよりも優先度が低いらしい。本当に僅かではあるが、廊下を塞がれたことに対する不快な感情が声にのっている。
でも、別に僕は嫌われているわけではないらしい。彼女は単に几帳面な性格なのだ。堅物で生真面目な秀才タイプというのが彼女のキャラクターを表す言葉。
「ごめん」
道をあけながらとりあえず謝った。空は軽く頷いてからその横をすり抜けていく。その時、ふと女の子の柔らかい匂いが鼻を掠めた。
「なぁ、空」
「なに?」
彼女が忙しいのはわかっていたけれど、時間に几帳面でそれを乱されたくないこともわかっていたけれど。それでも、ついつい引き留めてしまう。
「今日で最後って何か寂しくなるよな。ずっとここにいたのに」
ふと目に入った洗面所の鏡。そこに反射して映ったリビングの窓が真っ白で、それが何故か寂しくなったから。……なんて、口が裂けても言えない。
「……喜ぶべきことよ」
つれない態度で空は返したが、彼女も何かしら思うことがあるのは知っている。なんせ彼女はこの街にとって管理者と呼ぶべき存在だからだ。
-
- 5 : 2015/07/24(金) 23:16:48 :
この世界の他に、もう一つ世界がある。それは死後の世界。
天国や地獄なんて呼ばれているところへは行ったことがないからわからないが、少なくとも死後の世界というものは実在する。その一つが僕の今いるこの場所だからだ。
でもこの世界は少しばかり特殊だ。何故ならここは“自殺者”のための世界だから。それもどうやらある一定の地域に住んでいた人間だけを招きいれた、一つの街だけという規模の小さい世界。
ここに住む人間はこの街のことをそのまま“白い街”と呼んでいる。
「生まれ変わるのが怖いわけじゃないけど、私はここ以外の世界をほとんど知らないから」
「……もう街にいて長いもんな。今更期待もなにももてないか」
僕は自分でも馬鹿だと思うくらいの些細な衝動で死んだ。だから未練も痛みもこの世界には持ち込まなかった。
でも、この街に暮らす人の大抵は違う。死ねば楽になることを期待して、または無になることを期待して――逃げるために自殺した人ばかりだった。だから人は皆、痛みを抱えたままこの世界で目を覚ます。
それを癒すためにこの街は休息所として存在する。そんなことを管理者である空はこの街に来たばかりの僕に言った。
「変だとは自分でも思う。私はもうかなりの年月をここで過ごしたし、元々痛みなんて持っていなかった。役目が終わったから出て行ってもいいのに」
そこで言葉をとめ、空は背伸びして歯ブラシを手に取る。僕の胸までしかない背の低い彼女は何をやるにも不便そうに見えた。
「……まるでこれから死ににいくみたいな、そんな気がするから」
そしてそれを口に含む。話は終わりだとでも言いたいのかもしれない。
「ずっとここにいたんだもんな」
この世界は望めば大抵のものが手に入るが、それをいいことに多くの人は与えられた家に籠もりがちになる。
だからそういう人を街中に連れ出す人間が必要だし、そもそも家を紹介する人間も必要だ。もちろん買い物が娯楽だった人のためにささやかだが店を開く人間もいる。
生前に他人との交流を絶たれた者たちが再び人の中で笑えるように、この街では働く意思のある者に仕事が与えられていた。
そして空はそのボランティアのような人たちの頂点に立つ“管理者”なのだ。
――まあ、それも今日までのことだが。
-
- 6 : 2015/07/24(金) 23:18:10 :
「洋介のこと、最初は大学生だと思った」
「よく言われるよ」
そのうち歯を磨き終えた空が洗面所から顔を出した。僕はリビングでコーヒーを飲みながら適当に答えた。
幽霊と同じ存在の僕たちではあるが、娯楽として飲食することは生前と同じようにある。それどころか身体も汚れるし、眠くもなる。変わったことといえば病気や怪我をしないことと、死なないことくらいだ。
「そんなに背が高いのに運動ができないって知って少しだけ意外だった」
「ごめん」
「謝ることじゃない」
長身は運動が出来ない木偶の坊な僕にはコンプレックスでしかない。それに大人びているというよりは老けている顔といい雰囲気といい、高校二年生なのに大学生に見られても仕方がないと、もうすっかり諦めていた。
まさか、死んでからもこうしてそれを指摘されるだなんて思わなかったけど。
「洋介と暮らすようになって、随分と生活しやすくなった」
僕の向かいにいつの間にか座っていた空は、湯気の立つコーヒーを静かにすすりながらそう言ってくれた。
「私には生活力がないって、よく言われるから」
「仕方ないよ。空がこっちに来たのは中学生の頃なんだろう?」
「うん。でも、やっぱり言われたら悔しいから」
空はこの街でも特殊な人間だ。彼女が命を絶ったのはもう十年は前のことらしい。見た目はギリギリ中学生といった小さな姿でも、実際は僕より数歳年上なのだそうだ。
この街の大きなルールの一つに、必ず家には二人で住むというものがある。そのルールのおかげで僕と空はこうして暮らしている。それも本来はありえないことだった。
このルールは当然、街に来た順にペアがつくられていく。そのどちらかが先に街を出たとしても、相方はそのまま一人で過ごすのが一般的だ。
空にももちろん相方だった人がいたらしい。その人がちょうど先代の管理者で、数年前に空を後継者に選んだ後に街を出た。それから空は僕と出会うまで一人でいたらしい。
何故再び相方を選んだのか。何故それが僕だったのか。――その理由は知らない。
「でもさ、ここで暮らすだけなら生活力なんていらないから。存在が幽霊みたいなものだし」
「……向こうにいないのに幽霊って言えるの?」
「さあ。でも確かに死んでるのにここにいる。成仏しているとは思えないし、街から出たら本当に成仏するってみんな言ってるくらいだからきっと幽霊だ」
「そう」
空が最後のコーヒーを飲み干して立ち上がる。ちょうどその時、家の中に大きな音が響き渡った。外の鐘の音だ。
「……相変わらず今日も正確だね、空」
「もう何年も繰り返したんだもの。そう簡単に生活が変わるわけない」
僕は苦笑してカップの底に僅かに残ったコーヒーを流し込んだ。時間を知らせるその鐘の音は高く透き通って僕たちの耳に反響する。それが全部で七回続いて終わった。
「この生活も今日で終わりか。いい思い出になりそうだな」
笑って言ったが、それに空は答えなかった。
そして、最後の仕事の時間がやってきた。
-
- 7 : 2015/07/24(金) 23:19:59 :
***
白い空、白い道、白い街並み。外に出ると途端に目を襲う白色の波は、今日も眩しく僕らにその存在を見せ付けてくる。
誰がつくったのかなど、詳しいことは一切わからない白い街。空を十年、僕を数ヶ月見守ってきたこの街は、朝早いというのもあってかまだ人気がない。
「今日も変わらないな」
「いいことよ。逆に何かが変わってしまったら心配になるもの」
隣で涼しい顔をしている空は、今日でこの巡回が最後になることをどう思うのだろうか。
僕はこの街を出ることに決めたとき、正直空は一緒には来ないと思っていた。だから管理者の椅子を大切に守ってきた彼女の気持ちが未だにわかっていない。
わからないことだらけなのだ。空のことなんて。
「――なに?」
そんな僕の視線に気付いたのか、空が不思議そうな眼差しを向けた。思い出せばこうして空とまともに会話が出来るようになったのもつい最近のことだった。
「いや、なんでもない」
「大体わかってる。洋介の考えそうなことなんて」
涼しい顔のままそう彼女は言った。僕の方は何もわからないのに、空は僕のことをよく知っている風な口調だ。それが何故か、この期に及んで悲しかった。
