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このSSは性描写やグロテスクな表現を含みます。

この作品はオリジナルキャラクターを含みます。

【ORIENTAL(オリエンタル)】

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  1. 1 : : 2015/10/29(木) 23:35:27


    進撃世界の東洋人設定をモチーフにしたSF作品です


    《本家ミカサは出てきません》←ここ重要


    舞台は東洋の小国

    進撃の原作では滅びてしまったらしい一族が、まだ世界に在った頃のお話しです


    以上の事をご了承の上、それでも大丈夫な方はお進み下さいm(_ _)m





  2. 2 : : 2015/10/29(木) 23:45:44



    〜序〜




    おや…

    こんばんは




    ーーーまだ休ませては貰えないのですか…



    そんなところに立ってないで奥まで御入り下さいませ



    嗚呼、灯りは持ち込まないで下さいね

    目に染みるンですよ…



    ずっと暗闇の中で甚振(いたぶ)られておりますンでね





    え?臭いますか…?

    …どうなんでしょう……

    もう何も感じませんねぇ…







    貴方がた…確か「兵士」様でしたか…
    入れ替わり立ち代り訪れては (なぶ) って行かれる


    こんな婆を慰み者にしたところで何が愉しいやら…


    よっぽど珍しいのですね
    東の國の女が…


    それとも 神名(カムナ) を継ぐ巫女だからなンでしょうか…





    どちらにしても同じ事ですが







  3. 3 : : 2015/10/29(木) 23:58:09




    ええ、ええ、分かっておりますよ

    一旦穢れた器にはもう何の力も御座いません

    「兵士」様のお好きになさって下さいませ







    あ…

    その前に一つだけ

    「兵士」様の御名前を教えて頂けませんか?





    いえね…

    私は恐らくもう長くは持ちません









    嗚呼…

    こんな姿になってもまだ「美しい」と言って下さいますか…


    「兵士」様の目に私がどのように映っているかは存じませんが、己の身の事は自身が一番良く解って居ります


    「兵士」様が最後のお相手であるなら、せめてそれぐらいの慈悲はお与え下さいませ








    おやおや…

    何故そのような悲しそうな顔をなさいます?







    ……左様ですか

    「兵士」様の御名前は「ゆりうす」と仰るンですねぇ


  4. 4 : : 2015/10/30(金) 00:04:09




    嗚呼……

    泣かないで下さいませ「ゆりうす」様


    器が滅びる事には何の恐怖も悲しみも御座いません


    東の國では森羅万象全てに神が居ります


    森や大地、湖や井戸

    草の葉から零れる朝露のひと雫にさえ精霊が宿るンで御座います


    ええ、身の回りの総てに…で御座います

    剣や衣、釜戸、笊のひとつにも御霊が居ります




    そして…

    こうしてお話して居る「言の葉」にも言霊が宿ります







    気味が悪いですか?









    ご心配無き様に申し上げますが、この國の神共は「何も為さぬ神」で御座います


    救うことも罰することも御座いません


    唯そこに在るだけの御霊であり、自然の (ことわり) そのものなンです



    「目に見える神」をただひとつの神として祀り、救いを求める國の方々には、不可思議なものに見えるのでしょうねぇ






    ーーーでもこの國では

    それはまだ目も開かぬ赤児のうちから当たり前として受け入れられて居る「 現世(うつしよ) の 理 」なのですよ







  5. 5 : : 2015/10/30(金) 00:05:24




    さて…


    長話が過ぎました…


    私の器を使う最後のお方として

    存分に御愉しみ下さいませ


    まだ月も空の天辺まで上がり切っては居りません







    (とき) はたっぷり残されて居ります故…









  6. 6 : : 2015/10/30(金) 00:06:25










    ORIENTAL(オリエンタル)
    〜滅びゆく一族の記憶〜










  7. 7 : : 2015/10/30(金) 21:35:25



    秀真(ホツマ) の國】





    「おーいコトイ!カシワメの赤児が産まれたぞ!」


    岩場に腰を下ろし、ぼんやりと釣糸が波に揺れるのを眺めていた偉丈夫は、その声を聞いた途端、竿を放り投げて立ち上がった


    「早よう戻れ!」



    言われなくとも、もう走り出している


    逞しい体躯を存分に扱い、その愚鈍な獣の名には相応しく無い敏捷さで崖を駆け上がる姿は、さながら神の山に住まうアオシシのようであった


  8. 8 : : 2015/10/30(金) 21:38:15



    ひと息で里まで戻り、 陽石(あかいし) が積まれた苫屋の入り口をくぐると、そこには既に巫女の姿があり、今まさに産まれたばかりの赤児に真名(マナ) を授ずけようとしていた


    ーーー間に合った…


    荒く乱れる息をなるべく静かに整えながら、巫女の口が作り出す「音」を待つ


    呼吸が穏やかになるまで待たぬうち

    微かに波の音が届く以外静まり返った苫屋の中に、重々しくその「音」が告げられた






    『カ ム ナ ギ』







    「ーーー!!」


    コトイの背に冷たい汗が流れる


    駆け通して来て火照っているはずの身体が一瞬で冷えるのを感じた







    ーーー神の響きを真名に持つ者は器の命と引き換えに現世に現れる




    その理が誠ならば褥に横たわる彼の妻は…




    巫女はそんなコトイの思いにも関せず赤児を手に取り、柔らかな腹を掌に乗せた

    手の上で俯せになったその背に右の人差し指で紋様を描く



    『神凪』


    ーーー神を慰め鎮める者



    描かれた紋様は朱く浮かび上がり



    やがて吸い込まれるように赤児の中へと沈んで行った






  9. 9 : : 2015/10/30(金) 22:10:48



    ーーー15年後



    生を受けた時に母の命を奪い「母殺し」の業を負った少年は、牡鹿のような明るい髪を風に靡かせ、父親譲りのしなやかで逞しい体躯を駆使して獲物を追っていた


    深く染み込んだ真名の業に、せめて立ち向かう力を

    …と、彼の父であるコトイは我が子に『ツルギ』の仮名を与えた


    ツルギはその仮名の通り、鋼のように折れない意思と、真っ直ぐな心根を持つ少年に育っていた




  10. 10 : : 2015/10/30(金) 22:20:13



    「コマ!右へ!」



    その声に、ツルギと並走していた長身の少年が機敏に方向を変える


    生い茂る下草をものともせずに駆けるその姿は、まさに駿馬の如く美しいものだった


    「ヤァァァー!!ヤァァァー!!」


    コマと呼ばれた少年は、大声を上げ、銅羅を鳴らしながら獲物を罠に追い込む


    「ツルギ!掛った!」


    コマがそう叫ぶのと同時に、獣の咆哮が森の空気を切り裂いた

    ツルギは手に持つ槍を握り直し、罠へと急ぐ


    後脚を罠に縛められ、尚も逃げ出そうとする 猪 は、その身よりも強靭な罠に己の脚を食い込ませ、肉が削げるのにも構わず本能のままに暴れていた


    「急所を狙え!仕留めろ!」


    銅羅を放り投げ、自らも槍を構えたコマに頷いて応えたツルギは、気合いを込めて猪の頭を突いた


    「うわっ!!」


    思いの外浅いところで槍の先が止まり、身体ごと持って行かれそうになる

    致命傷を与えられなかった猪は頭から槍の角を生やしたままツルギへと牙を向けた


    辛うじてそれを躱すが、態勢を立て直す間も無く今度は前脚の蹄が彼を襲う


    「ツルギ!」


    コマも加勢するが二人掛かりで闇雲に刺し続けても、猪の勢いは衰える事を知らなかった

    既に3本の槍が猪の身体に残されたままになっている

    まだ牙も生えきってはいない若い猪であっても、その生命力は恐ろしく強かった



  11. 11 : : 2015/10/30(金) 22:30:31


    その時



    「コマ!ツルギ!どけ!」




    突然高い位置から掛けられた声に、二人の少年は反射的に身を引いた



    「ヤァーッ!!」



    凛とした声が耳障りな獣の叫声を掻き消す


    大きく突き出した岩の上から鮮やかに身を躍らせた少女は、振り被った斧を猪の脳天目掛けて力一杯叩きつけた



    ガッ……!!




    飛び散る鮮血と脳漿が少女を赤く染める



    頭を割られた猪はそれでもまだ前脚で空を掻いていたが、やがてこと切れて地に伏せた



  12. 12 : : 2015/10/30(金) 22:35:03



    「あーあ…急所を外したままこんなに暴れちまったら、汚れた血が回って食えたもんじゃ無くなるね」


    口元に付いた血をペロリと舐めながら、斧を持つ少女は呆れた様に言い放った


    「大体あんたら、いつ猪を狩っていいって言われた?」


    その問いに、二人の少年は気まずそうに顔を伏せる


    「どうなんだい?コマ。父さんが許可を出すのをあたしは見なかった気がするけどね?」


    顔を覗き込まれたコマは、何も言い返すことが出来ずに俯いたままだ


    「ま…まだ若い猪だったし…いつも狩ってる鹿よりずっと小さかったから…」


    顔を上げ、気丈に応えたツルギの勇気を、少女の鋭い視線が一瞬で砕く


    「だから何だって?ツルギ。
    確かにあんたの槍は鹿なら一撃で倒せる程強い。
    だけど猪には全く通用しなかっただろ?」


    調子に乗るんじゃないと一喝されて、ツルギもまた何も言えなくなってしまった



    「助かったよ…タカメ…ありがとう」


    ツルギが素直に礼を言い


    「ゴメン…姉ちゃん…」


    コマもしおらしく頭を下げる


    その萎れ具合を見たタカメは、盛大な溜息と共に二人に発破をかけた


    「いつまでグズグズしてるつもり?
    早いとこ血抜きしないと、本当に食えなくなるよ?!」


    「「はいっ!!」」


    止めを刺す助けはしたが、その後を手伝う気は更々無いらしい

    罠を外すのに苦心している二人を岩の上に腰掛けて眺めながら、呑気な口調で話し続ける


    「あんた達、この獲物は責任取って二人で食い切りな。
    暫くは臭い猪肉で我慢するんだね」


    「げ…」


    「……ぅぅ」


    「なに、燻すか干すかすれば食えないこと無いさ」


    明るく言い放つタカメとは裏腹に、少年二人は自らの血の気の多さと、浅はかさを深く反省したのだった





  13. 13 : : 2015/10/31(土) 21:39:13



    ようやく獲物の下処理を済ませ、里まで猪肉を運び込んだ時には、もう既に西日が海を赤く染める刻となっていた


    「今日から毎日猪肉か…」


    疲れ切った様子のコマが力無く呟く


    「干し肉にすれば暫くは食いもんに困らないな」


    「お前はいいよな…
    俺はタカメの目があるから勝手に別のもんが食えない…」


    コマにとって狩の腕が良く、里でも一目置かれている三つ年上の姉の存在は、両親以上に厄介なものだった


    「タカメだって最初の頃は同じ思いしてたんだろ?」


    「まあな…あん時はワザと美味い肉や魚を見せびらかして悔しがらせてやったけど…」


    「なら同じ事されても文句は言えねぇな」


    「ちぇ…」


    井戸に寄り、汚れた身体を洗い流しながらそんな事を話していると、海岸の方から榊を手にした少女が歩いて来るのが見えた


    「マツリメだ!おいツルギ、俺、猪臭くねぇ?」


    「分かるかよ…俺だって猪の血浴びたんだから」


    チッ…役に立たねぇな。と、いわれの無い文句を付けられたツルギが、幼馴染の身勝手さに軽く溜息をついた時にはもう、コマは少女に向かって走り出していた



  14. 14 : : 2015/10/31(土) 21:42:09


    里で唯一無二の若巫女として大切に護られているマツリメは、その美しい容姿も相まって、里の男達からは憧れの眼差しで見られていた


    海辺の里に生きる女達はみな、タカメのように日に焼けて逞しい

    確かにマツリメの白く滑らかそうな肌の質感は、まだ少女と呼べる歳にもかかわらず妙な艶かしさを感じる


    触れることは叶わぬ神聖な若巫女と知りながら、男達はその美しさと色香の誘惑に負け、吸い寄せられるように彼女の元に集まるのだ


    そんな男達をツルギは不思議な思いで見ていた


    マツリメを美しいとは思う
    しかしそれは花を美しいと思う気持ちと変わらない

    コマが言うには、自分はまだガキだからマツリメの良さが分からないらしいが…

    分かったところで手の出せない女に入れ込んでも、己が辛くなるだけだ


    ごく自然にツルギはそう思っていた


    己の生と同時に母を喪ったツルギに乳を与え、その後も何かにつけて世話を焼いてくれたのは、コマとタカメの母親だった


    『一人育てるのも二人育てるのも変わらないさ。
    立派な乳が二つもついてるんだからね!』


    そう言って大らかに笑ったという彼女は逞しく、そして優しい


    彼女こそがツルギにとっての母親像であり、女性像でもあった



  15. 15 : : 2015/10/31(土) 22:01:53




    ツルギが苫屋に戻ると、コトイは既に床の中にいた

    魚油の行燈に火を入れると、仄暗く照らされた室内には、良く手入れされた網が重ねられているのが見えた


    そうか…明日は漁日だった…


    浜から来たマツリメは、巫女様の代わりに船魂を清めた帰りだったのだろう


    日の出前に海へ出る漁日の前日は、日の入りと共に床に就く

    何十年と繰り返されてきたその営みは、父の身体に染み付いている


    物音を立てて寝入り端の彼を起こしてしまう事を懸念したツルギは、つけたばかりの行燈の火を落とし、再び外へ出た





    まだ宵の口にも拘らず、里の中に人影は無い


    明日に備えて眠りに着いた者も居るだろうが、そもそも日が落ちてから外に出て活動することはあまり善しとはされていなかった


    静かに里から離れ、浜へと向かう


    昇り始めたばかりの月は水平線に近い所で静謐さを湛えて輝き、凪いだ水面を穏やかに照らしていた


    巫女様の神託通り、明日は良い漁日になるだろう


    ーーーまぁ…俺は猪肉だけどな…


    自虐的な思いに苦笑しながら海を見つめていたツルギは、軽い違和感を覚えて目を凝らした


    「舟…?」


    凪いだ海の沖合に、小さな舟影らしきものが見える


    明かりも灯さずこんな時間に漁に出るような非常識な里人はここには居ないはずだった


    ならば大陸からの船だろうか…


    否…


    大陸から来る商船は、まともな港も無いような小さな里に立ち寄ることは無い


    それに沖を通り過ぎて行く巨大な帆船の姿はツルギも何度か見かけた事があった


    目の前に漂う舟影はもっとずっと小さく頼りない


    人の住まぬ小島近くから動くことの無いその舟が妙に気になったツルギは、着ていた衣を脱ぎ、腰紐で肩に括り付けると、小舟に向かって泳ぎだしていた



  16. 16 : : 2015/11/01(日) 00:17:08



    「……これは…」


    歩くより早いうちから泳ぐ事を覚えたツルギは、程なく小舟に辿り着いた


    船上に人影は見当たらなかった


    しかし小島の岩場に舳先をつけた舟の中を覗き込むと、そこには異国の服を着た男が倒れており、その側には襤褸を纏っただけの少女が蹲って震えていた


    「……大丈夫か?」


    ツルギの声に少女がゆっくりと頭を上げる


    その瞬間、彼の全身に戦慄が走った

    それは全身の毛が逆立つような感覚だった


    漆黒の髪と陶器のように滑らかな白い肌

    艶やかな唇は血を吸ったばかりのように紅く

    髪と同じ色の瞳に命の光は見つけられない



    マツリメもまた美しい少女だったが、彼女とは比べものにはならない程の妖しい美しさ…


    ツルギはそこに『人外に棲まう者』の匂いを感じ取り、身を硬くした




    「お前は…何者だ…?」



    下穿きに携えた短刀に手を当てて問いかける


    少女の視線はツルギの身体を透かして、遠い彼方を見ているようであった





    ーーーソラメ…



    そう呟いた一瞬だけ瞳に光が戻る



    「ソラメ…?」


    里では聞いたことのない名だった


    やはり近くの島から流れ着いたのか…


    「どこから来た?」


    少女はそれには答えず、虚ろな視線を彷徨わせながらもう一言囁き





    そしてそのまま気を失った






  17. 17 : : 2015/11/01(日) 21:27:53

    ーーーーーー

    ーーーー




    「ソラメ?おかしな仮名を持った子だね…」


    少女を小舟ごと岸まで運び込んだツルギは、漁船が繋がれている港を避け、あまり人が訪れることもない小さな入り江に舟をつけた

    干からびたように縮んでしまっている異国人の死骸と、物の怪を思わせるほど妖しく美しい少女

    どちらも里の結界の中に入れるのは躊躇われたのだ


    夜明けを待って呼び寄せたタカメは、少女を一目見るなりその眉根を寄せ、慣れた口調で弟のコマに命じた


    「コマ、巫女様にお知らせしてきな」


    姉の言葉の有無を言わせぬ響きに、コマは何も言わず走り出す

    既にツルギは昨夜からのいきさつをタカメとコマに話していた


    空目(ソラメ) って…『何も見ない者』ってことか?」


    「ああ、私が親ならそんな不吉な仮名は絶対につけないね」


    昨夜船上で見た、虚ろな漆黒の瞳を思い返す



    血族以外決して明かす事の無い『真名』と、通り名として使われる『仮名』



    『真名』は生を受けた時、里の巫女から授かり

    『仮名』は肉親が我が子への願いを込めて名付ける




    (コトイ) のように逞しく

    (コマ) のように健やかに

    茉莉(マツリ) のように美しく…




    万物の名の響きを借り、それがそのまま願いとなる



    そして愛し児がその仮名で呼ばれる度に、言霊の祝福が重なっていくのだ



  18. 18 : : 2015/11/01(日) 21:41:27



    「都じゃアマリメやクズなんて凶名のやつがいるらしいけどね」


    タカメの言葉にツルギは耳を疑った


    「凶名を?なんだってそんな…」


    「親を亡くして身寄りのない子供は、悪い響きの名を付けられ売られていくんだってさ
    里に立ち寄った旅商人が、女衆に囲まれて得意気に話してたよ」


    吐き捨てるように言い放つタカメの瞳は、「都」という「里」とはあまりにも掛け離れた価値観を持つ世界を侮蔑する色に染まっていた




    ソラメと名乗った少女は黒々と濃く長い睫毛を固く閉じたままだ



    彼女もそうやって売られてしまった一人なのだろうか…


    ツルギの胸に複雑な思いが湧き上がった

    そしてそれと同時に頭をよぎる微かな違和感…




    しかしその正体は確かな形になることなく、駆け寄ってくるコマの呼び声に掻き消された




    「ツルギ!娘を巫女様の所に運べ!」





    「……ったく…こんな得体の知れない娘を里に入れて大丈夫なのかね…」


    溜息混じりそう呟くタカメを宥めるように、その肩に手を置いたツルギは


    「巫女様の指示だ。お任せするのが一番だろう」


    彼女の猜疑心に満ちた視線を浴びながら少女の身体を抱え上げた






    ーーーーーーーー
    ーーーーーー
    ーーーー
  19. 19 : : 2015/11/01(日) 21:50:08


    ーーーー
    ーーーーーー
    ーーーーーーーー






    『ねぇ、シーラカンスって背骨が無いんだって。知ってた?』





    夕日に赤く照らされた無人の教室

    少女は机の上に開かれた大きな百科事典から顔もあげずにそう尋ねた


    部活を終え、忘れ物を取りに戻った少年は半ば驚き、半ば呆れて少女に答える


    『いや、知らない……ってかおまえ、まだ帰ってなかったのかよ』


    『シーラカンスは知ってるでしょ?』


    『ん、まあ……さすがに知ってるけど…』


    今の今までそんな古代魚に興味を持ったことはなかったし、背骨があろうが無かろうが知ったことじゃない


    『よかった、それすら知らなかったらどうしようかと思った』




    だけどそう言って口角を上げる彼女が笑っているわけじゃないことを少年は知っている


    『部活もやってないのにいつまでこんなとこにいるんだよ。帰るぞ』


    『あのね、シーラカンスは脊柱の代わりに体液で満たされた一本の管が背中にあるんだよ』


    そして毎度のことながら、こっちの話をまともに聞く気がないってこともわかっている



    少年は小さくため息をつくと、前の席の椅子に跨り背もたれに寄り掛かった


    『ふーん……で?』


    『その上普通の魚みたいに鱗で年齢を推測する事も出来ないの。なぜなら鱗もほとんど変化しないからなんですって』



    彼女が目を落としている百科事典のページに古代魚の姿はなく、青森地方の祭り「ねぶた」についての説明が、鮮やかなカラー写真とともに載せられていた





    どこから出てきたんだよ!シーラカンス!




    『寿命は100年以上、そして何億年も変わらない生態…』

    山車に描かれた厳つい髭面を指でなぞりながら、彼女は詠うように続ける




    『もしかしたらシーラカンスって、とんでもなく科学の進んだ超古代に作られた生物ロボットなのかもしれないよね』


  20. 20 : : 2015/11/01(日) 22:28:52



    彼女とは物心がついた頃からの付き合いだ

    他人から見たらただの厨二病発言でも、幼馴染みの少年には彼女が何かのサインを自分に出しているのだとわかる


    彼は慎重に言葉を選んで答えた


    『んー…まあ、そういうのもアリかもな』


    すると彼女は初めて本から顔を上げ、夕日に染まったオレンジ色の頬を、今度はきちんと笑顔の形に作り上げた


    さらりと真っ直ぐに伸びた長い髪が肩を滑り、カラコンを入れなくても黒目がちで大きな瞳には不意をつかれて間抜けな顔をした少年が映る



    『ホントにそう思ってる?』



    『最近の科学の進歩ってすげぇじゃん?この調子でいけば精巧に出来た生物ロボットを未来に遺すことは可能なんじゃないかと思って』


    『未来じゃなくて過去の話だよ』



    『過去って…どれくらい昔?』



    『ずーっとずーっと昔。まだ今の人類が生まれる前…ううん、もっと前。
    文明の進んだ超古代の人々は、汚染された大地を捨てて地下で眠るの。
    地上には海水にも淡水にも順応出来る生物ロボットをたくさん放流して……』



    地下に眠る超古代人ねぇ……

    最近頻発してる地震はそいつらの寝返りか?