「なんで、僕だったんだ?」
だから悔しくなってつい直球で訊いてしまう。空はそんな僕に驚いたのだろう。珍しく大きく目を見開いてみせた。
「なんでって……」
「僕の相方を決めるときさ、次に街に来る人とそのまま組ませればよかったのに。……なのに空は自分を選んだだろ? ずっとその理由を訊きたかったのに色々あって忘れてたからさ」
特に生に未練があったわけでもないし、生前に傷ついたわけでもない。それでも僕だってこの世界で目覚めたことがそれなりにショックだったわけで。――それが色々ってやつ。
「そうね。私にもわからない」
「わからないって……らしくないな」
何かと物事に理由をつけないと動かない主義だという彼女らしくないと思った。空は僕のそんな反応を見透かしていたような素振りで肩をすくめる。
「それなら、洋介なら私をこの街から連れ出してくれる気がしたから――とかでいい?」
「なんだよ、その取ってつけたような理由」
思わず笑ってしまう。空に笑わせられたのは初めてだ。
「これ以外にどう表現すればいいのかわからないから」
笑われたことにムッとしたのか、空はぶっきらぼうに返してさっさと一人で先に行ってしまう。
「ごめんごめん」
慌てて謝り、僕はその後を追った。日が沈まないこの街の朝は始まったばかり。どんどん歩く内に通りにも人が増えていく。僕たちは少し早足になりながら仕事場である門へと向かった。
-
- 8 : 2015/07/24(金) 23:25:14 :
白い街唯一の出入り口であるその門は、街の四方を囲む高い壁のたった一方にだけ存在している。そこには門番と呼ばれる人がいて、この街を出入りする人間を記録していた。
「おはようございます。京子さん」
その門の前に立つ、スーツを着ているくせにどこかダラッとして見える女性に向けて空は厳しい声で挨拶をした。
「ちょ、ボス!? あはは、今日もお早い出勤で……」
咎めるような声に脊髄反射でもしたような勢いで飛び上がり、京子さんはへらへらと笑う。――この街で管理者の次に大役と言われている門番のくせに、この人はやっぱり適当な人だ。
「何か隠してます?」
「え? い、いや……別になにも。あはははは」
明らかに怪しまれるだろう笑みを浮かべながら、京子さんは僕に必死で目線を送ってくる。助けてくれと言っているのだ。それくらいわざわざ伝えなくてもわかる。
「いいよ空。どうせ及川さんに訊けば京子さんが何をしていたかなんてすぐわかるし」
「ちょっ! アンタ覚えてなさいよっ」
及川さん、というのはこの門の隣にある小さな診療所にいる女の子のことだ。
「……そうね。まあ、仕事をしてくだされば私はそれで」
「はいはい! わかりましたわかりましたーどうせ私はサボってましたー」
空に一睨みされて臆さない人間はいない。小さいくせに貫禄と責任感が人一倍の彼女だからこそ、みんな文句なく従うのだ。
「ほんとボスは休憩してるくらいですぐ怒るから……だからその歳でババアみたいに暗いのよ、もう」
渋々といった様子ですぐそばにある小さな事務所に入っていく京子さんの後に続く。こここそが僕たちの仕事場である。
この世界には空以上に長く街にいる人間なんていない。だからこそ空は実質二十ちょっとの歳で管理者を任されているらしい。その仕事は主に住人の身の振り方を決めること。
誰が誰と一緒に暮らすか、あの人は街に来てだいぶ経つが仕事をする気はないのだろうか、あの店の人はそろそろ街を出たそうだが、後継者は誰にしようか。――それを一人で決めるのが空だった。小さな街だからそれが叶うが、それでも何百人もを管理しているのだから空の負担は凄まじい。
そしてその補佐であり、住人の詳しいデータを記録して残す門番という仕事が京子さんの仕事だ。他にもこの世界に来たばかりの人間に説明をしたり、街を出る人間を見送ることも彼女の仕事である。そして今朝聞いた鐘の音も、彼女が定時に鳴らしているからこそ聞くことができるのだ。
-
- 9 : 2015/07/24(金) 23:26:49 :
「ほんと公務員ですよね。二人とも」
「私は生前もやってたから適職なんだけどねー。でももうこりごりだわ、こんな仕事なんて。――よいしょっと」
事務所の隅に詰まれた青いファイルの山をどけながら京子さんはぼやいた。
「ほら近藤くん。君も手伝いなさい、男でしょう」
「え、あ、はい――うわ、重っ」
慌てて伸ばした腕にどっさりと一山の重さがのしかかり、それを予想出来ていなかった身体は簡単によろける。
「ダサいわねぇ。それでも高校生かっつの」
「全然運動できないんですよ僕……察してください」
「全く、脚長の高身長が泣いてるわよ」
京子さんのそんな悪態を半笑いで受け流しながら、僕は受け取ったファイルの山を後ろにずらりと並んだ棚に押し込んでいく。順番なんてどうでもいいのだ。
「――順番」
「あー、やっぱり駄目か?」
「当然。わからなくなるじゃない」
パイプ椅子に腰掛けた空に睨まれ、僕は仕方なく背表紙の部分に書かれた数字を確認する。幸いなことに手元のファイルは全て順番通りに詰まれていたため、余計な仕事をせずに済んだ。
「ほんと、君に次期門番をやってもらいたかったわ」
「ごめんなさい。京子さんより先に街を出る決心が出来るなんて自分でも思ってなくて」
「まぁいいわ。私はもう少しここにいないといけないし」
僕は門番見習いという、何とも微妙な仕事を押し付けられていた。元々は京子さんが街を出る時に代わりがいないと大変だからという理由で任命されたのだが、京子さんにはまだこの街を離れる意志はなく、結局僕の方が先に街を出ることになってしまったのだ。
この街にきて三年になる、と京子さんは以前僕に教えてくれた。そして空の次に長いのだとも。――これを聞いて余計に空の十数年という滞在期間を不思議に思ったのをはっきり思い出せる。
「ほら、これが終わったら診療所に行くわよ。静留のお茶も飲みたいし」
「京子さん」
「え、あ、ははは……冗談よボス。休憩には早いものね」
「はい。まだまだずっと先ですね」
「ははは……はは」
僕はそのやり取りを見ながら大きな溜息をつく。事務所の隅に目をやれば、そこにはまだまだ青いファイルの山がある。数日前から掃除を始めたとはいえ、まさかここまで時間がかかるなんて思わなかった。――専ら京子さんのサボり癖のせいだけど。
もう今日が終われば僕と空はこの街をでる。だから出来れば今日中に片付けておきたいと、今度は自らファイルの山を抱えた。
-
- 10 : 2015/07/24(金) 23:28:54 :
***
事務所から僅か三分の距離にあるその診療所には医者はいない。元々この世界にいるという時点で僕たちは死人だ。怪我もしなければ病気もしない。だから医者は必要ない。
けれど、ここには現に診療所という建物がある。その理由は意外と単純だ。
「及川さん。今日はどなたかいらっしゃいましたか?」
「あ……空さん、おはようございます。いえ、今日は誰もいらっしゃってませんよ」
一足先に診療所へと入っていった空は、中にいる女の子と話をしている。彼女こそがこの診療所で働く及川さんだ。
「京子さんや洋介さんもいらっしゃったんですね。おはようございます」
「おはよう静留ぅ……早速だけどお茶淹れてよ。もう私アウト、死にそう」
「やだ京子さん。もうとっくに死んでるじゃないですか。冗談のレベルが低いですよ?」
「ほんと私に対しては痛烈ねアンタ……」
私服にエプロンを纏った彼女は医者や看護師ではない。ここにはそんな人はいないし、そもそもこの診療所には彼女以外の人はいない。