    『まさか地震は超古代人の所為だなんて思ってないよね?』





    ーーー図星…





    少し恥ずかしくなった少年は、それを気取られないよう、もうだいぶ色を無くしかけた窓の外へと目を向けた




  21. 21 : : 2015/11/02(月) 23:27:32


    彼が生まれる少し前まではまだリニアの駅は完成しておらず、自宅の周りには手つかずの雑木林や山とは呼べないような丘がいくつかあったらしい


    しかし今目に映る街の様子は、ほんの数十年前には考えられないほどの変貌を遂げている



    まだ若い少年はその変化を当たり前の感覚で受け入れているが、彼の祖母は事あるごとに

    『こんな世の中になるなんて…空想の中でしかありえないと思ってたよ。長生きはするもんだねぇ』


    そう呟いては満足そうに、でも少し寂しそうに目を細めるのだった






    『なぁ…この先どんどん技術が進んでいったら、俺たちの子孫もその超古代人みたいに眠りにつく日が来るのかな…』


    彼の問いかけに少女は小さく首を傾げた


    『どうかな…?これから先のことはわからないよ』



    だろうな

    ほんの2000年でこの変わり様だ

    石斧を持って竪穴式住居に住んでた奴らには、こんな世界想像する事も出来なかっただろう


    次の2000年でどうなるかなんて今の俺たちにわかるわけがない





    『何億年も姿が変わらないシーラカンスなら、その体内の深いところにある遺伝子って名前のメモリーにこの世界の記憶を閉じ込めて、ずっと後世に残せるかもな…』





    『やだ、どうしたの?急に。
    シーラカンスに興味出てきた?』



    からかうように笑う少女の顔に先ほどまでの翳りはない


    嫌な事があってもストレートに表に出せない彼女

    その暗く澱んだ気持ちを受け止められた喜びで、少年の顔にも笑みがこぼれた




    『でも……』



    『ん?』




    『人が地上にいられなくなるような未来は二度と来ないことを祈りたいよね』








    『ああ、そうだな。俺も同感だ』







    少年は椅子から立ち上がると、薄暮に白く浮かび上がる幼馴染の姿に手を差し出した


    『ほら、もう日も暮れた。帰るぞーーー』




    『うん』




    名を呼ばれた少女は素直に頷くと、重い本を胸に抱え、ひんやりと冷たい小さな手を彼に預けた








    ーーーーーーーーー

    ーーーーーーー

    ーーーーー

  22. 22 : : 2015/11/04(水) 12:47:21




    「おいツルギ、こんなとこで何やってんだ?」



    巫女の住まいの戸口に置かれた一対の陽石と陰石

    陽石に寄り掛かり目を閉じて考え事をしていたツルギは、いつしかまどろんでいたらしい


    ふいにかけられた声にハッとして目を覚ますと、まさに馬そのもののような優しげで少し神経質そうな瞳が彼を見下ろしていた


    「あぁ…コマか…」


    「寝てたのか?俺はもう死人の始末も済ませてきたぞ」


    「始末?」


    「おう、小舟ごと沖に沈めてきた。今頃は魚の餌にでもなってるだろ」


    「そうか…」



    少女を運び込んだ後、声が掛かるまで外で待つように言われここに座ったのだが…


    「こっちはまだ終わらないな…」


    「まだ目を覚ましてないんじゃねぇの?だいぶ弱ってたみたいだし」


    「いや、それはない」



    そう、少女は自分の腕の中にいるうちに意識を取り戻していた




    里を護る結界の陽石を越えた時、軽く身じろぎをした彼女は黒々とした睫毛に縁取られた瞼をゆっくりと開き

    そして己の状況に戸惑うように瞳を彷徨わせた


    昨夜月明かりの下で見た時には空虚なほどに何もない洞のようだったそれは、陽光に暴かれてごく普通の娘のものに変わっている


    「歩けるなら降りるか?」


    ゆっくりと辺りの景色を見回した後、自分を抱える腕の主へと視線を向けた少女にツルギは尋ねた


    すると彼女は瞬きを2・3回繰り返し、全身を弛緩させて再び身を委ねたのだ


    それを答えと受け取ったツルギは、そのまま少女を巫女の家へと運び入れた



  23. 23 : : 2015/11/04(水) 22:26:24



    「ふーん…今朝お前の話を聞いた時には物の怪みたいな娘なのかと思ったが…意外と普通じゃねぇか」


    「俺もそう思った。昨夜はどうかしてたのかもしれないな」


    「あれならマツリメの方がずっと……うおっ!」



    無垢で可憐な想い人を脳裏に描いていたコマの目の前に夢想していた本人が現れ、彼は慌てて言葉を飲み込んだ


    「待たせてごめんなさい、ツルギ」


    「いや、大丈夫だ。娘はどうなった?」


    ツルギの問いにマツリメは形の良い眉を微かに顰めた


    「しばらく様子を見るしかないようです…」



    「どういうことだ?」



    「言の葉を失っているのか…それとも他に何か訳があるのかすらわかりませんが、彼女は終始黙したままでした…」



    「いや、でもツルギは娘の名前をきいたんだよな?」


    「ソラメ…でしたか?」


    ツルギは頷きそして続けた


    「意識を失う前にも何かを言ったようなんだが、それは聞き取れなかった」


    「そうですか…ならば故意に語らなかったのかも知れませんね…」


    思案するように小屋を振り返るマツリメの眉が一層深く寄せられた


    「実は…巫女様のご指示で二人に頼みたいことがあるのですが…」


    「何だ?!俺にできることなら何でも言ってくれ!」


    勢い良く応えるコマとは対照的に、マツリメの口調からその頼み事があまり気持ちの良いものではないことを悟ったツルギは


    「巫女様のご指示なら従うしかないんだろうけど…納得できる理由をちゃんと教えてくれよ」


    険しい顔でそう言った


    「何言ってんだよツルギ。お前そんな細かいこと言ってたら、男としての器を疑われるぞ」


    「男の器なんて今は関係ないだろ」


    「お前はか弱い女性の頼みを気持ち良く聞けないような小さい男になっちまったんだな?」


    「お前こそいつから理由も聞かずに安請け合いするようないい加減なやつになったんだ」


    大体これはマツリメ本人の頼み事ではないだろう


    すっかり舞い上がってそこを忘れているコマを、ツルギは呆れて見つめた



  24. 24 : : 2015/11/04(水) 23:01:11




    「あの……」


    二人の掛け合いに話のきっかけを奪われたマツリメが、遠慮がちに声を掛ける


    「あ、ごめん。何?頼み事って。こいつが渋っても俺がちゃんと引き受けさせるから大丈夫だ」


    「ありがとう、コマ」



    マツリメは困惑した表情のまま、二人に巫女の言葉を伝えた





    「彼女を、(ひとや) の小島に連れて行くように…と」






    「はぁ?!」




    「ーーー理由は? 」






    「彼女が『真名を持たぬ者』だからです」





    その言葉にツルギとコマ、二人の少年は、得体の知れない気味の悪さを感じて顔を見合わせた






  25. 25 : : 2015/11/04(水) 23:07:42



    ーー真名とは運命と業のカタチであると、古くから言い伝えられている


    人は生を受けた瞬間、その身の運命が始まり


    そして命を受け継ぐ者の必然として、その魂に業を背負う


    巫女はその命のカタチに「音」を与え、真名として赤子に授けているだけに過ぎない


    例え巫女から「音」を与えられていなかったとしても、それは全ての者の中に必ずある



    自然の摂理に則した命を持つ者ならば……




    「ツルギ…やっぱりこの娘普通じゃないよな…」



    少女を獄の小島に運ぶ小舟の中、コマはしきりにそう呟いていた



    「真名が無いって…傀儡(くぐつ)って事だろ…?」



    ツルギはコマの問いかけに答えることなく、黙ったまま黙々と櫂を動かしていた



    「傀儡なんて俺は見たことないけど、物の怪より恐ろしいって死んだ爺ちゃんが言ってたぞ…」



    答えが無くてもコマの口は止まらない



    「奴らは魂を持たないから何も恐れるものが無いんだそうだ。ただ意味もなくひたすら人を喰らう事だけを繰り返して…」



    「コマ、黙ってろ」



    一向に収まる気配のない幼馴染の言葉をツルギの一言が断ち切った



    「まだこの娘が傀儡だと決まったわけじゃない。根拠のない推測を本人の前で話すな」



    「根拠ならあるだろ?!こいつには真名が無いんだぞ?」



    「マツリメも言ってただろ、もしかしたら封印されているだけかもしれない」



    「巫女様の見立てでもわからないような強い封印が掛かった娘には見えないがな」



    「ならお前には彼女が人を喰らう化け物に見えるのか?」





    「少なくともまともな娘には見えねぇな」




    コマがそう断言するのも無理はなかった



    舳先に座るツルギと(とも)に座るコマに挟まれた少女は、まるで幼女のように小舟の縁から白い手を差し出して水面と戯れている


    そして時折その口元には笑みのようなものが浮かんでいた


    自分にどんな疑いがかけられていてどこに連れて行かれるのかさえ全く気にする様子もない

    そんな常人の反応とは全くかけ離れた少女の様子は、不快な胸騒ぎと落ち着かなさを見る者に与えていた



  26. 26 : : 2015/11/07(土) 00:48:40


    「俺たちが話してる言葉だって理解してるか怪しいもんだ」


    吐き捨てるような言い方はツルギがよく知るいつもの幼馴染みらしくない


    「なら本人に訊いてみろよ。お前は傀儡なのかって」


    「…………」


    そう水を向けられて視線を逸らすコマ


    「どうした?訊かないのか?」





    「訊く必要ないだろ…」





    子供の頃からそうだった

    こいつは未知のものに対して必要以上に警戒心を持つ

    狩りをする上ではそれが長所にもなるが、回避できる危険まで避けていたら何も始まらない


    「だったら俺が訊く」


    「え?」




    コマは怖いのだ

    そしてそれを気取られないように殊更に強い言葉で娘を否定している

    全て分かっているツルギは、いつものように自らが先陣を切って彼の恐怖に切り込んだ





    「ソラメ、お前は傀儡なのか?」





    名を呼ばれた事は分かるらしい

    少女は水面に向けていた視線を上げ


    「……クグツ?」



    小さく首を傾げてツルギを見た





    「お前は人を喰らいたいと思うか?と訊いてるんだ」


    「……止めろよ…ツルギ」




    ソラメは不思議そうな顔でツルギとコマを交互に見つめ




    そして






    「人など……喰っても美味く無かろう」





    そう言って可笑しくて堪らないと言わんばかりにクスクスと笑った




  27. 27 : : 2015/11/08(日) 23:07:41


    一刻後

    ソラメを小島まで無事に連れて行き、舟の上で彼女の一言を聞いてからすっかり無口になったコマと別れたツルギは、苫屋へ帰る道すがら今日起きたことに思いを巡らせていた


    昨夜小舟の中でその姿を見つけてから今まで、ソラメという娘の正体は一貫して得体の知れないままだ


    あの時ツルギの質問に答え、ひとしきり笑い続けた彼女は、それ以降何を尋ねても「知らぬ」と言うばかり


    そして獄に着き、頑丈な格子でその身を閉じ込められた時、彼女は陽光の届かない湿った闇の中で、怯えるどころか寧ろ嬉しそうに微笑んだのだ


    彼女が傀儡でないことは確信していたが…

    かといって凡庸なただの娘ではないことも確かなようだった



    ーーーはぁ……



    昨夜からろくな食事も休息も摂っていないツルギは、ようやく今日1日の緊張が解けたのを感じ、深く息をついた



    今日はもう考えるのはよそう……



    苫屋に戻ると、囲炉裡の側に立つコトイが、丁度夕飯の支度をしているところだった



    「遅かったな」


    「……ん」


    クツクツと音を立てて煮えた鍋からは、食欲を刺激するいい匂いが漂っている


    しかし今のツルギにはそれを食べる余力は残されていなかった


    部屋の隅に身体を投げ出す



    「食わないのか?」


    「ああ。今日はもう寝る」


    元々父子二人の生活に余計な会話が入り込むことはあまりなかった


    別段仲が悪いというわけではなく、むしろ母がいない分絆は深い


    狩りをしていた様子もないのに丸一日家を空け、疲れ切って戻った息子を案じる気持ちはもちろんあるが、今は詮索すべきではないと感じたコトイは普段と変わらぬ調子でツルギに声を掛けた


    「おまえの分は取って置くから起きたら食え」


    「ん…」


    「今日は不漁だったから、昨日お前が捕ってきた猪肉使ったぞ」


    「なんだよ…全く捕れなかったのか? 」


    「かなり沖まで足を延ばしたが鳥山の一つも見つからん。いつもなら適当に網を投げただけでもそこそこかかるんだがな」


    「…それって親父の腕が落ちたからじゃ…」


    「馬鹿言うな。今日漁に出た里の船全部が同じ有様だ。まるで海ん中じゅうの魚が死に絶えちまったみたいに静かだった」





    ーーーー死に絶える?



    不吉な言葉がツルギの意識を覚醒させた


    「巫女様のご神託が間違えていた事など今まで無かったんだがな…」


    そう呟く父は今日息子の上に起きた出来事をまだ知らない




    やはり里に入れてはいけない娘だったか…



    疲れ切っているのに妙に眼が冴えてしまったツルギは、寝付くことができずに何度も寝返りを繰り返した


  28. 28 : : 2015/11/08(日) 23:37:39


    その頃

    陽も落ちて僅かな光すら届かなくなった獄の闇の中で、申し訳程度に敷かれた獣皮に横たわるソラメは、ツルギとは全く違った思いで夜を過ごしていた


    強い湿り気を帯び、小さな虫が這い回るこの場所への恐怖や憎悪などまるで無い


    それどころか懐かしさすら感じ、自然と笑みがこぼれた





    ーーーここは安全な場所……


    ーーー奴等もここにはいない


    ーーーようやく逃げ延びたのだ……




    …………



    ……………



    ……奴等?



    一体何処から逃げてきた…?





    霞がかかったように曖昧な意識に問いかけても応えはない





    まぁ良い……




    全ては必然の理


    水は高き所から低き所へ


    栄える者はいずれ衰え


    やがて滅びるのもまた必然




    何も変わらぬ



    どれだけ時を重ねても



    何かを変える事など出来はしない





    静謐な感情にほんの少しの悲哀を含ませたソラメの意識は



    やがて深い眠りへと落ちていった











    そして同じ夜


    山肌に近い里の外れで数人の里人が姿を消した


    しかしそれを知る者はまだいない


    それが滅びの始まりだと気付く者もまた…




  29. 29 : : 2015/11/10(火) 22:39:31


    ーーーーーー
    ーーーー




    「なぁ…タカメ…落ち着かないんだけど……」


    「気にするな。とっとと食え」


    「いや…なんか食った気がしない…」


    「大丈夫、腹の中に入れちまえば勝手に膨れる」


    「目の前でそんな顔されてちゃ腹まで落ちていかねぇよ……」



    今朝目を覚ましたツルギは、枕元に険しい顔をしたタカメの姿を見つけ、思わず飛び起きた


    「話がある」

    と一言だけ言われ、とりあえず昨夜の猪鍋を食べ終わるまで待ってもらっているのだが…



    「乙女かよ。こっちは昨日からずっと苛ついてるんだ」



    その原因は間違いなく弟のコマの事だろう



    自分の中でもまだ整理のついていない昨日の出来事を、ちゃんとタカメに話せるかどうか……


    それを考えるとますます食事が喉を通らない


    「ツルギ、諦めろ。俺も何があったのか気になってたしな」



    ーーーだよな……



    網の手入れをしながら2人の様子を見ていたコトイの言葉に、仕方なくツルギは猪鍋を諦め箸を置いた


    「俺もどう考えたらいいのかよく分からないから、起こった事をそのまま話す」


    「誰もあんたの考えなんか期待しちゃいないよ。事実だけで十分だ」


    「ひでぇな…」


    辛辣なタカメの言葉に苦笑するコトイ

    それを恨めしそうに横目で見たツルギは



    「親父はソラメを拾ったこと知らないから…そこからだな」



    一昨日の夜からの出来事を順を追って二人に話した




  30. 30 : : 2015/11/10(火) 23:07:01





    「コマの奴…そんな事だろうと思ったよ。あの軟弱者が…」


    話を聞き終えたタカメはやはり厳しい言葉で弟を罵ったが、その口調は棘のない柔らかなものに変わっていた


    「無理もないだろ。俺だって確信が持ててなきゃ、あんな風には訊けなかった」


    それほどまでに彼女の様子は異質で、正常と狂気の狭間でぎりぎりのバランスを保っているかのように見えていた

    人を喰らうか?と尋ねた途端、牙を剥いて襲ってきてもおかしくないと思わせるほどに…



    「…にしてもなんだってあの娘が傀儡じゃないってことがわかったんだ?」



    「見たからな」



    「何を?」



    「傀儡を」



    タカメの目が見る間に丸くなっていく


    その驚きように、先ほどまでの仕打ちの仕返しができたと留飲を下げかけたツルギだが、次の瞬間思いっきり頭を張られ、罵声を浴びせかけられた



    「馬鹿かお前?!寝言は寝てから言え!」



    「痛てぇな!嘘じゃねぇよ!親父だって見ただろ?」


    「コトイも?!」


    「ああ、覚えてたのか、ツルギ」


    「忘れようと思っても忘れられねぇよ」


    「どういうことだよ…この里に傀儡が現れたってのかい?」




    「いや、違う。俺たちは海で奴らを見たんだ」





    そう、ツルギがまだ幼く、一人で狩りに出ることもなかった頃

    漁師であるコトイは息子を船に乗せ漁に出ることがよくあった


    その日は豊漁を期待させるいい日和で、小魚を捕えようと海面に群がる鳥山がいくつも海上に見つかっていた

    小魚が海面近くに上がってくるのは、その下に大型の魚がいる証拠だ


    投網を竿に持ち替えたコトイは、ほかの漁師たちと共に鳥山を追って、だいぶ沖まで船を進めていた


  31. 31 : : 2015/11/12(木) 22:40:32


    「最初小さく舟影が見えた時はただの廃船だと思った。遠目からもかなり傷んでるのが分かったからな。
    まあ、普通なら近寄らないんだが……」


    「クガネの爺さんのせいだ」

    ツルギが呟く


    「ああ、あの業突く張りもまだ現役だったんだね」


    里一番の強欲者と言われているクガネが、大陸からの高価な積荷を見逃す筈はない


    「奴が勝手にそっちへ向かっちまったからな…
    放って置くわけにもいかないし、俺たちの船も後に続いた訳だ。
    もちろん追いついたら止めるつもりだった。難破船にはどんな『穢れ』がついてるか分からんからな」


    しかしクガネの乗った船は、廃船からだいぶ手前でぴたりと止まった


    追いついたコトイ達はクガネに声をかける為に船を寄せ

    そして彼が茫然とした表情で何かを見つめている事に気がつく



    「甲板に人影があれば、辛うじて見えるくらいの距離だった。
    だけどそいつははっきりと俺たちの視界に飛び込んで来た」


    「……傀儡?」


    タカメの言葉にコトイは頷いた



    「一目見ればわかる。あれは人のカタチをしていても全く人とは違う」


    「どこがどう違うんだい?」


    一番最初に目に焼き付いたのは、まるで笑っているかのような三日月型の大きな口だ

    明らかに正常な顔としてのバランスを欠いている

    しかし人を喰らうと言われている化け物の口に、オオカミや猪のような牙はなかった

    獲物を一撃で噛み殺す武器を持たない事が、余計に被食者の恐怖心を煽る


    そして狭い額の下には、愚鈍にしか見えない生気の無い双眼があり

    体格の良いコトイと同じぐらいに見える裸身の体躯は醜く膨れ、そこから生えた貧弱な腕を船縁からこちらに向けて突き出していた



    「船上のどこに居たかは知らんが、人の存在をかなり遠くからでも見つけられるようだな」



    「その船に乗っていた人間はみんな喰われちまったってことかい……」



    「恐らくそうだろう。貨物船なら船乗りは多くても20人程度だ。
    傀儡も積荷の一つだったんだろうが、枷が外れて放たれたとしたら逃げ場の無い船上じゃ全滅しかない」