この診療所はこの世界に来たばかりの人間のためにある。自殺してこの世界で目覚めたとき、また自分が目を覚ましたという状況に戸惑う人は多い。そのショックで一時的な記憶喪失になる人までいるくらいだ。そんな人が診療所という名目で建てられたこの場所に足を運ぶ、ということだ。
要するにカウンセリングをしているのだが、及川さんはまだ二十数歳。それに生前は生まれついての重い病気で仕事どころではなかったらしい。そんなド素人の彼女だからカウンセリングといっても大したことはしていないという。
「本当にごめんなさい洋介さん、空さん。全然お別れ会とかできなくて」
だが、及川さんの天使のような笑顔はそれだけでも価値がある一級品だ。
「いや、いいですよ。いきなりで悪かったのはこっちですから」
「そうよ静留。近藤くんもボスも引継ぎさえ人任せにして出て行くつもりなんだもの。そんな連中放っておいていいのよ」
「私もごめんなさい。突然すぎた」
隣に座った空が小さく頭を下げる。よほど珍しかったのか、京子さんや及川さんが驚いたように息を飲んだのがわかった。
「あーやめやめ! ボスに頭下げられるなんて気分悪くなっちゃうじゃない」
「そ、そうですよ空さん。こんなの別に大したことありませんから!」
「でも――」
「いいよ空。二人がいいって言うならそれくらいにしないと収拾がつかなくなる」
空をなだめて頭を上げさせ、僕は後の二人に笑いかけてみせる。二人とも腰を浮かせていたからだ。それだけ空が彼女らしくないことをしたということだろう。僕などまだ空とは数ヶ月しか過ごしてないが、この二人は年単位で空と接しているはずなのだから。
「これから私がいなくなれば、この街には迷惑をかける」
だが、空のその言葉にみんな言葉が詰まってしまう。
管理者である彼女は長年この白い街の要だった。空の他に街の詳細を知る人間はいない。どこに誰が住み、何をしているか、どんな問題を抱えているのか。――その全てを空は一人で処理してきたのだ。その膨大な情報を受け継ぐことのできる人間は、この街にはいない。
「ずっと働きすぎなんです。空さんは……」
及川さんがぽつりと漏らす。僕もそれに同感だった。
空はとにかく働きすぎているのだ。誰よりも早く起床し、誰よりも遅くまで働いている。門番である京子さんですら朝は早くとも仕事が終わるのは夕方なのに、空のそれはまさしく寝る瞬間までである。
「必要とされるのは嫌いじゃないから」
「それはわかりますけど……いくら体調を崩さないからといっても限度があったんです。みんな心配していましたし」
「そうね。ぶっちゃけ街を出るってボスが言った時は安心したもの」
「そう……」
何故か落胆するように空は浅く息をついた。空にとってこの街は故郷なのだと以前聞いたことがある。彼女の帰る場所は僕らが生前にいたあの世界ではなく、この白い街なのだと。だからなのだろうか、空は他の誰よりも生前の話をしたがらない。まるでそれがどうでもいいことだったように振舞うのだ。
ただ、空がここまで無愛想で無口な人間になった原因が生前にあるということは、以前京子さんから聞いたことがある。――ここは自殺者のためにある世界。空もまた、痛みを抱えている。それがもう癒えているのかはわからないけど、空が僕よりずっと繊細な女の子であることは僕だってよく知っていた。
-
- 11 : 2015/07/24(金) 23:31:39 :
「そうだ。向かいの喫茶店の店長さんにクッキーもらったんです。皆さんいかがですか?」
場の空気を変えようとしたのだろう。思い出したという風に手を一度叩き、及川さんは席を立つ。
「そうね。せっかくお茶淹れてもらったんだし、一つお願い静留」
「あ、お願いします」
「ちょっと待っててくださいね」
そう言って穏やかに笑い、及川さんは別室へと姿を消した。その先には簡易なキッチンがあるから、そこへ行ったのだろう。
僕たちは及川さんが戻ってくるまでの間、何とも言えない静寂の中にいた。空は元々口数が少ないし、京子さんや僕はさっきの掃除ですっかり疲れきっていて、和やかに話すよりも休息を選んだのだ。
そんなところへ裏口にあるチャイムの音が飛び込んできた。驚いて飛び起きた僕を笑って京子さんは言った。
「静留いないし代わりに君が行きなさい。若いんだから早くはやく」
「僕ですか? 勝手に出ちゃって大丈夫なんですかね……」
「平気よへいき。大した用事でもないんだろうし」
そう言われて渋々腰を上げると、それを片手で制して空が言った。
「私が行きます。管理者なら何があろうと相手にとって不足もないでしょうから」
「あ、そう? じゃあお願い」
特に面倒という様子でもないため、僕も京子さんは空に頼むことにした。
「なんかごめん。頼む」
「そうわざわざ言われるとやり辛い。いいから洋介は座ってて」
「わかった」
それが空なりの些細な気遣いだと気付いたのは彼女が小さな音を立てて部屋から出て行った後だった。
「ねえ、近藤くん」
「……なんですか?」
後に残された僕と京子さんは、それぞれ椅子とテーブルにその身を全力で預けて休んでいた。そんな最中、京子さんが静かに口を開く。
「君はなんで街を出ようと思ったの? 出てどうなるかなんてわからないのに」
どこか惚けたような声なのに、声色はどこまでも本気だった。
「そりゃ不安ですよ。居心地のいいこの街を出るだなんて……」
この街を出るとどうなるかは正直全くわかっていない。みんな門を出て暫く行くと靄の中に消えてしまうからだ。でもこの街に住む人々は成仏するのだと言っている。
僕たちは天国にも地獄にも行けない半端者だ。だからこんな中途半端な存在でこの世界を与えられ、そこで魂を綺麗な状態に戻す作業を行う。
だが無事に成仏したらどこに行くのだろうか。今度こそ天国か地獄に行くのか、それとも生まれ変わるのか。これは人それぞれ答えが違う。もしかしたら天国も地獄も本当はなく、また別の世界に飛ばされるだけかもしれない。
そんな不安を抱えながら、でも僕たちは街を出ることが正解なのだと誰に教えられるでもなく知っている。
-
- 12 : 2015/07/24(金) 23:33:24 :
「今いる僕たちはきっと幽霊みたいな存在だって思うんです。魂だけが残った中途半端な死者」
「幽霊、ね……。面白い表現だわ。化けて生きてる人間の枕元に出そうな感じ」
京子さんは笑う。僕たちは向こうの世界に干渉することは出来ない。干渉したところでロクでもないものばかり見てしまうのだろうから、きっと出来ないほうがいいに違いないけど。
だから幽霊というのは少しおかしいのかもしれない。半透明でもなければ足もある。飲食もできるし、体温すらある。そんな健康的な存在が幽霊だなんて確かに不適切なのだろう。
でも、僕たちは成仏していない。どんなに幸せに暮らしていても、完全には死にきれていない存在なのだ。それを幽霊と言わずして何と呼べばいいのだろう。
「いつか必ず本当の意味で死なないといけない存在だから幽霊って呼ぶのが適切だと思って。だから、自分の存在を無にして溶かさないといけない日が来るはずなんです。それが僕らの終着点かな、と」
まるで魂に刻まれたように、自分の奥でそう囁かれているのだ。街を出ることはおそらく二度目の死に他ならないのに。
「そうね、それが正しいわ。ここは定住地じゃないもの。長く住んでいるとそんなこともわからなくなるけどね」
門番としての任期もとっくに京子さんは終わっている。だから仕事なんて他の人に押し付けて街を出ることもできるのに。なのにこの人はそれを未だ選ばない。
だから僕に訊いているのだろう。何故リスクをおかしてまでこの街を出て行こうとするのか、その理由を。