    凄惨な船上の様子を思い、タカメの眉間に深い皺が刻まれる


    「私なら喰われる前に海に飛び込むね。生き残れないくらいの大時化でも、喰われるよりはマシだ」



    実際、タカメと同じように考えて海に身を投げた者も多く居ただろう

    しかし傀儡を積荷として運ぶ以上、万が一の場合の対策もあった筈だ

    それを過信して、もしくは他の積荷への責任感から船に残り、捕食された者もまた少なくなかったと思われる



    「まあ、流石のクガネも廃船に乗り込むのは諦めて、俺たちはそのまま帰った。
    潮の流れからも里の方へ流れ着く事は無さそうだったからな」

  32. 32 : : 2015/11/12(木) 23:42:44



    それにしても…
    と、コトイは続けた


    「大陸の奴らの考えることは理解出来んな。
    自分達にとって天敵になるような化け物をなんだって飼い続けるんだか……」


    「そういえば都には傀儡を見世物にする小屋もあるらしいね。
    私にも全く理解出来ないよ」



    ずっと黙って話を聞いていたツルギは、都という言葉に、昨日の朝ソラメの件をタカメと話していた時に感じた違和感を思い出した



    「そういえばタカメ、最近都からの商人を見かけないな?」



    「え?そうだったかい?」



    「お前が最後に見たのはいつだ?」



    ツルギの問いにタカメは目を閉じて記憶を探った



    「んー……最後は毛皮を買い取りしていった奴かな…
    今年の冬は寒くなりそうだからって、少し色を付けて買ってくれたんだった」



    「去年の秋…?」



    「……だね」


    タカメもその不自然さに気付いたのか、歯切れの悪い口調で返す


    「山道に雪が積もる頃でさえ一月(ひとつき)に一度は誰かしら来ていた旅商人が、もう 十月(とつき)も姿を見せてないんだな……」



    「言われてみればおかしな話だ」


    コトイも同意し、三人は複雑な表情で顔を見合わせた







    ーーその時



    俄かに慌ただしげな足音が苫屋の外で幾つも聞こえ、里人の一人が入り口から顔を出して声をかけた



    「コトイ!浜がとんでもない事になってるぞ!」



    「……どうした?」




    「入江の浜一面に魚の死骸が上がってる!」







    ーーもはや気の所為や考え過ぎなどではない

    明らかに何かが起きている

    ツルギはそれを確信し、全身の皮膚が粟立つのを感じた




  33. 33 : : 2015/11/15(日) 20:27:10



    ツルギ、コトイ、タカメの三人が浜へ向かうと、そこには既に多くの里人が集まり、目の前に広がる異様な光景に為す術もなく立ち尽くしていた


    明るい日の光を受けて白く輝く魚の腹は特に傷ついているようにも見えず

    ただその尋常ではない数こそが事の異常さを物語っていた



    「一体何でこんな事に……」


    (フカ) に追われて逃げ込んで来たんじゃないかね?」


    「それにしたって多過ぎだろう…」


    「天変地異の前触れじゃないのか…?」


    里人其々が思い思いの考えを口にする静かなざわめき

    それは浜へと寄せては新たな魚を打ち揚げていく波の音と共鳴して、破り難い緊張感を生み出していた


    「おぉコトイ、来たか」


    駆けつけたコトイ達を目敏く見つけて声をかけてきたのは、里の世話役でありコトイの兄でもあるタツミだった


    偉丈夫のコトイより頭一つ小さい兄は、昔から聡い子供で、都に出て医術を身に付け里に戻っている


    「今ユヅルが巫女様の所へお知らせに向かっている」


    「昨日の不漁はこの前触れだったか……」


    「他に何か気付いた事は無いか?」


    コトイは暫し考え、首を横に振った


    「昨日は 風巻(しまき)岩の向こうへ船を出したからな…
    入江の潮の流れからすれば、その向かいにある獄の小島側から運ばれて来たんじゃないかと思うが…」



    「うむ…調べに行くとしても、先ずは巫女様の判断を仰いでからだな」



    「あ……」



    「どうした?ツルギ」


    ツルギが漏らした小さな呟きを、タカメの耳は聞き逃さなかった



    「獄に行かないと…」


    寝起き直後からのタカメの襲来で、すっかり忘れていたのだ


    「ああ、娘の様子見を頼まれてたんだっけね。私も付き合うよ」


    「いや、でもコマが…」


    「あいつが来ると思うかい?
    初めてウサギを捌いた時、丸3日も寝込んだ軟弱者だよ?」


    タカメの言葉は容赦なく実の弟を切り捨てる


    しかしその中には、未だ得体の知れない娘には近づかせたくない

    先ずは自らが見極めてやろうという、身内だからこその優しさが隠れている事をツルギは察した



    「そうだな。行こう、タカメ」


    二人は人の輪の隙間を抜けて、浜を後にした



  34. 34 : : 2015/11/15(日) 21:10:07



    二人が浜辺から少し離れた港に着いた時、そこには既にコマの姿があった


    小舟の傍で所在無げに立っていたコマは、二人が来るのを見とめるとバツの悪そうな表情を浮かべ


    「遅ぇぞ、ツルギ」


    そう言って舟を繋ぐ舫綱を外しにかかる


    「コマ!お前…来てたのか!」


    「当たり前だろ。それよりもお前、手ぶらみたいだけど何しに行くつもりだ?」


    「あ、そういえばそうだな…」


    朝から想定外の出来事に翻弄されて、獄へ行くことすら忘れていたのだ


    ツルギは素直に謝った

    「すまん、なにも用意してなかった…」


    「ったく…食いもんはもう積み込んである。とりあえず何とかなるだろ」


    「悪かったな、コマ」


    「引き受けた仕事はしっかりこなせよな。ガキじゃねぇんだから」


    視線を合わさぬままそれだけの事を言ったコマは、もう既に小舟に乗り込んでいる


    「行くぞ、ツルギ」


    「…ああ」




    「ちょっと待て!」


    それまで全く存在を無視されていた姉の声にコマの動きが止まった


    「私も行くよ」


    「いらねぇよ」


    「あんたの意見なんか聞いちゃいない。女一人が閉じ込められてる獄に行くのに、男二人じゃ気付けない事も多いだろ」


    そう言われてしまうと返す言葉も見つからず

    かといって喜んで迎える気も起きない



    「……勝手にしろよ」


    ぶっきらぼうにそう言い放ったコマは、櫂を掴んでツルギに投げた




  35. 35 : : 2015/11/15(日) 23:14:54



    獄の小島は岸から見て右側、緩やかな曲線を描く入江の末端に近い場所にある


    かつては入江と繋がっており、その頃から自然に開いた洞穴を獄として使っていたらしい


    入り口に造り付けられた重々しい鉄製の柵は、潮風に晒されだいぶ錆付いてはいたが、かなりの年月が経っているにも拘らず朽ちることなく外と中とを隔てていた


    「ソラメ、いるか?」


    洞穴の中は意外と広く、奥に入り込むと外からは姿が見えなくなる


    柵の外からソラメを呼んだツルギは、手にした松明に火をつけ、獄の中を照らした


    かなり奥まった所に白い人影が見える


    「よっぽど暗闇が好きなのかね…」

    タカメが呟き、人影に向かって声をかけた


    「腹が減っただろ?食いもん持って来たよ。
    他に欲しいものがあれば言ってくれ」


    すると人影がゆらりと立ち上がり、こちらに向けて歩いてきた


    「先刻から何を燃やしている?臭くてかなわん……」



    「え……?これか?松明だが…」


    「それではない、ぬしらが来る前から臭っておった」


    入り口からの光で辛うじて姿が確認出来る場所に止まったソラメは、鼻を袖口で覆い、顔を顰めていた



    「もしかして浜に揚がった魚を片付けてるんじゃねぇのか?」



    コマがそう言い、確認するために小島の裏側へと回り込んで行った


    「浜一面に大量の魚でも揚がったか」


    「……何でそんな事がわかる?」


    ツルギが尋ねた


    「驚くほどのことでもなかろう」


    さらりと答えるソラメに今度はタカメが


    「いや、そうはっきりと言い当てられたら驚くだろう」


    そう言って猜疑心に満ちた視線をソラメに向けた



    するとソラメは呆れたように嗤い


    「ぬしらの巫女はこの程度の事も予見出来ぬのか?」

    と、その場に腰を下ろし、落ち着き払った様子で二人を見た


    ツルギとそう変わらない年頃の娘とは思えない程、その口調や態度は老嫗のように重く、不遜にすら見える


  36. 36 : : 2015/11/15(日) 23:20:20



    「おい、やっぱり浜から煙が幾つも上がってたぞ」


    戻ったコマがそう伝えるが、三人の間に流れる奇妙な空気に飲まれて口を噤んだ


    「あんた、一体何者なんだい?」


    暗がりに座る娘はタカメの鋭い問いにも動じる風はない


    「さあ……」


    「昨日からずっとそうやってはぐらかしているようだけど、そのせいでこんな所に閉じ込められてるんだ。
    隠しても何もいい事は無いと思うけどね」


    「隠しているわけではない。分からぬからそう答えたまでのこと」


    「自分の事は分からないのに、里の浜に魚が打ち揚がる事はわかるんだね」


    「分からぬ方がおかしい。漁師の居る里ならば、この小島より沖で『滾り』を見たこともあるだろうに」



    「たぎり?」



    「ツルギ、コトイから聞いてないか?」


    「いや…初めて聞く言葉だ」


    「…まあ良い、戻ったらぬしらの巫女にでも聞け。
    今日の事は予見出来なかったとしても、この先の導きぐらいは出来るだろう」


    「そこまで言っておいてお終いかい?分かってるなら最後まで言いなよ」


    しかしソラメはただ微笑みを浮かべ、荷物を抱えて立ち尽くしているコマに向かって声をかけた


    「コマと言ったか、それはそこに置いて早う () ね」


    急に名を呼ばれ、びくりと身を竦ませたコマが恐る恐る柵の中に袋を差し入れる


    「ここで聞いた事は外には漏らすな。
    これ以上あの女に恨まれては堪らんからな」


    あの女というのはマツリメのことだろうか…


    コマがそれを尋ねる前にソラメは立ち上がり、灯りの届かぬ獄の奥へ戻ってしまった



    後に残された三人は一様に困惑した表情で、ソラメの消えた深い闇をただ見つめていた





  37. 37 : : 2015/11/18(水) 00:40:44

    ーーー
    ーーーー



    「なぁ親父、『たぎり』って知ってるか?」


    もうあらかた魚の片付けも終わり、今燃えているものが最後という頃

    戻ってきたツルギに唐突にそう尋ねられ、コトイは作業の手を止めた


    「たぎり?何のことだ?」


    「知らねぇのかよ…」


    答えを聞いた息子はあからさまに不満を口に出し、同じように渋い表情のコマ、タカメと顔を見合わせている


    「何なんだ藪から棒に…きちんと順を追って説明しろ」


    「これから小島側の沖を調べに行くんだろ?」


    「ああ、元々あの辺の沖は潮の流れが安定しないから、漁に出ることも少なかったしな」


    「その時にたぎりってやつが出てるかどうか見て来いよ」




    「いや、だから…それはどんなものなんだと聞いてるだろう」




    「‥……」




    ツルギと二人の姉弟は、再び顔を見合わせた




    「どうすんだよ…」


    「ツルギがコトイは知ってるはずだとか言うから…」


    「人のせいにするな。親父が知らないのが悪い…」


    「だな」


    「何で知らないんだよ…俄か漁師でもあるまいし…」


    「一応俺が生まれる前からやってたみたいだけどな…」


    コソコソと小声で話すその内容までは聞き取れないが…

    コトイにはなぜか自分が不当な扱いを受けている気がしてならなかった



    「おいお前ら、たぎりってやつが何だとしても、何か変わった事があれば報告するんだから、それでいいだろう」

    痺れを切らした彼がそう言った時


    「滾りがどうしたって?」


    穏和な笑みを浮かべながら、松明を持ったタツミが近づいて来た


    「タツミは知ってるのか?」

    ツルギが尋ねると


    「ああ、知ってるぞ。海面に湧いてくる泡のことだろう?」

    と、彼は事も無げに答えた



    「え?」



    「なんだ『あぶく』のことか。それならツルギも見た事があるだろう」

    コトイに言われて頷くツルギ


    「見たことあんのかよ!」

    思わず姉弟は声を揃えて叫んだ


    「いや…だって俺はあぶくってずっと呼んでたし…」


    「滾りと言われて何処かで聞いたことがあるとは思ってたが…
    まぁこの里の漁師はみんなあぶくと言うな」




    「そのまんまじゃねぇか…ガキじゃあるまいし」

    八つ当たり気味にツルギが呟く





    「ツルギがガキの頃、滾りを見るたびに『あぶく、あぶく』と煩く叫んでたからみんなうつったんだ」





    「は?」




    「お前のせいじゃねぇか!」







    「……スマン」

    いたたまれなくなったツルギは、頭を抑えて俯いた





  38. 38 : : 2015/11/18(水) 13:44:11



    「そう言われてみれば、確かに泡が湧いてる場所は小島の先に幾つかあるな」


    「うむ、多分あの辺りの海嶺(わだね) は熱を帯びている。
    これから調べに行ってみて滾りの規模が大きくなっているようなら、間違いなく今日揚がった魚はその熱にやられたのだろうな」


    タツミは医術だけでなく、多岐に渡る知識を都で学んできていた

    里に戻った彼が世話役として迎え入れられた所以でもある



    「熱を持った海嶺って……そのままにして大丈夫なのかい?」


    「限界まで熱が高まれば、噴火する事もあり得るが…」


    「浜に神託を伝えに来たマツリメは、案じる程の事では無いと言っていたな」


    里において万物の気を読み、物事を見極め予見する巫女の言葉

    それは神と人を繋ぐ依代の神託として何よりも優先されるべきものである


    しかしツルギはどこか釈然としない思いを抱えていた


    「……昨日の漁日は神託通りじゃなかったけどな」


    「なんだツルギ、お前巫女様の言葉が信じられないのか?」

    コトイの嗜めるような口調にも彼の息子は怯まなかった


    「別に巫女様の神託を疑ってるわけじゃない。
    ただ最近お見かけしないし、もしかしたら身体を壊されたりしてないかと思って…」


    「ああ、最近ならマトリメの赤子が生まれた日にお見かけしたぞ。
    あれは半月ほど前だったかな」


    するとコトイの言葉をコマが遮った


    「あれ?あの時はマツリメが代理で赤子を取り上げたんだろ?」


    「そんなはずないよ。
    私もマトリメの家から出てくる巫女様をはっきり見たからね」


    「そうだったっけ…ならそうなのかもな…」

    タカメがコトイに賛同し、後はツルギの番となった時

    彼は自分の記憶を辿り、その結果に茫然とした



    「俺はもっと前だ…まだ雪が残ってる頃……」



    「馬鹿を言うな、そんなはずはないだろう」

    そう一蹴されても記憶はそこから動かない


    ツルギはコマに尋ねた


    「おいコマ、お前昨日お知らせに行ったとき、巫女様に会ったか?」


    「いや、マツリメが伺いを立ててくれて、それを聞いただけだ」


    「よくあることだ。
    世話役なんぞやってると色々伺いを立てる事も多いが、直接話されることはあまりないからな」




    「そう…だよな……」



    恐らく冬以来姿を見ていないというのも自分の思い違いか、もしくはたまたまお見かけしなかっただけなのだろう

    分かってはいるがやはり心の靄は晴れない


    そんなツルギの思いを汲み取り、彼を安心させようと、タツミはユズルを呼んだ


    「ユズル!ちょっと来てくれ!」


    「はーい!何です?タツミさん」


    身体は華奢だが広い額とくるくると良く動く瞳が印象的な少年は、まだ十にも満たない歳ながら、タツミにその賢さを買われ実の子同然に可愛がられていた


    「お前今日巫女様の所へ行った時、ご本人とは話されてないか?」


    「へっ?」


    ユズルは突然の質問に一瞬驚きの表情を浮かべたものの、すぐにタツミの意図を理解し


    「ちゃんとお会いしましたよー。
    浜まで出るのは難儀だからって、マツリメ様にお言葉を託してました」


    と、人懐こい笑顔で答えた



    「そうか、それでお元気そうだったか?」


    「はい!お顔のツヤもありましたし、お話ぶりもしっかりしてらっしゃいましたよ!」


    つい先ほどの事ならば記憶違いの筈はない


    やはり自分が深読みをし過ぎていただけなのだろう

    最近おかしな事が続いたせいで、神経質になり過ぎなのかも知れない


    「そうか、ありがとうなユズル」


    ユズルの可愛らしい笑顔につられて、ツルギも彼に微笑みを返した



  39. 39 : : 2015/11/20(金) 21:38:55


    ーーーーー

    ーーー



    その日カツラギは半年振りに山に足を運んだ


    そろそろ冬場の間籠ることになる炭焼き小屋と、窯の手入れをしなければならない


    一旦窯に火を入れれば山を下りることはほとんど無い為、これからひと月かけて準備をするのだ




    彼は山道を歩きながら、半月前に生まれたばかりの愛娘の事を考えていた


    今年も櫟や楢の木々は何の問題もなく健やかに育っている

    都に卸す上質な炭が作れるだろう


    可愛い盛りの娘に会えなくなることは寂しかったが、春には炭を売って得た稼ぎで妻と娘に何かいいものを買ってやろう


    そんな暖かい思いを胸に、下草を踏みしめながら、小屋への道を登って行った






    獣とは明らかに違う微かな足音を聞いたのは、道も半ばを過ぎてあと少しで小屋に着こうかという頃だった






    自分達の食料調達の為に狩りをする里人はいくらでも居るが、この辺りに住みつき狩猟を糧として生きる山の民はそう多くはない


    カツラギは冬の間何かと世話になる事も多い彼らとは、なるべく積極的に交流を持つようにしていた




    ーーー誰だろう…




    足音に注意を払っていないという事は、狩りの最中ではないのだろう


    獣道からカツラギのいる山道へと真っ直ぐに向かってくる規則正しい足音


    その主が顔馴染みである事を疑わなかった彼は、笑顔を浮かべて立ち止まった





    「おお、やっぱりカイだったか!」






    見覚えのある狩人の装束を見とめ、確かに知人であると認識したカツラギは、そう言ったーーー






    ーーーつもりだった








    「!!!」








    あれ……


    おかしい……



    どうして声が出ないのだろう……





    何が起きたのか理解出来ていない頭とは裏腹に、身体は条件反射で身を守る為に動いていた


    手に持つ鉈が彼を押さえつける者の身体に深く刺さる






    ーーーしかし自分を戒める力は弱まるどころか、怯む事すらなかった






    何故だ……?