「もう一度人生をやり直したいって思ったんです。次はどうすればいいのかって答えが見つかったので、それを活かしてみたいと」
「そう……。立派ね」
「立派?」
嫌味を言われたのかと思い、京子さんの顔をまじまじと見つめてしまう。そして気付いた。京子さんはどこか泣きそうな顔をしていたのだ。
「別に嫌味じゃないわよ。純粋に立派だと思った。私なんて未だに踏ん切りがつかないのに」
そう言って京子さんはテーブルに投げ出した腕に顔を埋める。
「別に消えるのが怖いわけじゃないの。もう死んでるんだし、そこは覚悟してる。でも……来世ってのがあって、そこでまた同じような人生を歩むことになったらって思ったら怖気付いちゃうのよね」
僕たちは前の人生を途中で投げ出した。それで苦痛の全てが終わるのだと信じて。
大抵の人間にとって死は無だ。もう何も考えられず、何も聞こえないのが当たり前の虚無になること。それが僕らの思う死というものだ。だからこそ自分で命を絶った。苦痛から逃げたのだ。
でもこの世界で再び目覚め、僕たちは人の優しさを知ることになる。誰も傷付けない、誰にも傷付けられないこの街で束の間の休息をとる。
「――居心地がいいんですよね。この街は」
「そう。居心地が良すぎるのよ」
もうここから出たくなくなってしまう。だってこの街での僕たちは確かに“生きている”のだから。この街を出て再び消える必要はないのだ。たとえ幽霊としてでも、人は生きられる。
「あっちは冷たい。だから私のような人間を誰も許してくれない。そんな世界にまた生まれて、また同じ道を辿るとしたら……私そんな人生なんていらない」
誰も自分を認めてくれない。叫んでも助けてくれない。でも悪いのは自分なのだから耐えなければいけない。――それの繰り返しで、人はどんどん壊れていく。自分を嫌いになっていく。
そして生から足を踏み外し、人は飛ぶ。
-
- 13 : 2015/07/24(金) 23:35:23 :
「でもさ。こうも思うのよ」
京子さんは顔を上げ、僕の顔を真っ直ぐ見据えた。
「人は結局一人。誰かと真に心を通わせることなんてきっと出来ない。……でも、こんな私でも探せば一人くらい一緒にバカ出来る人が見つかるかもって、そう思うの」
どこか楽しそうに。どこか悲しそうに。
「だからきっと私は待ってるのよ。この可能性を信じさせてくれる人が現れるかどうか。この街でそんな人に出会えたなら、きっと私はあっちの世界に希望が持てるから」
その人のことを僕はよく知っていた。京子さんの相方、地中海太陽のような底抜けの明るさを振りまいていた女性のことを。京子さんは待っているんじゃない。だってもう、この人は出逢っているんだから。
「あの人はきっと、思うようにやればいいって言うと思いますよ」
「そうね。――そういう奴だもの、アイツ。何もかもをめちゃくちゃにしてでも我を通せって叱り付けてくるでしょうね」
京子さんは肯定した。待っているのではない。だってその人は京子さんより先にこの街に来て、京子さんより先に出て行ったのだから。
「とっくに……希望は持ててるんじゃないですか」
「――ええ。でも、私はまだアイツみたいに強くならなくちゃいけないから。だから結局ここにいるしかないのよ」
「そう……ですか」
瞬きをすればもう京子さんは明るい表情に戻っていた。そして椅子から立ち上がり、座っている僕の方に来て背中をどんと叩く。
「わっ、何するんですか!?」
「ほら立ったたった。静留が遅いからちょっと見てくるわ。君も暇ならボスのところへ行きなさい」
「なんで僕が――」
「“適任”だからよ。あの子が君と一緒に街を出るってことは、つまりそういうことなんだから」
よくはわからなかったが、京子さんが言うことに僕は逆らえない。仕方なく立ち上がり、部屋を出るために廊下へ通じるドアを開ける。その背中に再び声がかけられた。
「短い間だったけど、門番見習いお疲れさま。……ボスをよろしくね。あの子ああ見えて繊細だから」
「京子さんこそありがとうございます。空なら任せてください、と言いたいけど……僕ではあまり頼りにならないみたいです。よく気が利かないと怒られますから」
「それでいいのよ、君たちは」
「そうですか?」
意外な言葉が返ってきたため、思わず振り返る。窓の外の白い光が反射して眩しい室内に、京子さんの笑顔がある。
「不器用だから、私たちのボスは」
それには同感だった。だから僕は笑った。
「そうですね。じゃあ、行ってきます」
「お願い」
音を立てずに扉を閉める。廊下は突き当たりにしか窓がなく、ほんの少しだけ薄暗かった。どこかからか漂い始めた甘い香りの中、僕は空を探して玄関へと向かう。
-
- 14 : 2015/07/24(金) 23:36:24 :
そして裏口に立ち、僕はその光景を見た。
「空――?」
それは彼女と数ヶ月一緒にいて、一度も目にしたことのなかった表情。
泣いていたのだ。あの空が。
「どうしたんだ?」
慌てて駆け寄り、彼女の肩を掴んだ。それに驚いたように身体を強張らせ、空は目を見開いて言った。
「どうしたって――?」
流れる涙はそのままに。表情だけ驚愕のそれを貼り付けて。
「お前、泣いてるじゃないか……! 誰だったんだ相手って。何を言われた?」
「私が泣いてる? 相手ならとっくに帰ったわ。診療所に用があるというよりは及川さんに会いたかっただけみたい。日を改めると言っていたわ。それより肩が痛い……」
こいつはどうしてしまったのかと思った。こうして肩を掴むその間にも、頬には新しい涙が幾つも流れているのに。まるでそれに気付いていないかのような反応を彼女は僕に返した。
「泣いてるのに自分でわからないのか? ほら!」
頬を走った涙の雫を指で掬い、それを空の眼前に突き出す。そうして初めて彼女は自分の頬に手をやった。
「私……なんで?」
後からあとから流れる涙はいくら拭っても尽きることはないようだ。空の服は零れたそれで濡れており、受けきれなかったものは床へと落ちていく。
僕はそんな彼女の手を引いた。何故空が泣いているのか、何故それを自覚していないのか。――訊きたいことは幾つも思いつく。
でも、きっとそれより空に必要なものは誰もいない場所なのだと思った。おそらく空は京子さんや及川さんにこんな姿を見られたくはないだろうから、一旦ここを出る必要がある。
「……少し外に出よう。二人には悪いけど、後で説明すればわかってくれる人たちだから」
空は無言で従ってくれた。いつもの仏頂面を不自然なほど涙で濡らしたまま。
-
- 15 : 2015/07/24(金) 23:37:44 :
***
僕は空の手を引いたまま、人通りのない路地に来ていた。
本当は事務所に戻る方が落ち着けただろうが、京子さんや及川さんが探しに来たときに立ち寄る可能性が高いため止めておいたのだ。
手を離して彼女の方を見れば、頬の涙はもう乾いていた。
「ありがとう」
自分の目元に手をやり、そこが濡れていないことを確認すると空は言った。
「多分、さっきの人におめでとうって言われたから感極まったんだと思う」
「そうか……」
感極まって泣くなんて、全く空らしくもない。それに自分でそのことに気付かないなら、きっと感極まってなどいない。
でもそれを指摘するのは野暮な気がして、僕はそこで口をつぐんだ。すると空の方から声をかけられる。
「ごめんなさい、変なところを見せて。それにこんなところにまで連れてきてもらって」
「それはいいんだ。ここはそういう街だし、僕はいつも空に助けられてる。助け合い精神は大切だろ?」
ここに来たばかりの頃、空に何度となく言われたことだ。傷を抱えている者同士、助け合って暮らすのがこの街の最大の決まりなのだ、と。
「そうね」
「あのさ、空は僕と一緒に今日街を出るんだろう? なら、もう傷は大丈夫ってことだよな」
ずっと疑問に思っていたことを、今なら訊ける気がした。
「そうだけど……もしかして生きてた頃の話?」
「うん。嫌ならいいけど」
僕が死んだのは大した理由じゃない。存在している必要がなくなったから死んだだけだ。でも空は違うのだろう。それが十数年という重みだ。
だが、彼女は暫く考え込むように天を仰ぎ、自分と同じ名前の白いそれを眺めた後こう言った。
「いいわ」
「え、いいの?」
絶対に断られるものだと思っていた僕は、彼女があっさり頷いたことにかなり驚いた。
「今更大したことじゃないもの。それに、もう潮時だと思うから」
街を出るならば全て関係なくなる。なら、話してしまっても構わないということだろう。
そして彼女の話が始まった。
-
- 16 : 2015/07/24(金) 23:40:15 :
「中学にあがったばかりの頃、事故にあったの。雨の日で視界が悪い中、死角から出てきた車が私をはねた。――場所と雨の日だったことが悪くて、直撃だったそうよ」
だが空は生き延びた。何故なら彼女は自殺しからだ。事故で死んだならここにはいない。
「気付いたら病院の天井を見上げていたわ。そしてすぐに気付いた。何も思い出せないってことに」
生活とか勉強とか、そういう記憶は残っていたそうだ。人の名前も自分との関係も理解は出来る。だがその人との思い出が失われていた。
「母親の顔をみて、その人が自分の母親だということは理解していたの。でもその人と何をして、どういう会話をしてきたのかわからない。それだけじゃない。自分自身のことも、どういう人間だったのかわからなかった」
一度失った記憶は二度と戻らないだろうと医者に言われた。それだけではなく、それ以上の記憶障害を抱える可能性もある、と。
「久能空は二人いる。片方は事故で死んで、もう片方は事故で生まれた。でも別人になったはずの二人目の久能空は死んだ一人目の久能空の役を演じることを強いられた」
彼女の両親は娘が死んだことを理解しなかった。だから彼女は記憶をなくした不幸を嘆く暇もなく、自分ではない久能空を演じることになった。
「でも、私は前の私とは根本的に違う。だから少しずつおかしくなっていった。友だちと呼んでいた人は離れ、両親は私が少しでも前の私と違えば声を大きくして叱った」
そして空は死んだのだ。自分ではない自分を演じることはもう限界だったから。
「前の私が死んだなんて、両親には伝わらないから。前の久能空を今の私が汚してしまうなら、本当に死んでしまえばいいと思った。だから死ぬのは全く怖くなかった」
再び目覚めたとき、空はやはり空っぽのままだった。だがこの街に彼女の知人は存在しない。彼女が違う久能空であっても誰も咎めない。それが彼女にとってどれだけ幸福なことだったのか、僕には想像することしか出来なかった。
「この街は私の街。――私は確かに死んでいるけど、魂はこの街で生きている」
どこか穏やかに、微笑んでいるようにも見える表情で空は言う。さっきまで泣いていたのが嘘みたいに。
「じゃあ、空にとってこの街を出ることはまた死ぬことと同じなんじゃないのか?」
だから僕は問わずにはいられなかった。僕と一緒に街を出ると言った空の気持ちを聞かなければいけないと思ったから。
だが空はその問いに黙り込む。それを指摘されたくなかったとでもいう風に。
「空……本当に、僕と街を出る気だったのか?」
そうだとすれば、さっきの涙の理由も頷ける。空は街を出たくないから泣いたのではないだろうか。本当は離れられないんじゃないだろうか。この街で生きているというなら、彼女はこの街を出たら死んでしまうのだから。
空が街を出ると言ったのは本当に突然で、何の用意も後継者もなく管理者を辞めるなんてらしくないとすら思っていた。
彼女は堅物で融通が効かなくて、みんなそんな彼女を信頼していた。だからこそ、最後の我儘とも思える申し出を受け入れたのだ。
「最初からそんな気なかったんじゃないのか? 僕を見送って、空はまだ街に残るつもりだったんじゃないのか?」
「……そうね」
苦しそうに目を閉じ、空は言葉を喉から搾り出した。
「残るつもりだった。理由をつけて、やっぱり私はこの街にいなくちゃいけないからって。そう言うつもりだった」
「なら……なんで僕と一緒に街を出るって言ったんだよ。言わなければよかったのに」
僅かな苛立ちを隠せず、僕は口調を荒げた。この街の人々は空を大切に思っているのだ。だからこそ、彼女がいなくなれば大変なことになるであろうことを覚悟の上で見送ることに決めた。なのに空はそれを裏切る気なのかと、そういう思いを声にのせる。
-
- 17 : 2015/07/24(金) 23:41:52 :
空は何度も口を開き、何かを言おうとしては止めた。どの言葉なら僕に上手く伝わるのかを考えているようだった。
そんな空の様子も僕は今初めてみた。
「最初は本当に出て行くつもりだった。洋介と一緒なら、きっとそれが出来ると思ったから。でも……」
結局出来なかったのだ。自分でも気付かないうちに泣くほど街を出ることが嫌だったから。
「ごめんなさい、騙すつもりじゃなかったの。でも私はたとえ身体が死んでいたとしても、この街でずっと生きたい……。だから私は洋介と行くことは出来ない」
そう言って空は申し訳なさそうに頭を下げた。
「――駄目だよ空」
でも、僕は譲れなかった。譲れそうになかった。
「空。僕は絶対に君と二人で街を出る。それ以外の選択肢なんてないんだ」
そう言って空の手を掴む。それを驚いた顔で空は振り払い、僕に背を向けた。
「言ったじゃない……私はこの街で生きたいって」
――僕は確かに空のことについて何も知らない。彼女が僕のことを深く知っていたとしても、彼女は僕にそれを許してはくれないから。
だからこの数ヶ月、いつだって僕は空に翻弄されてきた。そしてそれこそが僕を前に向かせた。また生きたいと、思わせてくれた。
京子さんが言っていた通りなのだ。人は生まれてから死ぬまで一人。誰かと真に心を通わせることなんて永遠に出来ない。些細なことで人を傷付け、些細なことで傷付けられる。それなのに人は人としてしか生きられない。脆弱な存在。
だけど僕も京子さんと同じように思ったのだ。この口数の少ない女の子と出会い、一つ屋根の下で暮らすようになってから。
あの世界は冷たく残酷だけど、神様だっていない酷い世界だけれど。でも、きっと僕が思うほど人は冷たくない。
だって僕は今、こう思うから。
「僕は君が好きだから。今の君が好きだから――だからこの街に君を置き去りにして自分だけ生まれ変わるなんて出来ない」
空が好きだから、彼女が生まれたあの世界を生きたいと思えた。彼女の生きるあの世界を生きられると思えた。立ち向かっていけると思った。
こんな気持ちを教えてくれた空だから、手を伸ばしたいと思った。
「私は……」
こちらを振り向いた空の瞳から再び大粒の涙が零れ落ちる。何度も戸惑いながら言葉を探し、彼女は口を開く。
「……私だってどうすればいいのかなんてはっきりわかってる。でも私はもう自分をなくすことを考えられない。この街でのたくさんの思い出と人との記憶さえも、この世界を出れば全て消えてしまう。そんなことが耐えられるほど私は強くない……強くないから死んだのにっ!」
空が強くないことくらい、僕だってよく知っている。そう言いたかったけど、僕は代わりに違う言葉をかけた。
「でも、それでも僕たちはいつかこの街を出ていかなければいけないんだ」
「知ってるわよ……私は管理者なんだから」