    見開かれた目はに深紅に染まった異形のモノの顔が映っている




    その色が自分から吹き出た血の色であると気付いた次の瞬間ーーー





    彼の柔らかな喉笛に刺さるそれが更に深く食い込み








    カツラギは己の身に何が起きたのか理解出来ぬまま


    愛する妻と生まれたばかりの娘を残して息絶えた











  40. 40 : : 2015/11/20(金) 23:45:17





    翌日

    カツラギの妻であるマトリメは、炭焼き小屋の様子を見に行ったまま帰らない夫の身を案じて、落ち着かない朝を迎えていた


    いつもなら日が暮れる前には戻り、山に籠る為の備蓄品を何日かに分けて運ぶ


    山で何かあったのだろうか……



    自分が身軽なら探しにも行けるが、まだ産後間も無く、ましてや乳飲み子を抱えてではそれも叶わない



    思い悩んだ末、彼女は世話役であるタツミの元を訪ねた



    「……そうか。それは気懸りだろう」


    マトリメの話しを聞いたタツミは、彼女を労わり


    「カツラギも狩りの腕は達者だし、護身のものは持っているだろうから、そう案じる事は無いと思うが…
    山に入る事のある里人には周知しておこう」


    そう言ってユズルに使いを言いつけた



    「ありがとうございます…」




    「なに、きっと顔馴染みの猟師にでも出会って、帰る時機を逃しただけだろう。
    あまり気に病まず、ゆっくり休みなさい」



    「……はい」





    タツミの判断を疑うわけではない

    むしろ彼の気遣いはマトリメの心に深く染みた


    しかし彼女の中にある不安は消えること無く、時が経つ毎にますます大きく広がっていく


    彼女は重い足取りのままタツミの元を後にした



    ーーーー

    ーーー




    「マトリメ?もう外に出られるようになったのですね」


    家までの道程を俯きながら歩いていたマトリメは、ふいに呼び止められて顔を上げた


    するとそこには柔かに微笑む若巫女の姿があった



    「あ…マツリメ様。おかげさまで私もこの子も元気に過ごして居ります」



    「良かった…あまり顔色が良くないようでしたから。
    もしや身体の加減でも悪いのかと思いました」


    「……少し…気掛かりな事があるので……」



    「一体どうしたのです?」


    優しく問いかけるマツリメに、彼女は今タツミに話した一部始終を再び語った





    「それは…さぞ心配でしょうね…」



    ふわり

    と、白い腕を伸ばした若巫女は、俯くマトリメの肩を静かに抱いた



    「でも大丈夫ですよ。
    カツラギはうっかり山を下りるのを忘れてしまっただけ。
    貴女と赤児を置いたまま、帰らないなんてことがあるわけないじゃないですか」



    「若巫女様……」



    若巫女から漂う甘い花の香りは、マトリメの不安な気持ちをゆっくりと和らげた



    「大丈夫、何も案ずることはありません」




    耳元で囁かれる心地良い声が更に気持ちを落ち着かせ

    次第に心が軽くなっていく





    そして

    柔らかな手の平が彼女の額に掛かる髪をするりと撫でた







    「ね?きっともう大丈夫」





    その瞬間、マトリメの表情が一変し




    「はい、ありがとうございます、若巫女様」






    先程までの重い気持ちが嘘のように晴れたマトリメは、深く礼をした後、その顔に笑みすら浮かべて帰路についた




  41. 41 : : 2015/11/23(月) 19:58:49



    同じ朝

    ツルギの目の前には今日もまた、憮然とした表情のタカメが座っていた


    「今日は何だよ…」


    さすがに今朝はもう既に目覚めていたが、食事が喉を通らないことに変わりはない


    恐らくまたコマと小さないざこざを起こしたのだろう

    少し前までは専らコマの方がここに逃げ込んできたものだが…


    「あんたに言ってもわからないよ。あいつと同じガキだからね」



    ―――なら来るなよ!

    喉元まで出かかった言葉をぐっと飲みこむ



    「…で、今日も獄に行くのか?」


    「いや、今日は行かない」


    タカメの答えにツルギはほっと一息ついた


    まだ頭に血が上ったままの二人の間で板挟みになるのは、正直勘弁して欲しい

    しかし続く言葉は彼が予想もしていないものだった


    「カツラギが山に行ったまま戻らないらしい」


    「なんだって?」


    「ここに来る途中ユズルに会ってね。狩りで山に入る可能性のある里人に触れ回ってた」


    「いつから戻ってないんだ?」


    「まだ一晩。山狩りするほどじゃないってことさ」


    「一晩か…ならひょっこり戻ってくるかもしれないな」


    ツルギ自身がつい先日一晩家を空け、コトイに心配をかけていた


    実際、山に慣れているはずのカツラギに、危機的な何かが起こっているとは考え難い


    「まぁ、それでもマトリメは心配してるだろうからさ。ちょっと炭焼き小屋まで様子を見に行ってやろうと思ってね」


    「そうか、タカメなら一人でも大丈夫だろうけど…気をつけてな」


    「わかってるよ」




    その時、井戸で水汲みをしていたコトイが戻り、出て行くタカメに声を掛けた


    「何だタカメ、また来てたのか」


    「もう帰るところだ。邪魔したね」


    「いつでも来ればいいさ。いっそのこと嫁にでも来るか?」




    「なっ!!」


    「は?!」


    目を丸くするタカメとツルギを見て、からかうように笑うコトイ



    耳まで真っ赤に染めたタカメは、威勢良く反論した




    「だっ、だれが子持ちの (やもめ) んとこなんかに!冗談は顔だけにしな!」






    「‥……へ?」

    拍子抜けして唖然とするツルギ





    「ん?…俺か?」

    訳が分からない様子のコトイ






    「……あっ…………」

    そして自分の失言に気づき、更に頬を赤く染めるタカメ






    ーーー次の瞬間、彼女は脱兎のごとく駆け出した







    その背中を見送るツルギは、この先しばらくはタカメの襲来を受けることはないだろう

    そう強く確信した







  42. 42 : : 2015/11/23(月) 20:23:22




    ツルギの家から全速力で駆け通して来たタカメは、まだ顔の火照りも収まらぬうちにカツラギの家に辿り着いた


    多少荒くなった息を整え、声を掛ける


    「マトリメ、いるかい?」


    しかし返事を待つまでもなく、小屋の中は静まり返り、人の気配を感じることもなかった


    夫の帰りを待つ身の彼女がどこかへ行くはずはない

    そう思い小屋の裏手に回ると、果たしてそこには赤子を負ったマトリメの姿があった



    彼女は大きな袋に、納屋から出した備蓄用の食料を詰め込んでいた


    「マトリメ、何やってんだい?」


    声を掛けられたマトリメが振り返る


    「あら、タカメ!丁度いいところに来てくれたね」



    「あれ?カツラギ帰ってきたのか」



    タカメがそう思うのも無理はなかった


    夫の身を案じ、ふさぎ込んでいると思っていたマトリメが、明るい笑顔でこちらを見ていたのだ



    「ああ、私ったら勘違いしちゃってたのよ」

    自分のそそっかしさを笑う彼女の表情には全く屈託がない


    「勘違い?」




    「そうなの。私、あの人が出かける時に、後から来るようにって言われてたのよね」




    「なんだってそんな大事なこと……」



    「でしょ?ほんと、私ったら!」



    クスクスと笑うマトリメ

    彼女の様子に不自然なところは見られない


    不自然なのはカツラギの言葉と、それをすっかり忘れていた先程までのマトリメだった


    「ほら、今年はこの子も生まれたばかりだし、離れるのは辛いから一緒に行こうってね。
    大丈夫よ、麓近くまであの人が迎えに来てくれてるはずだから」



    「……そう」




    どう考えたらいいのか分からなくなってしまったタカメは、考える事を諦め、自分の目で確かめる事を選んだ



    「あんた一人、しかも赤ん坊連れてちゃ、麓まででも大変だろ。
    私も一緒に行くよ」



    「ありがとう!後ちょっとで荷物詰め終わるから、手伝って!」



    「ああ、わかった」


    マトリメに言われた食料や日用品を準備しながら、タカメの本能は身を守る為の支度も怠らなかった



    ーーーたぶん…何もないだろうけどね



    身に付けた鉈や熊除けの火薬にそっと触れて、誰に言うともなくタカメは小さく呟き

    マトリメと共に山へと向かった







  43. 43 : : 2015/11/25(水) 22:36:28



    一方

    走り去るタカメを呆然と見送った親子は、その後連れだって港へと向かった


    コトイはタツミと共に、再び滾りの湧く辺りを調べるのだという


    「滾りの勢いが増しているのは間違いない。今日は海中の様子や海嶺の深さを確認してみようと思ってな」


    タツミの言葉にツルギは眉を顰めた


    「そんな所に潜って大丈夫なのかよ。何かあったらどうするんだ?」


    すると彼の叔父はいつもの温和な口調で恐ろしいことを言った



    「何かあったらだって?
    その時はこの里全体が壊滅するかもしれん。死ぬのが少し早いか遅いかの違いだけだ」



    「おい…それって…みんなを避難させた方がいいんじゃねぇのか?」


    コマの顔には、はっきりとした怯えが張り付いている



    「どう言えば里人たちは納得して故郷を捨ててくれる?
    もしかしたら危険かもしれない、それがいつかはわからないし、このまま沈静化するかもしれない…
    さて、そんな道理では彼らは納得しないだろう」


    タツミが言い


    「コマ、俺たちは確かな事実を得るためにこうして調べに行くんだ。
    前が見えない暗闇を、闇雲に恐れて逃げているだけでは大切なものは守れない。
    暗闇の中に何があるのかを、しっかり見定めて向き合うことが、今は必要だと思うがな」


    コトイが続きを引き取り、諭すようにそう言った


    二人の少年は、経験を重ねてきた大人が持つ冷静さと、責任を全うするための覚悟を目の当たりにし、短絡的な感情で狼狽えた自分たちを恥じた



    「気をつけろよな…」


    それだけ言って視線を逸らす息子の頭に、コトイは大きくて暖かい手を置いた



    「気を付けても無駄」などとはもう言わない



    「おう、お前らもな」



    コトイの言葉を合図に四人は二つに分かれ、それぞれの船に乗り込んだ





  44. 44 : : 2015/11/26(木) 20:24:48





    「なぁツルギ、俺たちいつまでここに通い続けるんだ?」


    獄の小島に着き、コトイたちの乗った船が沖へと遠ざかるのを見送った後、コマはツルギに訊ねた


    「巫女様の指示があるまでだろうな」


    「ソラメを拾って今日で何日経った? 」


    「まだ三日だ」


    「だよな…」


    マツリメはしばらく様子を見ると言っていた


    その「しばらく」がどれくらいの期間なのか定まっていない分、余計に長く感じる


    「コマ、俺たちもただソラメを警戒するだけじゃなく、少しでもあいつの正体が分かるように調べるべきなんじゃないか?」



    「あいつが俺たちに協力してくれるとは思えねぇけどな」



    そう言いつつコマもまた、ツルギと同じ思いで獄の入り口に立っていた


    何をどうすればいいのかは分からない


    しかし本人に素性を訊ねても「知らぬ」と言われるだけなのだから、いつまでも同じ事を繰り返していてはダメだ



    何か一つでも有益な情報を…



    そう決心して、ツルギは獄の奥に声をかけた



    「ソラメ、メシ持ってきたぞ!」



    今日もまた彼女は、光の届かない奥まった場所にいるらしい


    ツルギは松明に火をつけようと、土師に入れた火種を取り出した


    すると


    「松明はつけるな」


    ソラメの声と同時に火種の炎がゆらりと歪み、そのまま白い煙を残して立ち消えた



    「……今、風吹いたか?」


    「いや……」



    一気に警戒心を強める二人に、再び暗がりから声が掛かる


    「荷物はその辺りに置いておけば良い」



    できる事ならそうしたかった


    しかし今、そうほんの少し前に決心したばかりだ


    ここで心を折られるわけにはいかない


    「そうしたいのは山々だが、こっちにも都合ってもんがあるんだ。火はつけないから、もう少しこっちに出てきてくれ」



    「ぬしらの都合など知ったことではない」


    ソラメとの会話は、彼女が囚われ人で、こちらが生殺与奪の権利を持つのだという大前提を忘れさせる


    挫けそうになる気持ちを奮い立たせてツルギは続けた


    「何か暗がりから出てこられない理由でもあるのか?」


    そこにコマも加勢する


    「何も後ろめたいことが無いなら出て来いよ。こっちはお前の希望通り松明もつけてない。
    俺たちは力づくでお前を引きずり出すことが出来るんだってこと忘れるな」



    「力づくでとは…。昨日は震えて居ったのに、今日はまたずいぶんと威勢が良いな」


    くつくつと嗤う声と共に、ソラメは昨日と同じ場所に現れ、同じようにそこに腰を下ろした


  45. 45 : : 2015/11/26(木) 20:48:16




    「何も後ろめたいことなどはない…ただ…この身体が波の音をひどく嫌う」


    彼女は自らの腕を抱えるように掴み、撫でさすった



    「まるで他人事みたいに言うんだな」



    「他人ではないが本人でもないな」


    再び嗤うソラメにツルギは言った



    「ソラメ、お前は自分が何者なのかも、どこから来たのかも分からないといったな?」


    「如何にも」




    「なら、今身に着けているものをすべて外してくれ」




    「なっ!! 」


    驚きの声を上げたのは、隣に立つコマだった


    「ツルギ! お前何言ってんだ!!」



    裸になれと言われた当人は、全く動じる様子もなく目を細め、ツルギを正面から見据えている



    「なるほど…衣を調べるつもりか。良かろう」 


    ソラメは立ち上がり、纏っている襤褸布を肩から滑り落とした


    「ちよっ!待て待て待て!」


    コマが慌てて、持っている袋を探り出す


    「ほらこれ!タカメのだからお前にはちょっとでかいかもしれねぇけど…」


    「ほう…随分と待遇が良いのだな」


    ソラメは、彼女をここに連れてきた日以来初めて陽光の届く獄の入り口に近付くと、コマが差し出した衣を受け取った



    ソラメと至近距離で接したコマは、もうずいぶん長いこと手入れなど出来ていない筈なのに汚れ一つない滑らかな肌や、作り物めいた整った顔立ちに不自然さを感じながらも、彼女が確かに自分たちとそう歳の変わらない少女であること、物の怪や傀儡などではなく、血の通った「人」であることを感じ取っていた


    そしてそれはツルギも同じだったらしい


    「別にお前は罪人ってわけじゃない。ちゃんとした素性が分かれば、こんなところにいる必要はないんだ………ってこら!奥で着替えろ!!」



    「その必要はない」




    「!!!」




    自分たちの目の前で臆することなく衣を脱ぎ始めたソラメから、少年二人は慌てて目をそらした




    「おいコマ、お前よく着替えなんか持ってきてたな」


    「タカメに持たされたんだよ。最低限の支度は整えてやれって…」


    「さすがタカメ…俺たちだけじゃ気が回らなかったな…」


    「感心してる場合か!お前、考え無しに脱げとか言うんじゃねぇよ!」


    「すまん…咄嗟に思いついちまったから…」


  46. 46 : : 2015/11/26(木) 21:02:54



    その時、獄を背に立つツルギの肩に、白い手が差し伸べられた


    そこには今までソラメが身に着けていた衣が握られている


    「これで良かろう」


    「ああ、預からせてもらう」


    衣を受け取り振り返ったツルギは、柵の中に戻って行く腕から感じる冷気に、思わずその手を掴んだ


    「待て! 」


    彼の手の中にあるソラメの腕は氷のように冷たい



    「お前…何とも無いのか?」



    「何の事だ?」


    はぐらかしているわけではなく、本心からそう思っているらしいソラメが、眉を顰めて聞き返す


    「身体が冷え切ってるじゃねぇか…」



    まだ立秋が過ぎたばかりとはいえ、陽が落ちて夜になれば肌寒さを感じる日もある


    一日中陽も差さず潮風が吹き込む湿った獄の中は、常に外より冷え込んでいる事に、もっと早く気付くべきだった



    「すまなかった…寒かっただろ?
    後でもう一度獣皮と衣を持ってくる」



    「お、おい…ツルギ…」


    コマがツルギの袖を引くが、ソラメの大きく見開かれた目から大粒の涙がはらはらと零れ落ちるのを見て、再び言葉を失った



    「何故泣く?」



    そうツルギに問われても、ソラメには答えることが出来ない


    自らの意思に反して、身体が勝手に涙を流しているのだ



    ―――この娘…今迄にどれだけ虐げられてきたのか…


    彼女は驚くと同時に、深い憐憫の情を感じた


    この程度の些細な情けにすら、涙を流すほどの喜びを感じるこれまでの境遇とは、一体どのようなものだったのか…



    それを想い、彼女はツルギに一つの提案を告げた




    「里の護り巫女と話をさせてくれ」





    ようやく話す気になってくれたのか

    とツルギは思った





    ーーーしかし


    ツルギから自らの手を取り戻したソラメは、手のひらで涙を拭うと





    「この涙を流している娘は、ぬしらの巫女に殺された」





    そうはっきりと言い放った






  47. 47 : : 2015/11/27(金) 21:14:45



    「何言ってるんだソラメ…殺されたって…今目の前に立ってるじゃないか」


    「ここに在るのはただの器。娘の記憶は既に失われて居る」


    「わけわかんねーよ…ならお前は一体誰なんだよ!」


    頭を掻き毟るコマ



    記憶を消し去る事が可能なのか?


    そんな当たり前の疑問より

    「何故」消したのか


    ツルギにはその理由の方が大切だと思え、彼女に訊ねた



    「巫女様はどうしてそんな事を…」



    「さあ……先程までは訳など気にもならなかったが…それでは娘が不憫に思えてな」


    「それで巫女様と話がしたいと?」


    「左様、責めるつもりも、ましてや傷付けるつもりなど毛頭無い。
    こうなる事が娘の運命であり業であるのだから。
    ただ理由が知りたい。それだけだ」



    目の前にいるソラメの言う事が真実ならば、ツルギは記憶を失う前の彼女に会っている


    自分の腕の中で目覚めたソラメから受けた「普通の娘」という印象は、間違えてはいなかったのか…


    いや

    普通の娘であるなら何故、記憶を奪われるような目に遭わなければならなかったのか…


    一つの情報を収穫した途端に、また新しい疑問が生まれる




    ツルギは彼女に約束した



    「分かった。巫女様に、お前が話したがっているとお伝えしよう」










    いつしか降り出した雨が、外に立つツルギとコマを静かに濡らしていく


    陰鬱に垂れ込めた雨雲は不吉な予感を誘発し、二人の心までもが仄暗い闇に侵されていくように思えた









    その後

    細く降り続く雨は日が開けても止むことはなく

    まるで獲物を捕らえる蜘蛛の糸のように、里全体を包みこんでいった







    ーーーーーーー

    ーーーーー

    ーーー


  48. 48 : : 2015/11/28(土) 08:17:45



    ーーーーーーーー

    ーーーーー

    ーーー





    ーーーそこは

    ひどく清潔な空間だった

    果てが見え無いほど広く、天と地の境が分からないほど淡い闇に満たされた部屋


    今目覚めたばかりの「彼」は、もう幾度も繰り返した問いを、再び「彼女」に投げかけた



    『なあ、君の生まれた国には神様がたくさん居るんだろう?』



    「彼女」からの答えは無い


    これもまた何度も経験してきたことだった


    時には、いや、かなりの確率で独り言で終わったりする


    それでも「彼」は幸せだった


    「彼女」が確かに隣に居ると感じられたから




    『今度は何が訊きたいの?』


    懐かしい声が聞こえて、「彼」は久しぶりに高揚した


    『やぁ、一体何回ぶりだろう…随分長いこと君の声を聞いてなかった気がする』



    『大袈裟ね。ほんの二、三度前の時には話せたでしょう?』



    『あの時俺は眠りにつく直前だったんだ。一言二言は話せたかも知れないけど、正直あまり覚えてないよ』


    『あら、貴方はちゃんといつもと同じ質問を私にしたわ。
    私もいつもと同じように答えた。
    今度は何が訊きたいの?って』


    『で……その時俺は何を訊いた?』


    『万物に神がいるのならば、今地上に溢れている“毒”にも神が宿って居るのか?って』


    『ああ、それだ!ずっと気になっていたんだよ。
    実は今日はそれを訊こうと思ってたんだ』


    「彼女」は鈴を鳴らしたような美しい声を立てて笑った


    『本当に覚えてないのね。
    その時私はちゃんと答えたのよ?』


    『何て?』


    『ただそこにあるだけのものに御霊(みたま) は宿らない。
    人の想いが積もり重なって初めて御霊が生まれ、やがてそれが神になる。
    “毒”に積もる想いは、数多の人々の負の想い。
    だからきっと“毒”にはとても大きな 禍津神(まがつがみ)が宿っているのでしょうね……って 』


    『そうか…禍を招く神もいるんだな…』


    『もちろん。だからシャーマンは禍津神を鎮めるために祈るの』


    『それはおかしな…君たちの国の神は、祈っても何もしてくれないんだろう?
    最初の頃にそう聞いたよ』


    『ええ、何もしてはくれない。
    でも、祈りは神に届くの』


    『意味がわからないな……』


    『さっきも言ったでしょう?御霊は人々の想いが積み重なったものだって。
    だから人の想いが変われば、神のカタチも変わるのよ』


    『……分かったような…まだ良く分からないような…』





  49. 49 : : 2015/11/28(土) 08:58:37





    考え込む「彼」の右手を「彼女」の左手が優しく包んだ


    『こういうことよ』


    『……え?』


    『暖かいでしょ?』


    『ああ、とっても…』


    『こうして今手の中に在るものだけを大切に護るだけ。
    限りない優しさを込めて…』


    『それだけ?』


    『例えば貴方が凍えたら、私が暖めてあげる。
    もしも私が傷付いたら、貴方は私を癒してくれるでしょう?』


    『もちろんだ!』


    『たくさんのものを抱え込む必要も、大きな力も必要無い。
    その手の中に握れるものだけを護り、愛しめばそれで良いの。

    シャーマンは祈りで、ほんの少しの希望や勇気を人々に与えるだけ。

    禍を乗り越えよう、手の中にある大切なものを護ろう、その想いが禍津神を別の名を持つ神に変えるのよ』



    『もしも…もしもだよ?
    手の中の大切なものが奪われてしまったら?』



    『大丈夫、それは決して消えたりしないから。
    たとえ器が消えてしまっても、想いは残るから』


    『想い…』


    『そう。私の身体は消えてしまっても、私が貴方を想っていた記憶は貴方の中に残る。
    ずっと変わらずその手の中に在り続ける。
    だから大丈夫……』




    『ねぇ、今気付いたんだけどさ…
    俺は片腕だから、一つのものしか護れないじゃないか』



    「彼」は再生実験で片腕を切り落とされ、そのまま隻腕となってしまっていた


    本来ならば、完全体のみが眠ることを許されているこの部屋に「彼」がいることも

    そして何よりも大切に想う「彼女」の隣に居られることも

    全て「彼女」が取り計らってくれたのだということを、「彼」は知っていた



    『一つあれば充分よ』


    「彼女」が笑った


    『…なら誓うよ。俺はこの先何があっても、この手の中に在る君を護り続ける』




    『永遠に…?』




    『もちろん、永遠に…』




    それを聞いた「彼女」は、幸せそうな吐息を漏らした



    そろそろタイムリミットかもしれない


    頭の中に直接語りかける「彼女」の能力(ちから) は、思った以上に体力を奪う



    『最後にひとつ…

    君は手の中に何を持っているんだい?

    左手は俺……じゃあ右手は?』







    答えは「彼」に届かなかった





    ーーー次はこの質問から訊ねよう






    眠りが訪れるまでの僅かな時間「彼」は「彼女」の言葉を何度も何度も思い返す



    己の魂に「彼女」の記憶を刷り込む為に



    何度も何度も……


    繰り返し繰り返し……








    ーーーやがて「彼」の意識は、優しい記憶に満たされたまま、深い眠りに落ちていった






    まるで深海を思わせる微かなモーター音は、「彼ら」の眠りを護り続ける





    やがて訪れるその日のために……









    ーーーーーー

    ーーーーー

    ーーー







  50. 50 : : 2015/12/04(金) 01:27:38




    目を覚ましたとき最初に聞こえてきたのは、耳馴れた潮騒に重なる、さらさらとした雨の音だった


    そう長くは眠っていなかったらしい


    まだ薄暗い小屋の中を見渡し、そこにコマの姿が無いことに気づいたツルギは、直ぐに起き上がり外に出た




    「寝てないのか?」


    雨に濡れるのも構わず、山道の入り口を見つめて立つ幼馴染みの後ろ姿に声を掛ける


    「少しでいいから横になれよ。
    朝になる前に疲れちまうぞ」




    「畜生……一体どうしちまったっていうんだよ…」




    コマの言葉は、ツルギにではなく山道の入り口に立つ大鳥居へと向けられていた


    この國では神に祈る慣習はない


    人の住まう里と、神の領域である山とを隔てる鳥居を通して、コマは結界の外から戻らない姉に問いかけていた






    ーーーソラメの衝撃的な告発からまだ半日しか経っていない


    それにも関わらず里の状況は、器の中の水が飽和状態になり縁から溢れていくように、見えない不安が現象となって顕れ始めていた




    半日前

    獄から戻った二人を迎えたのは、息急き切って走ってくるユズルの姿だった



    「ツルギさん!コマさん!タツミさんとは一緒じゃなかったんですか?!」



    「タツミなら親父と海嶺を調べに行ってる。俺たちとは別件だ」


    「雨も降って来たし、じきに帰って来るんじゃねーか?」



    「すみません!緊急なんです!
    せっかく戻ったところで申し訳ないのですが、タツミさんたちの所に連れて行って下さい!」


    そう言うユズルの顔は紙のように青白く、血の気を失っていた


    恐らく今ここに立っていられるのは、彼に染み付いた責任感だけだったのだろう


    「わかった、船に乗れ。一体何があった?」


    ツルギにそう言われ船に乗り込んだユズルは



    「麓の集落が…何者かに襲われて…」



    震えながら呟き、その場に崩れ落ちた





  51. 51 : : 2015/12/06(日) 21:24:13




    その後

    港に戻ったタツミを中心に、山裾の集落九戸全てが検められ、数日前に起こったと思われる惨劇が里人の前に明らかになった


    住人二十三人のうち、遺体の数は「恐らく」七体


    正確な人数を把握するのが困難な程傷んだ犠牲者たちの身体は、刃物で傷付けられた様には見えず、まるで食い千切られたかのようにバラバラな状態で放置されていた


    その為、辛うじて残されていた頭部だけを数えて判断した数が、七体というものだったのだ



    冬籠りを控えた熊が麓まで降りて来たのか……


    それとも山犬の群に襲われたのか……


    彼らを殺戮した「何者か」への恐怖は勿論ある


    しかし時を追うごとに強まっていくのは


    何故助けを求めなかった……?


    それほど密集した集落ではないのに、誰一人逃げ出す事が出来ないほどの状況だったのか……


    ーーー何より


    遺体が残されていない他の住人は一体何処へ行ってしまったのか……


    そんな掴み所のない気味の悪さだった


    一度人の味を覚えた獣は危険だと、タツミは山狩りの支度を進めるよう、里人たちに指示を出した



    そう

    獣なのだ……

    生まれた時からずっと共存してきた

    お互いに捕食者と獲物という立場を入れ替えながら、生死をかけたやり取りを繰り返してきたではないか


    これが獣の仕業ならば、何も怖れる事はない……


    そう自分に言い聞かせても、澱のように重く、質量のある不安は彼らの中から消えない




    見慣れた山容を背にして集落から離れる時、里人の一人が身震いしたのは、秋雨に濡れたせいばかりではなかった




  52. 52 : : 2015/12/07(月) 00:50:08




    一方ツルギたちは麓へは行かず、ユズルを伴って巫女の社へと向かっていた


    しかしそこで見たのは、途方に暮れて立ち尽くす里人たちの姿だった


    彼らの話では、どれだけ呼び掛けても一向に返事が無いという



    後に社の中が無人である事が確認され、里人総出で二人を探したが、ついに彼女たちの姿を見つけることは出来なかった



    ーーー麓の惨事と護り巫女の消失


    かつてない凶事に里中が混乱状態になる中



    カツラギとその妻のマトリメ、そしてタカメが未だ戻らない事に気付いたのは、すっかり日も落ち山への捜索が不可能な時間になってからのことだった





    「後数刻で夜が明ける。せめて中に入ってろ」



    この雨の中、松明の灯りが使えない夜の捜索は不可能な為、夜明けを待って出発の予定だった


    山へと入る狩りに手練れた者たちは、既に山道に近い小屋に詰めて休んでいる


    「ほら、行くぞ」


    ツルギはそれでも動こうとはしないコマの肩を抱え、小屋に入るように促した



    「ツルギ……俺、朝タカメのこと怒らせちまってさ……」


    コマが呟く


    そういえばまた朝っぱらからタカメに乗り込まれたんだったな…

    あの時はまさかこんな事が起こるとは、思いもしなかった…


    「いつもの事だろ。今回も素直に謝っとけよ」


    ツルギは殊更に普段通りの口調でそう言った



    そう

    きっとタカメは無事に帰って来て、いつものように強気な態度で二人を叱りとばすのだろうから…



    「だな……ちゃんと謝るよ」






    ーーーだからどうか無事でいて欲しい





    コマとツルギは同じ想いを胸に、寄り添いあったまま、小屋の中へと戻っていった







    そして止む気配の無い雨の中

    タツミの指揮の元、夜明けと共に大規模な山狩りが始まった




  53. 53 : : 2015/12/12(土) 19:48:48



    「先ずは炭焼き小屋まで全員で向かう。
    そこから組ごとに散開してもらうが、昨日も伝えた通り最優先させるのは行方不明者の捜索だ。そこを忘れないでくれ」



    タツミの指示に総勢三十人余の里人たちは無言で頷いた


    害獣を狩るための山狩りならば、入山の段階で散開し、獲物を追い詰めながら一点で囲い込むのだが、今回は違う


    万が一の為の用意はしてあるものの、山狩りに参加している全員が、出来る事なら麓の集落を襲った害獣には出会わずに、無事行方不明者を保護したいと思っていた


    人がようやくすれ違える程の緩やかな上り坂は、ぬかるみ、滑りやすくなっている


    辺りの様子に気を配りながら歩いて行く列の中程には、黙々と足を進めるツルギとコマ、そして二人の父であるコトイとウツギの姿もあった




    『残念だがぬしらの巫女は二度と見つからんだろうな』




    ツルギの脳裏にソラメの言葉が思い返される



    昨日の夕刻

    獣皮と厚手の衣を届ける為に再び獄へと向かった彼は、里で起きた異変をソラメに伝え、巫女との対話が不可能になった事を告げていた


    馬鹿な事を言うなと、その時は一蹴したが、植え付けられた言霊の呪はツルギの心に深く入り込んでいる



    重く垂れ込める雨雲と重なり合う樹々の葉に覆われた細い山道は、まるで彼らの心の中を表しているかのように薄闇の中に沈みこんでいた



    早く無事を確認したい



    其々が強くそう願いながらも、冷たい雨水が衣の内側に染み込むように、彼らの不安はじわじわとその心を浸食していくのだった



  54. 54 : : 2015/12/12(土) 20:47:27




    普段の倍近い時間を掛けて、漸く炭焼き小屋のある開けた場所に出た一行は、次の動きの手順を確認する為一旦そこに留った



    「ここを拠点として猟師小屋や山小屋の全てを確認していこう。
    確かこの辺りに住まう者もいたはずだが…」



    「カイやサツヤなら顔見知りだ。山の集落には俺が行く。
    タカメも彼らの事は知っているからな。
    何かあったとしたら頼りに行っているかも知れん」


    ウツギの申し出にタツミも頷いた


    「山に慣れている者は獣道を進んでくれ。
    この雨だ、深くまで入り込む必要はない。
    それよりどんな小さな手掛かりでもいい、注意してくまなく調べて欲しい」




    ーーー何か見つけたら深追いせずに必ずここに戻るように




    タツミが念を押そうとしたその時




    ズンッッ!!!