下を向き、僕の言葉を否定するように何度も頭を振る空。長い髪の房がもつれて絡み合い、はらはらと落ちていく。涙の雫が地面に小さな染みを作った。――その全てを僕は愛おしいと思う。
「空。人はいつか死んでしまうんだ。そして僕らはもう死んでしまった。ここは死後の世界にすぎない。僕らのいるべき場所はあっちの世界なんだよ」
「わかってる。でも、だからってどうしようもないじゃない」
この街を出れば、そこに何があるのかはわからない。こんな世界があるくらいだから無ではないことだけははっきりしている。だから天国や地獄へ行くのか、それとも生まれ変わるのかくらいしか候補はないだろう。
僕はきっとこのまま生まれ変わるのだと思っていた。根拠はないけれど、そんな確信があった。空も同じなのだろう。そして生まれ変わるということは記憶をなくすということ。
僕らはこの世界に一度溶け、混ざり合い。再び新しい命として生まれるのだ。
-
- 18 : 2015/07/24(金) 23:43:17 :
「……どうしようもなくはないよ。だって決まってることなんだ。心の準備が出来ていないだけで、空だってこの街を出ることが最善だってわかってるじゃないか。だから君は僕の告白に答えを出さない。答えればどうなるか、わかってるんだろう?」
空はその言葉に身体を強張らせる。そして僕のことを涙の溜まった瞳で見つめた。
「好きだとしても、嫌いだとしても。……そのどちらを答えることも自分が許せない。僕と空の間にこれ以上の繋がりを持ってしまえば、空の心はどうしようもないほど傷付いてしまうから」
この街で傷をつくることは本来の目的に反している。白い街は傷付いた心を癒すための街なのだから。それがわかっている空は、街から出ることこそがこの街の住人の最終目標であることを理解している。
「それがわかってるのに……なんで好きだなんて……」
空には足りないだけなのだ。最後の一つ、ほんの少しの勇気が。再び別の自分を生きる勇気が。
僕らはもう死んでいる。自殺したのだから、誰よりもそれはわかっている。だけどこの居心地の良い世界にやってきて、この街で暮らして……まるで自分が投げ捨てた生を延長しているような錯覚に陥っているのだ。
そんな優しい夢にいつまでも甘えているわけにはいかない。でも、誰だってきっと幸せに生きられたなら死んではいなかった。
だから空のように迷ってしまう人間がいるのだ。それだけこの街は素晴らしい街だから。そしてその街をつくっていたのは他でもない空なのだから。
「――空のことが好きだからだよ。どうしても言っておきたかった。僕は空と違って我慢強くないし、我儘だから」
この想いも、この記憶も。全てこの街を出れば跡形もなく消えてしまう。でも、それが死ぬということだ。それが生まれるということだ。
僕はそれを選んだ。だから本来この気持ちも伝えるべきことじゃないんだろう。ずっと押し殺して行くべきだったのだろう。そして僕も最初はそうするつもりだった。
けど、ここで僕が空の手を引かなければ、彼女は永遠にこの街に居続ける気がするのだ。知り合いがどんどん去っていく寂しい街に気付き、空はいつか絶対に後悔する。それを思うだけで胸が痛んだ。
だから空にはこの言葉が必要だと思うのだ。僕と同じ希望を空にも知ってほしいから。
「ずるいわよ……。私はここに残るのに、洋介を送り出すって決めてるのに。なのに貴方は私を傷付けるようなことを言う。私の気持ちなんてとっくに知ってるはずなのに」
空は泣いた。もうその顔を僕は知っている。だけど一つだけ見ていない顔があるのだ。堅物で口数の少ない彼女が見せてくれなかった、本当は仏頂面よりずっと似合うはずの表情。
泣いている彼女の手を握る。今度は振り解かれることはなく、代わりにほんの小さな力で手を握り返してくれた。だから僕は彼女を困らせることを言うことが出来た。
「知らないよ。一度も聞いてない」
空は困ったように僕を見つめる。その涙を指で掬い、言葉を続けた。
「それに……僕は空と二人で街を出る。だから気持ちを伝えた。空が嫌だと言おうと僕の希望は空と一緒に行くことなんだから、絶対に変わらない」
本当はこの気持ちを伝えず、僕一人で街を出るつもりだった。でも空が僕と来ると言ってくれて、さっき初めて彼女の涙を見て。……僕は彼女の傍にいなければいけないと思った。一人に出来ない、してはいけないと。そう、心から思った。
-
- 19 : 2015/07/24(金) 23:44:52 :
「なんで洋介はそんな残酷なことが出来るの? だって街を出てしまえば全部なくなってしまうのに。この記憶も、好きって気持ちも……」
「ここで伝えなきゃ、いつ伝えればいいのさ。第一幽霊に恋愛なんて許されるわけもないし。元々返事だって期待してない」
「――よ」
「え?」
その声は空が今までに発したどの声よりも小さく、街路樹の葉がざわめく音にかき消されてしまう。
だが僕が二度目を願った時、空はずっと伏せていた顔をあげた。強い意志を感じさせる大きな黒い瞳を僕に真っ直ぐ向け、彼女は強い口調で言う。
「私、洋介のことが好きよ。出会ったときから気になっていた。貴方はこんな私と出会った瞬間から向き合ってくれた人だから」
中学生のような頼りない外見に、大人の思考。その歪さは年々空を追い込んでいったに違いない。彼女の精神が成長するにつれ、時の止まった身体はそれを裏切る。
初めて会う人はその歪さを恐れて本能的に彼女を避ける。それに大抵の人は自分のことで手一杯でそれどころじゃないからだ。人を傷付けないことよりも自分を傷付けないことに一生懸命で……。
でも僕は少なくともそういうところからかけ離れていた。傷付いていなかったし、この世界に対して好奇心が抑えられなかった。だから空とも普通に接することが出来た。
「だから、貴方とこの街で生きたいと思っていた。好きなんて言う機会がなくても、この街にいる限り私たちはずっと一緒にいることになるから。でも……」
洋介は違うのね、と寂しそうに呟く。その瞳に涙はもう溜まっていなかった。
――そう思ったのに、一瞬のうちにまた涙が溜まっていく。言葉に涙声が混ざる。
「なんで洋介と向こうで会えなかったんだろう……。なんで全部忘れないと生まれ変われないんだろう。私は精一杯頑張ってきたのに、なんで生きていた頃からの小さな願いすら叶えてくれないんだろう……」
僕はそっと彼女を抱き寄せる。胸を貸すように彼女の頭を押し付け、不器用ではあるが優しく髪を撫でた。
「街を出よう。たとえもう会えなくなるとしても、僕は空が生きる世界を諦めないから。二人で生まれ変わろう?」
「私は……」
「大丈夫。あっちの世界には僕がいる。絶対に生きてるから、信じてくれていい。空を一人であの世界に生きさせない」
「私が忘れたとしても、洋介が忘れたとしても……絶対に出逢える?」
僕の服が空の涙で濡れる。死んでいるはずのに何故だか熱く、抱きしめた空の身体も暖かい。幽霊のような存在でも、僕らの魂は確かに生きているのだ。
だから頷いた。魂に刻みつけるように、深く。
「約束する。だって、僕も空と出逢いたいから」
そして不完全ではあったけど、微笑んでみせた。空はそれを見て安心したように顔を崩し、泣き顔を見せないように僕の胸に顔を押し付けた。
「記憶の壁なんて越えてやる。空がそうしてほしいなら、僕は全力で頑張るから」
「……うん、わかった。私はもう疑わないし、不安にもならない。洋介と一緒に街を出る。だから――」
どうか、記憶をなくしても二人が再び巡り会えるように祈る。
「生きていた頃、僕らには良いことなんて数えるくらいしかなかった。だから次こそは自分からやってやろう。一緒に幸せになろう」