    と地面を突き上げる衝撃が彼らを襲った



    「地震か?!」


    そして続いて起きた大きな揺れが、地響きを伴って山全体を震わせる



    「こんなでかい地震初めてだ……」



    ツルギの隣で身体を低くしたコマが呟いた

    コマだけではない

    そこにいた全ての者にとって経験した事の無い規模の揺れだったのだ



    山を良く知る彼らは、雨に曝され崩れやすくなっている斜面から離れ、身体を低くして身を守った




    ーーーそれはほんの数分の事だった

    立っていられないほどの揺れは暫くして収まったが、不気味な山鳴りは途絶える事無く続いている



    「上流で地滑りが起きたか……」



    ウツギは樹々の隙間からわずかに覗く渓流に目をやった


    今居る場所は安全だが、地盤が緩くなっている山での捜索は危険だ


    どの程度の崩落が起きたのか確かめる為に注意深く沢を見つめていたその時



    彼はそこに微かに動く二つの影を見留め、一瞬息を飲んだ後大声で叫んだ






    「タカメ!川から離れろ!」






    狩りに長けたウツギの眼は、はっきりとその影の主を捉えていたのだ




    「姉ちゃん?!」




    コマがウツギの元に駆け寄る



    父の声が届いたのだろうか

    機敏とは言えない動きではあったが、よろめきながらも人影は川から離れ樹々の生い繁る森の方へと動いていた




    「急げ!来るぞ!!」





    ウツギの声と同時に、二人はその場から飛び出し、沢へ向かって走った




    しかし彼らの姿が見えなくなって直ぐ、再び山を震わせる轟音が響き渡り


    大木や巨大な岩を巻き込んだ大量の土砂が、まるで命を持つ大蛇のように沢全体を飲み込んでいった





  55. 55 : : 2015/12/12(土) 21:31:26




    「タカメは無事か?!」


    ウツギたちに続いて沢へと降りたコトイとツルギ、そして何人かの里人は、濁流が過ぎ去りった後の惨状を目の当たりにし、淡く芽生えた期待が萎んでいくのを感じていた


    辺り一面の樹々は無惨に薙ぎ倒され、川はすっかり形を変えてしまっている


    彼女は無事に逃げ延びたのだろうか……


    先に走ったウツギたちの姿も見当たらない


    最悪の事態を想像し身を固くするコトイたちは、それでも土砂に埋もれた森の入り口辺りを、泥だらけになりながら捜し回った


    激しさを増す雨は彼らの視界を狭め、ぬかるんだ土砂が足を止めさせる


    焦る気持ちとは裏腹に、身体は遅々として前に進まなかった


    そんな悪夢が現実に現れたかのような絶望と焦燥感は、容赦無く彼らの精神力を奪っていく




    「ウツギ!コマ!どこだ?!」




    彼らは不吉な予感を振り払うかのように大声で名を呼び続けた








    ーーーその時

    コトイたちの声に応えたのは、一番その身を案じられていた、タカメ本人の声だった



    「ここだ!早く来てくれ!」




    一同は顔を上げ、声が聞こえた方へと急ぐ



    「タカメ!」



    そこには、半ば土砂に埋もれ、折り重なるように倒れるウツギとコマ


    自力でそこから抜け出したのか、辛うじて残された立木に寄りかかるタカメ



    そして



    彼女の腕の中で意識を失っているマツリメの姿があった







  56. 56 : : 2015/12/16(水) 00:40:15



    ーーーーー

    ーーー



    「具合はどうだ?タカメ」



    山狩りの日から二日目の朝


    降り続いていた雨も止み、まだ薄く残る雲の切れ間からは久しぶりの陽光が顔を覗かせていた



    「ああ、もう大丈夫。心配かけたね」


    言いながら戸口に現れたタカメは、もうすっかり身支度も済ませ、以前と全く変わらぬ様子でコトイに応える


    「そんな事言ってもあれだけ酷い怪我してたんだ。無理するんじゃないよ?」


    タカメの母親、シズメがそう嗜めるが、当の本人は気にする様子もなく、おざなりな返事を返し


    「私は大丈夫だから、母さんは父さんの心配でもしときな。
    多分じっとして居られなくなって無茶するに決まってるんだから」


    そう言って奥で横になっている父と弟を見遣った


    「全く……これから冬支度で忙しくなるっていうのにねぇ…」



    あの時、真っ先にタカメの元に駆けつけたのは、弟のコマだった


    彼は勢いに任せて姉とマツリメを突き飛ばし、後から追いついたウツギは倒れ込んだコマを庇って流木の下敷きになったのだ


    「折れた骨が戻るまでは安静にしておかないと、後で不自由が残るからな。
    手伝いが必要なら遠慮なくいつでも言ってくれ。」


    「すまないねぇ、コトイ」


    頭を下げる母親にタカメは


    「父さんは仕方ないとしても、あいつは大した怪我もなかったんだ。
    私が戻るまでに薪割りぐらいは出来るだろう」


    殊更に大きな声でそう告げると「じゃあ行って来る」と、後も見ずに家から出ていった



    残されたコトイとシズメは、姉の言葉がしっかり聞こえたらしく、もぞもぞと身を起こしたコマの姿に、顔を見合わせて苦笑するのだった






  57. 57 : : 2015/12/16(水) 02:04:39




    タカメに続いて表に出たコトイは、そこで待っていたツルギと合流し、三人は連れ立ってタツミの元へと向かった


    タカメと一緒に保護されたマツリメに目立った外傷は無かったが、意識を失っていた為、医術に長けたタツミの所に預けられていた


    そのマツリメの意識も昨日のうちに無事戻っていたので、これから二人の話を聞いて今後の方針を決める話し合いが行われるのだ



    「おいタカメ、お前コマに厳し過ぎじゃないか?」


    前を歩くタカメにコトイが声を掛けた


    「まぁ…いつもの事だけどな。
    でも今回は助けてもらったんだから少しは優しく……」


    同調するツルギをタカメの言葉が遮る



    「たった一度助けたぐらいで優しくするだって?
    ならあんたとコマの事助けまくってる私は、巫女様並みの待遇が受けられるね。
    ついこの前の猪狩りの事まで忘れたのかい?」





    「……だよな」





    やはりタカメには敵わない

    この先歳を重ね、体力的にも技術的にも成長したところで、それでも彼女の背中はいつも自分の前にあるのだろう

    そうツルギは思った


    それは悔しさと憧れと、そして懐かしさを伴った暖かい記憶が綯い交ぜになった、不思議な感覚だった



    しかしそんなツルギの心の声が聞こえたかのように、タカメは小さく呟いた



    「いつまでも助けてやれるわけじゃないからね」


    彼女らしくない、微かな諦めを含んだ小さな声



    その呟きを拾ったコトイは、いつものように快活に笑って二人に告げた



    「俺はいつでもお前らを助けてやる」



    それは迷いの無い、頼もしい言葉だった



    「タカメ、さっきも言ったが、何か困った事があったら頼って来い。
    ツルギとコマ五人分ぐらいは役に立つだろうからな」





    「そこまで酷くねぇよ……」


    ツルギは分かりやすくむくれて見せたが




    「そうだね……そんな事があったら遠慮無く世話になるよ」





    素直に応えるタカメの背中から硬さが取れ、柔らかい雰囲気になったのを感じて、いつかはこんな風に彼女に安らぎを与えられる存在になりたい

    そう改めて思ったのだった
  58. 58 : : 2015/12/17(木) 22:08:13




    三人がタツミの家に着くと、そこには既に里の中心を担う面々が顔を揃えていた


    そして一番の上座には、タツミではなく彼の妻に支えられながらも気丈に座る若巫女の姿があった


    「遅くなってすまない」


    コトイは詫びながらタツミの隣に腰を下ろし、ツルギとタカメも各々空いている場所に座る


    「いや、無理を言って来てもらったのはこっちだからな。
    タカメ、もし具合いが悪くなったら直ぐに言うんだぞ」


    彼は医師として、タカメの怪我の具合がどれほどのものなのかよく分かっている

    彼女の襟元から覗く血の滲んだ(さらし)に気遣わしげな視線を向けるその表情は、父親のような慈愛に満ちたものだった



    「私は大丈夫。話しを進めてくれ」


    タカメに促され頷いたタツミは、再び世話役の顔に戻り、少しでも早くこの話し合いを終わらせる為に、手際良く状況の説明を始めた



    「ここ最近里周辺で起きている異変は幾つかあるが、早急に対処すべきものの優先順位は明らかだ。

    ひとつは中断している行方不明者の捜索。

    そして麓の集落を襲った害獣の駆除。

    しかしこの二点は互いに無関係とはいえない。

    ただでさえ先日の大地震と、その後頻発している揺れで山の地盤は崩れ易くなっている。
    そこに正体不明の害獣までいるのでは、捜索中に二次災害が起きるのは必至だ。

    地震に関しては予見をするのは不可能だが、害獣の正体さえ分かればそちらへの対処は出来る。

    そこで……早速だがタカメ、お前が山で見た事を教えてもらえるか?」



    タカメは頷き、山で起きた出来事を里人たちに語った






  59. 59 : : 2015/12/17(木) 22:35:22



    「あの日私はマトリメと一緒に山に行った」


    マトリメの家を訪ねた時、彼女は夫が麓まで迎えに来ていると言っていた

    しかし迎えに来ている筈のカツラギには会えず、彼女は待つように諭すタカメを無視して、真っ直ぐに山道へと入って行ってしまったのだ


    「どう考えてもおかしかった。
    マトリメは抱いている赤ん坊が酷く泣いているのに、あやす事すらしなかった。
    山歩きなんて不慣れだろうに……まるで何かに取り憑かれてるみたいに一心に歩いて行くんだ」


    その時の光景を思い返しながら話すタカメの眉間には、深い皺が刻まれていた


    「私がいくら止めても聞かなかった。
    そんなにカツラギの事が心配なのか……たった一日離れただけでも耐えられない程なのか……
    その時はまだ私も、微かにそんな事を思ってた

    ーーーでも……

    カツラギの遺体を見ても彼女は先に進む事を止めなかった」




    「……タカメ……お前今、なんて言った?」



    コトイが訊ねる




    「カツラギは山道の途中で息絶えてたんだよ……
    襤褸布みたいに無惨な姿でね」





    「なんて事だ……」




    言葉を失うコトイに「それだけじゃない」と告げたタカメは、険しい表情のまま続けた






    「それを見てもマトリメは……

    彼女は自分の夫の遺体を踏み付けて歩き続けたんだ……」





    タカメの言葉にそこに居た全ての者は、まるで時が止まったかのようにその場に凍りついた





  60. 60 : : 2015/12/17(木) 22:58:10




    そして
    止まった時を再び動かしたのは、やはりタツミだった



    「しかし……山狩りの時にはカツラギの遺体など見あたらなかったが……」


    「タツミ、あんたが遺体を見つけていたなら、それをそのまま放っておくかい?」


    「……いや」


    「だろう?私も同じさ。
    カツラギの身体をそこから森に移して、落ち葉をかけてやった。

    山道は一本しかない。先を行くマトリメに追いつくのは難しい事じゃないし、獣道に逸れたとしても赤ん坊の泣き声が聞こえているから、何処に居るかはすぐ分かる。
    さすがに埋めてやる事は出来なかったけどね……」



    「そうか……ご苦労だったな、タカメ」


    「マトリメから離れたのは、ほんの短い時間だったと思う。
    彼女は真っ直ぐに山道を登っているようだった。
    直ぐにでも雨が降りそうな雲行きに、口で止めても聞かないなら力づくでも止めなきゃならない……そう思って彼女を追った」


    そこまで話した時

    タカメの顔が苦しげに歪んだ


    「どうした?傷が痛むのか?」


    眉を寄せ俯いたタカメは、タツミの問いかけにも黙ったまま、首を横に振るだけだった


    「少し休んだ方がいい」


    コトイが立ち上がり、ツルギもまた彼女を支えようと手を差し出す


    しかしタカメは二人を制し


    「……大丈夫……最後まで話せる……」


    そう言うと、ゆっくりと呼吸を整え、顔を上げて話を続けた



    「……結局……私はそれ以降マトリメの姿を見ていない。
    彼女の後を追いかけ始めて直ぐ、私はその場に押し倒されて……喰われかけたからね……」


    余程思い出したくない記憶なのだろう


    タカメの額には薄っすらと脂汗が滲んでいた


    タツミは尋ねた


    「今のお前にこんな事を訊くのは酷かも知れんが……

    教えてくれタカメ、『何』がお前を襲ったんだ?」


    一同は息を呑み、次に来るタカメの言葉を待った



    彼女は言った





    「山犬だ。山犬の群れが人を襲っている」と……







  61. 61 : : 2015/12/21(月) 00:34:26




    「やはりそうだったか……」


    タカメの話を聞き終え、里人の一人が小さく漏らした声は、何処か安堵の響きを帯びていた


    何故そう思ったのかは分からない


    しかし彼らはずっと、心のどこかで未知の天敵に対する不安を抱えていたのだ


    前例が無いほどの被害を生み出しているとはいえ、自分達が良く知る獣以外のものである筈は無いのに……



    「それにしても……良く無事でいてくれたな。
    麓の集落やカツラギの件から見ても、絶望的な状況だったろうに…」



    「……正直私も良く覚えてないんだ……
    赤ん坊の泣き声に気を取られていたから、襲われるまで全く気付かなかった。
    気を失う直前、雨が降り出して……」


    言い淀むタカメの顔色は、紙のように白く、血の気を失っていた




    「ここからは私がお話ししましょう。
    タカメはこの後、私が見つけるまで意識を失ったままでしたから」



    ここまでずっと黙していたマツリメが口を開いた時、里人たちはこれまで彼女の存在を忘れていた事に気付き、俄かにもう一つの不安を思い出した


    「そうだ、マツリメ!巫女様はどうされたのだ?!」


    世話役であるタツミは、詰め寄る里人を制した


    「落ち着けヒサゴ。順を追って聞かなければ、いたずらに若巫女を疲れさせるだけだ。
    彼女もまた山で一晩を過ごし、消耗していることを忘れないでくれ」



    「……そうだったな…すまん」



    「構いませんよ。皆さんが一番心配されているのは、巫女様がご無事かどうかでしょうし……
    先にお伝えしておきます」


    落ち着き払った佇まいで里人を見渡すマツリメからは、それが吉報なのか凶報なのか、予想することが出来ない


    そして彼女は神託を告げる時の様に、人としての感情の一切を押し殺した口調で彼らに伝えた





    「巫女様は……里を護る贄となって入水し、御隠れになりました」






    ーーー里人たちがその言葉の意味を理解するまで暫く時間がかかった


    その沈黙の隙間に再び若巫女の言葉が入り込む



    「そして霊山は私を試され、護り巫女を継ぐ者として里に戻された」





    「……では……これからは貴女が……」





    漸くそれだけ発した里人に、ゆったりとした所作で頷き




    「ーーー今この時より、私が里の護り巫女として御役目を果たします」



    次第に状況を呑み込み始めざわつく彼らを、新しい護り巫女は無機質な瞳で静かに見つめていた




  62. 62 : : 2015/12/22(火) 00:17:54



    「ツルギ、少しいいですか?」


    突然の訃報に混乱する話し合いの場から漸く彼らが解放されたのは、もうだいぶ日が西へと傾きかけた頃だった


    安静を必要とするタカメは、既に先に帰されている


    コトイと共に帰路につくツルギは、マツリメからそう呼び止められ、足を止めて振り返った


    目の前に立つマツリメは、昨日までの彼女とは何も変わってはいない


    先代の護り巫女は里の誰よりも年長で、その存在自体が畏怖と敬意の象徴であった


    しかし今はタカメとそう歳の変わらない、この娘が里を護るのだ


    里人たち同様、ツルギの中にも少なからず違和感と呼べるようなものがあった


    「どうした?マツリ……いや、巫女様」


    慌てて言い直すツルギに、マツリメは柔らかな微笑みを返す


    「今まで通りで構いません。ツルギたちとは幼い頃から一緒でしたし」



    子供の頃
    活発で怖いもの知らずだったタカメと、優しい姉のように彼らの世話を焼いてくれるマツリメは、ツルギとコマにとって憧れの存在だった


    その頃からタカメは、弟たちを連れ回しては危険な遊びに付き合わせていたが、生傷の絶えない三人の手当てを彼女は嫌な顔一つせずに引き受けてくれていた


    『二人はタカメより小さいんだから、あんまり危ないことさせちゃダメよ?』


    そうマツリメに諭され、不貞腐れて背を向けるタカメの姿を思い出す


    しかしマツリメが若巫女として社に預けられた日、泣きながら見送りを済ませた二人は、一人浜辺に立ち泣いているタカメを見つけ、彼女もまたマツリメを友として大切に思っていたことを知ったのだ