神様なんて優しい存在はない。いたとしても地球を存続させることにきっと一生懸命で僕の願いなんて聞いてくれない。だからもう僕は願うことをやめた。
今はただ、生まれ変わった後の自分が空を見つけるように祈るだけ。それは確かな未来の自分への期待だ。
彼女の小さな手を握る。その手から暖かい体温が伝わってくる。
「ありがとう、空」
必ず成し遂げるのだから、願いなんて必要ないのだ。
「うん」
ただ、僕は空に逢いたい。
-
- 20 : 2015/07/24(金) 23:46:45 :
***
そして僕たちは京子さんと及川さんの待つ診療所へと戻った。二人には急に居なくなったことを責められたけど、わざわざ焼きたてを味わえるようにと及川さんが温めてくれたクッキーは本当に美味しいものだった。
四人で過ごす時間はあっという間に過ぎる。気付けば壁時計の針は夕方を指し、門番としての仕事もない僕たちは完全に業務終了となった。
「時間……ですね」
「はい。これで全部終わりです」
何杯目になるかわからないお茶を飲み干し、僕たちは席を立つ。
「最後までこうしてお二人とお話できて、私とても嬉しかったです」
及川さんは目尻に涙を浮かせていた。出会ったときからずっと毎日こうして過ごしていたのだから、及川さんとの思い出も他の人に負けないくらいある。
「私も及川さんといられて楽しかった。お茶もお菓子も本当は嬉しかった」
いつも空はサボり癖のある京子さんを追ってここに来ていた。そこでどさくさに紛れて及川さんが差し出すそれらをいつも空は渋々口にしていたように見えていた。
「わかってました。空さんは真面目だからけして口にはしてくれなかったけど、絶対に残していかなかったので」
「よかった。やっぱり貴女に診療所勤めをしてもらって正解だった」
空は及川さんに関しては強い思い入れがあるらしい。街に来て間もなく、まだ右も左もわからないような及川さんの人の役に立ちたいのだという希望を聞き入れて、この誰もいない寂れた診療所勤務を勧めたのは空だ。
「はい。幸せです」
笑顔を見せてくれる及川さんに、空もほんの少しだけ表情を緩ませていた。
そしてみんなで診療所の外へ出る。穏やかな風が吹く中、相変わらず眩しい真っ白な通りは人でごった返していて賑やかだった。
「じゃあ、二人ともお元気で!」
「及川さんもずっとありがとうございました。短い間でしたが楽しかったです」
「私は任期がまだ残っているので診療所勤めですが、無事に終わったらすぐそっちへ行く予定なんです。もしご縁がありましたら宜しくお願いしますね」
「ありがとう及川さん。一人で診療所を任せてしまったことを後悔したこともあったけど、貴女が充実した日々を送っているなら嬉しい」
及川さんは見送りには来ないようなので、この診療所でお別れになる。門に近い診療所ということで、僕も何度もお世話になった人だ。殊更多くお礼を言い、何度も頭を下げた。
「ほら、二人とも静留をあんまり困らせないでくれる? 別れ難くなるじゃない」
「いえ、私は平気ですよ京子さん。それに私こそたくさんお礼を言わなきゃいけなかったし、ちょうどいいです」
「お礼なんて……僕なんて迷惑ばかりかけましたから」
「ううん、洋介さんはちゃんと私に色々してくれましたよ。空さんも洋介さんも、私の恩人なんです」
及川さんは笑って言ってくれるが、僕には全く心当たりはなかった。だがそんな僕の背中を京子さんがバシバシと叩く。
「いた……いててて」
「なーに惚けてるのよ少年。この街はギブアンドテイクが決まりでしょう? それを守ってる限り、誰だって誰かに対して親切にしてる。近藤くんも静留に対して何かしててもおかしいことじゃないわよ」
「はい。全くおかしくないんです。ですよね、空さん」
え、と隣で小さな声が聞こえた。急に話を振られて戸惑う空がそこには立っている。
「ふふふ、今日はいつにも増して表情豊かですね空さん。本当に……安心しました」
穏やかに笑い、及川さんは空の両手をとった。
「街の人を代表して私がお礼を言いますね。本当に……本当にお疲れさまでした。これからは自分のために頑張ってください。働きすぎないように、たまには我儘も言ってくださいね? それでは、どうかお二人ともお幸せに」
お幸せに。その言葉は街を出る人に一番贈られる定番の言葉だ。だがこの言葉以上にこの世界の住人に相応しい言葉など、きっとどこにも存在しない。
――せめて再びこの世界に足を踏み入れることのないように、次はどうか幸せに。
「さぁ、行きましょうか」
「わかりました。じゃあ、及川さんも。どうかお幸せに!」
「お元気で」
手を振って別れる。舌に残るクッキーの甘さもそのままに、笑顔に一筋の涙が光る及川さんに精一杯感謝の声をかけ、僕と空は京子さんの後を追いかけた。
-
- 21 : 2015/07/24(金) 23:48:50 :
-
「待っててね。書類書いてくるから」
「あ、はい。なんだか不思議ですね。僕が書類を書いてもらう立場だなんて」
そして、僕たちは門の前に行く。ちょうどこの街にやってきた人が目を覚ます辺りに立ち、僕と空はそれを見上げた。特に飾り気のない真鍮製のレリーフだった。
「この地には神も奇跡も存在しない。ここにあるのは真実を探す手掛かりと、それを選ぶ権利のみ――。僕は真実を見つけられたんだろうか」
その薄汚れたレリーフに刻まれた言葉は、空の前にこの街の管理者をしていた人のものだ。大抵の人がこの世界で一番最初に目にする文章がこれになる。
「私は……見つけられたと思う」
右隣に立つ空は僕の手を握り、きつく力を込めた。それに応えるように僕も彼女の手を握る。
漠然としかわからないけど、結局僕がこの街で得た答えはこれだけだ。
「……人は何度でも強くなれる。強くなろうと思える限り、変われる」
「うん。勇気を持てるね。でもそれにはちゃんと支えてくれて、時には叱り付けてくれて……そんな素敵な人が必要なんだね」
――僕は綺麗事を言うつもりはない。だから問われればいつだって、生きていれば苦しみだらけだと言おう。
誰もそこから逃げられないし、誰もそこから遠ざけてはくれない。そして、人は孤独な存在だ。どんな時でも人は一人だ。仲間といるその時間も、誰もが常に一人だ。
人は苦しみに喘ぐが、孤独である為誰にもその痛みは理解出来ない。そして他人の痛みもまた、理解することは出来ない。
浅い共感はしばしば誤解を生み、更なる悲しみを作り出す。人は愚かな生き物故に、生きている内はそれを繰り返す。
だが人は、それでも人としてしか生きられない。どこまでも脆弱な存在だ。
「僕は空に逢えた。だからもう何も怖くない」
それでも、だからこそ僕も君も人を愛そう。
人が傷付く世界で、人を傷付ける世界で、変わらず歩み続けよう。
僕らが思う孤独は、本当に孤独なのか。
生きていれば本当に苦しみだらけなのか。
僕も君も、答えを出すにはあまりに早すぎるじゃないか。
そうだろう? 空。
「約束、覚えてる?」
「もちろん。絶対に一人にはしない」
「……うん」
そよ風が空の髪を揺らした。邪魔そうに右手でそれを抑え、彼女は僕の名前を呼ぶ。
「洋介」
「ん?」
「ありがとう」
「こちらこそ。ありがとう」
そう言い合う内に京子さんがやって来る。僕らのしっかり繋いだ手にきっと気付いただろうに、それには気付かないフリをしてくれたのが嬉しかった。
「はい、じゃあ時間書いておいたから」
「お疲れさまです京子さん。街を、みんなを宜しくお願いします」
「ボスは気にしなくていいのよ。まぁ、時々はサボるけどぼちぼちやるわ」
「それは駄目です」
「えー」
僕も最初から最後までお世話になりっぱなしだったこのサボリ魔に礼を言う。
「僕もお世話になりました。見習いなのにお先に失礼してすみません」
「はいはいさっきも聞いたわよそれ。そこそこ役に立ってくれたからチャラでいいわ」
「本当にありがとうございました」
「っ……こちらこそ。ありがとうございました」
背筋を伸ばし、角度を意識して礼をした。すると驚いたような顔をして、京子さんの方も角度の綺麗なお辞儀を返してくれる。口調は少しだけ嫌味っぽかったけれど。
「またいつでもどうぞ、とは言えないのが残念なところね」
「本当ですね。寂しくなります」
「それはこっちのセリフよ。でもまあ、おめでとう」
背中をドンと叩かれ、僕は前によろける。思わず空の手を離してしまったけど、横目で見た彼女の顔はほんの少しだけ笑っているように見えた。
「いたた……突然はやめてって言ってるじゃないですか」
「あら、そんなこと言ってたっけ?」
「惚けるのもいい加減にしてくださいよ……死んでるからもう折れたり曲がったりしないとはいえ、転んだらこっちは痛いんですから」
後ろに手をやり叩かれたところを撫でる。京子さんは大笑いしながらその様子を見ていた。
-
- 22 : 2015/07/24(金) 23:50:01 :
-
「――じゃあ」
「ああ、行こうか」
空の言葉が合図だった。僕たちは再び手を繋ぎ、白い靄の中に片足を踏み入れる。
「じゃあねー! もう来るんじゃないわよー!」
「さようなら! 京子さんたちもお元気で!」
後ろを振り返り、何度も声をかけた。そしてその声もどんどんと遠くなる。
僕たちは白い靄の中、ついに二人きりになった。お互いの姿すら見えない強烈な白の中、空の声がエコーがかかったように響く。
「洋介」
「うん。もうすぐだ」
「――大丈夫。もう、怖くないから。一緒だから」
繋いだ手は離れない。最期のその瞬間まで、絶対に。
「好きだよ、空」
足を一歩踏み出す度、自分の身体の感覚が薄くなる。
「うん――私も好き」
頭も何だかぼうっとして、気を抜けば意識を持っていかれてしまう気がする。
「遅くなるかもしれないけど、待ってて」
でも、この会話がきっと最後だから。だから伝えなきゃいけなかった。
「ううん、私から会いに行く。洋介が私に気付かなくても、きっと見つける」
僕は君をこの街から連れ出すために死んだのかもしれない、なんて甘い言葉は言えないけど。
「そっか。じゃあ、きっと早く会えるな」
握った手の感覚が消えてしまっても、僕は君を――、
「洋介――ありがとう」
「絶対に、絶対に空を一人になんてしないから」
迎えに行くって、約束するから。
いつか再び死ぬその日、きっと僕らは思うだろう。
たった一人で生き、たった一人で死んでゆく。その長い道に一体何があったのかを振り返るだろう。
その時まで僕らはまだ、信じてみてもいいんじゃないかな。
やがて死にゆく僕らのために。
-
- 23 : 2015/07/24(金) 23:51:10 :
***
一歩、また一歩と足を踏み出す。
点滅する電光掲示板が視界に入った。独特な駅のにおいが鼻につく中、その灯りもどこか嫌なものに感じる。
でもそんなことはもうどうでもいいのだと、嫌なことを忘れるために頭を振って一歩でも足を踏み出す。
「まもなく五番線に電車が参ります――」
それなりに人が並んでいるため、それを避けるようにどんどんとホームの端へ歩いた。
「黄色い線の内側に――」
途中走っているサラリーマンに肩をぶつけられ、盛大にカバンを吹っ飛ばしてしまった女子中学生を見かけた。良かったことに中身は出ていない。でも彼女は恥ずかしそうに鞄を拾い、早足で先を急ぐ。
とはいえ僕の方も急いでいたし、元々歩幅は圧倒的に僕の方が勝る。とうとう人の少ない場所を見つけ、女子中学生より先にそこに並んだ。
すぐにその女子中学生も僕の隣に並ぶ。朝が早いためとても眠い。頭の中に霞がかかっているようだ。
だが、隣の女子中学生が不思議な行動にでた。並んでいたその場所を離れ、一歩ずつ前に進んでいるのだ。あまりにその動きが自然なため、誰もそれに気付かない。
おい、危ないぞ。そう言おうとしたけれど、それより先に轟音が飛び込んでくる。
「え……?」
誰かの惚けた声が虚しく耳に響く中、電車がホームに流れ込む。
気づけば身体が勝手に動いていた。自分でも不思議なくらいのスピードで女の子の首根っこを掴み、渾身の力で引き戻す。
「はぁ、はぁ――」
肩で息をし、投げ飛ばした女の子の方を見る。怯えたように身体を震わせ、目の前で止まる電車を見ていた彼女に這い寄った。
「怪我は……ない?」
気づけば僕らの前には人だかりが出来ていた。みんな僕らを気遣うように声をかけてくれる。その内駅員さんもやってきて、どんどん付近は賑やかになってきた。
でも僕は彼女の傍を離れなかった。
-
- 24 : 2015/07/24(金) 23:52:14 :
長い黒髪。細く、折れそうな手首。腰も中学生にしては細くて頼りない。蒼白になっている顔は元から白いのだろうが、赤味のなさが際立って見る人を不安にさせた。
「へ、平気です……」
何とか搾り出された声は擦れている。よく見れば床で擦ったらしい膝から血が滲んでいるが、それ以外はどこも怪我をした様子はない。
「良かった……君が轢かれなくて本当によかったよ」
はは、と笑えば彼女はびっくりしたように目を丸くする。大人びた雰囲気を持っているが、こうしてみるとまだ幼いことがよくわかる。
「立てますか? 大丈夫ですか?」
駅員さんの必死な呼びかけに数回しっかりした口調で答え、彼女は再び不安げに震えた。どうやら駅長室に連れて行かれるらしい。
「僕も彼女と行きます」
「え? あー、失礼ですが知り合いですか? 大学生?」
訝しげに僕を見つめる駅長さん。そんなわけあるかと思ったが、適当に返事をする。
「いえ、私服ですが高校生ですよ。彼女に怪我をさせたのは僕なんです。だから一応名前を訊いておかないといけないので――」
「はぁ、そうですか。では二人ともこちらへ――」
学校には遅れてしまうけど、遅刻くらい大したことないだろう。
そっと、駅員さんと話す僕の裾を女の子が握る。その感触をどこかで感じたことがある気がしたけど、今は気にしている余裕はなかった。
「大丈夫、僕はそこまで怪しい奴じゃないから」
「うん……なんとなくわかる」
「そっか。まあ、何も気にしないでいいから笑ってよ」
「わかった。よろしく、背の高いお兄さん」
しっかりと手を繋ぎ、僕たちは歩き出す。隣で笑う彼女がさっきよりもずっと明るい表情をしていたから、僕が学校を遅刻する意味はきっとあるはずだ。
こうして、僕と彼女は出逢った。
《了》
-
- 25 : 2015/07/26(日) 05:26:43 :
- お疲れ様です。すっかり読み入ってしまいました。
-
- 26 : 2015/07/27(月) 07:50:26 :
とても素敵なお話でした
文章力が高いので読みやすいです!
もっと伸びろ!!
-
- 27 : 2015/07/30(木) 13:01:45 :
- とても綺麗なお話でした。
イイハナシダナーで終わる作品だと聞いたのに、何度も熱いものが込み上げては堪えての繰り返しでした。
騙しやがったなちくしょう。
わた先生の次回作も期待しております。
-
- 28 : 2015/08/05(水) 15:56:43 :
- すごい…!感動的なお話でした…!
わたせんさん、お疲れ様です。
またこういうのを書いてほしいです♪
-
- 29 : 2016/04/14(木) 18:57:54 :
- 素敵な作品ですね(*´ω`)
感動しました!
- 著者情報
- 「恋愛」カテゴリの最新記事
- 「恋愛」SSの交流広場
- 恋愛 交流広場