    「すまない、慣れるまではそうさせてもらうな。
    実は俺もお前に訊きたいことがあったんだ」


    ツルギは懐かしい記憶を胸に仕舞い、気持ちを切り替えてコトイに声を掛けた


    「おい親父、先に帰っててくれ」


    「ツルギ、巫女様もお疲れだろうから、社まで送って差し上げながら話すといい」


    コトイの提案に、マツリメは柔かに頷いた



    「そうですね。行きましょう、ツルギ」



    二人はコトイと別れ、肩を並べて社へと向かった





  63. 63 : : 2015/12/23(水) 01:06:20




    「話ってソラメのことだろ?」


    「ええ、彼女の様子に何か変わったことはありませんでしたか?」


    変わったことも何も……

    初めから普通の娘とは全く違っている


    ツルギは正直にそう伝え、今までのソラメとのやり取りを話して聞かせた


    「やはり言葉が話せない訳ではないのですね……」


    「自分の素性については、相変わらず何も言わないけどな」


    考え込むマツリメに、ツルギは尋ねた


    「なあ、巫女様はソラメの記憶を消したのか?」


    「記憶……?」


    驚いたように返したマツリメは、足を止めてツルギを見上げた


    「あの娘……ソラメがそう言ったのですか?」


    「ああ、自分は巫女様に記憶を消されたと……」


    実際には「娘」の記憶が奪われたのだとソラメは言ったが、それでは一人の人間の中に複数の意識が存在する事になってしまう


    その辺りの不可解な事柄を上手く説明出来ないツルギは、ソラメから聞いた事実だけを伝えた


    「だから一度巫女様と話をさせてくれと、頼まれていたんだが……」


    「……そうでしたか」


    呟いたマツリメは再び歩き出した


    「ソラメと対面した時、私も一緒に居ましたが、そのような事はありませんでした。
    そもそも巫女様のお力は予見に属するものでしたから……」


    「やっぱりそうだよな……
    ソラメが着ていた衣をタツミに見せてみたが、何の手掛かりも無かった。
    都の平民が着る、平凡なものらしい」


    「やはり都から流れ着いたのでしょうね」



    「それもおかしな話なんだけどな。
    都とこの里を繋ぐのは霊山を越えるのが普通だ。
    船で都から来るのには潮の流れに逆らう事になる…漕ぎ手もいない小舟がどうして流れ着いたのか……」


    その時、少し前を歩いていたマツリメが急に立ち止まり、ツルギは彼女の背中を抱えるような形になった


  64. 64 : : 2015/12/23(水) 01:20:38





    「悪りぃ、ちゃんと前見てなかった」


    慌てて身を引こうとしたツルギの鼻腔に、甘い花の香りが届く


    マツリメはツルギの腕を捉えると、向き直ってその頬に軽く触れた


    「いつの間にかずいぶん大きくなったのね?」


    「え?!な、なんだよ急に!」


    「一緒に遊んでいた頃はまだ私より小さかったのに……」


    「俺よりコマの方がでかくなっただろ!」


    「そうね……コマは大きくなり過ぎて、話すと首が疲れるの」


    クスクスと笑うマツリメ


    口調も幼い頃のような砕けたものに変わっている


    甘い香りは更に強くなり、ツルギの頭を痺れさせた




    「正直に言うとね……少し怖いのよ。
    巫女様はとても力のあるお方だったから……」



    「なんだ…そんな事か。
    大丈夫だ。マツリメは巫女様の後継者として認められてるんだから、自身持てよ。
    俺やコマもお前の力になるからさ」


    言ってしまってから、そういえばコマも同じような事を言っていたな……
    と、心の中で苦笑したが、力になりたいと思う気持ちに嘘は無かった


    マツリメは嬉しそうに微笑み、ツルギから身体を離した



    「ありがとう、ツルギ」



    そして巫女の顔に戻り、自分が果たすべき務めを告げた



    「明日ソラメと話をしてみます。
    彼女がどんなつもりでそんな嘘をついたのか、しっかり見極めないといけませんから」


    ツルギは頷き、二人は再び歩き始めた




    マツリメを社まで送り届け一人帰路につく間、甘い花の香りはいつまでもツルギの側から離れなかった


    沈みかけた夕陽を正面から浴びた彼の影は、社と…そしてその後ろにそびえる霊山に向かって、濃く、長く伸びていた






  65. 65 : : 2015/12/27(日) 20:42:21




    夜になり、コトイが床に就いた事を確認したツルギは、一人獄の小島へと向かった


    ソラメは思わぬ刻の来訪者に訝しげな反応を見せたものの、取り急ぎ伝えたい事があると告げられ、いつもの位置に腰を下ろす



    月明かりさえ届かない完全な闇の中、ツルギの話を聞き終えたソラメは「ほぅ……」と一言だけ呟いた



    「それだけか?お前は巫女様と話して、記憶を消した理由を知りたがっていただろう?」


    「左様、今でもそう思っておる。
    しかし先日も言っただろう、ぬしらの巫女は見つからんとな」


    「何故そう言い切れる?お前は何を知ってるんだ?」



    「知ってるも何もない。ぬしが今言った贄になった巫女とやらは、はなからこの里には居らぬからな」



    「……どういうことだ?」



    「儂がこの里に来る以前の事は知らぬ。だが、ここに来てから会った巫女は、若い女一人だけだ。
    あの女はぬしが言うところの若巫女とやらなのだろう?
    その者が健在ならば、対話するのになんの問題もない」



    「マツリメしか居なかった……?
    そんなはずはない!」



    マツリメは確かに『巫女様』からの指示や神託を、つい先日まで伝え続けていた


    そしてユズルもまた、巫女様と確かにお会いしたと言っていたのだ

    あの笑顔に嘘の翳りは見えなかった




    「記憶を消す能力持つあの女ならば、記憶を書き換えることもたやすいだろう」




    その言葉に、ツルギは己の足元にある確かな地盤が、不安定に揺らいでいくのを感じた


    取り巻く闇はまるで生き物のようにゆらゆらと形を変える


    耐え難い眩暈に翻弄されながらも、彼は自我を保つ為に必死で意識の奥を探った



    「……そんなでたらめな話を信じろというのか?」



    一旦口に出してみると、それはぴたりと崩れかけた足元に嵌り込み、心の不安を和らげた



    そうだ、どう考えてもソラメの言葉の方が異常ではないか


    記憶を消されたというのも、巫女様がこの里に居なかったというのも、すべてが嘘であるならば、里人全員が信じている『記憶の秩序』は保たれるのだ


    彼の意識は確固たる拠り所を得て、全く形の違うモノに変貌していた



    「何と思われようと儂は己が見たままを述べただけ。
    仮にぬしの言う『巫女様』とやらが居たとして、そもそも贄になるほどの予見の力を持つ者ならば、もっと早くに海嶺の異変に気付いていただろうよ。

    そしてあの日、娘の記憶を消し去ったのは、確かにあの若い巫女だった。これは間違いようのない事実だ」






    しかし、ツルギの耳にその言葉は届かない


    彼は無言のまま、手に持つ鍵を錠に差し込んだ





  66. 66 : : 2015/12/27(日) 21:13:18





    鉄製の柵が開かれる重々しい音に一瞬目を細めたソラメは、ツルギが近づいてくるのを感じてもそこから動くことはなかった


    「お前が来てから里はおかしくなった……俺がお前を見つけなければ……」


    ツルギがしきりに呟く声は、少しでも動けば触れてしまいそうなほど近くに聞こえる


    「こんな小娘一人の存在が、里に災いを呼ぶほどの力を持つと思うのか……
    ならば消してみるがいい。お前なら簡単なことだろう?」


    ソラメの挑発にも、ツルギは反応を見せなかった


    呪文のように同じ言葉を繰り返しながら、ゆっくりとした動作でソラメの首に手を掛ける




    「‥‥‥ぐっ……」




    喉を潰され声を上げることすら出来なくなった彼女は、それでも抵抗することなく冷静に様子を伺っていた


    表情が見えない暗闇であっても、ツルギが激情に駆られているわけではない事は、はっきりと分かる


    彼は害獣を駆除するのと同じ感覚で、確実に自分の存在を消そうとしていた



    「これで大丈夫……里は救われる……こいつさえ居なくなれば……」



    首に食い込む指の力が次第に強くなり、意識が失われかけた



    ーーーその時



    眩しいほどの松明の光と共に、凛とした声が獄の闇を消し去った





    「ツルギ!!手を離せ!!」





    その声の力は絶大だった


    ツルギは雷に打たれたように体を起こし、声の主へと目を向ける




    「……タカメ……?……どうして……?」




    タカメの後ろから現れたコマが、咳き込むソラメに駆け寄り、その体を抱き起した



    「コトイが知らせてくれたんだよ。あんたの様子がおかしいってね」



    「親父が……?」



    うっそりと前に出たコトイは、呆然としている息子に訊ねた



    「おいツルギ、お前今日の晩飯に何食ったか覚えてるか?」




    どうしてそんなどうでもいいことを訊くのだろう……


    そう思いながらも記憶を辿ったツルギは、夕食どころか苫屋に戻ったことすら覚えていないことに気付き、愕然とした


    そんなはずは無いと思い必死で記憶を探るが、夕刻以降の出来事がまるで思い出せない




    「まるで山に入った時のマトリメみたいにおかしかったそうだ」



    淡々と告げるタカメの声が遠くに聞こえる



    それ以上何も聞きたくない……



    「多分タツミの家を出た辺りから覚えてないんだろ?」




    言うな……!




    「あんたは……」




    黙れ!!!!





    ーーーしかし彼の口からは微かな呻き声しか漏れず


    遮られる事の無かったタカメの言葉は、容赦なくツルギの元に届いてしまった






    「あんたはマツリメに操られていたんだよ」







    夕刻に見たマツリメの笑顔がツルギの脳裏に鮮やかに蘇る




    呪縛の解けた彼の意識は、深く、底の見えない虚無の海へと静かに沈んでいった






  67. 67 : : 2016/01/02(土) 21:58:53






    古くからこの國では、大海の果ては常世(とこよ)と繋がっている

    そう言い伝えられてきた


    山の結界が 現世(うつしよ)と神域との境であるなら

    海の結界は現世と常世との境


    ほんの一刻も止まることなく打ち寄せる波は、数多の命を生み出しながら、それと同じだけの死せる御霊を常世に運ぶという



    コトイは水平線の向こうに居るはずの妻を想い、息子を護り切れなかったことを詫びていた


    未遂で食い止められたとはいえ、ツルギは人を手にかけた


    今はまだ眠っているが、目を覚ました時、一体どれ程傷付き、自責の念に駆られるか


    彼は『剣』という仮名の通り、曇りの無い真っ直ぐな心根を持つ少年に育ってくれた


    だからこそ今夜ツルギが背負った闇は、長く彼自身を苦しめるだろう


    そしてコトイもまた、親としての責務を果たせなかったことへの自責を背負い、静かに揺蕩う波を見つめていた





    「……コトイ?」


    声を掛けられ振り向くと、そこには先ほど別れたばかりのタカメの姿があった


    「どうした?何かあったのか?」


    反射的にそう答え、立ち上がろうと腰を浮かせる


    そんなコトイを見たタカメは、驚いたように目を見開いた後、何故か哀しげな笑みを浮かべた



    「やだな……そんなに構えないでくれよ。
    ソラメはタツミの所で、ツルギとコマは自分の床の中で、みんなぐっすり眠ってるさ」


    「ああ……そうだな……すまん」


    「謝るなって」


    そう言いながら、タカメはコトイの隣に腰を下ろした


    「で……タカメ、お前はどうしてぐっすり眠ってないんだ?」


    コトイに訊ねられたタカメは、少しの逡巡の後


    「多分あんたと同じ理由だ」


    目の前の波から目を逸らさずに呟いた


    「俺と同じ?」


    「そうだよ。私のせいでツルギを傷付けてしまった。
    だから先ずはあんたに謝りたかった……」


    「おいおい、あれはお前のせいじゃないだろう?
    むしろあいつを助けてくれたじゃないか」


    「いや、私のせいなんだよ。
    あの時私が判断を間違えなければ……」


    「タカメ?どういうことだ?
    分かるように話してくれ」


    自分の顔を覗き込んできたコトイの視線は、優しく子どもを諭す時のように暖かい


    タカメは今自分に持てる限りの勇気を掻き集め、覚悟を決めて顔を上げた



  68. 68 : : 2016/01/02(土) 22:22:10




    「私は知っていた……マツリメが記憶を書き換える力を持っていることを……」


    コトイは僅かに驚きの表情を浮かべたが、何も言わずにタカメの言葉を待った


    彼女は一言一言噛み締めるように、ゆっくりと話を続けた



    「あの日……山で意識を取り戻した時、マツリメは私に何度も言った。
    あなたは山犬に襲われたのだと……
    最初、私の記憶はその通りに書き換わっていた。

    でもしばらくすると元の記憶に戻るんだ。
    その度にあいつは同じ言葉を繰り返す……何度も……何度も……

    そのうち私は自分の記憶がおかしいのかと思い始めた。
    本当はマツリメの言う通りなんじゃないかと……

    だからあんたたちには山犬に襲われたと言った。

    本当にそんな力が存在するものなのか確信が持てなかったし、何より自分が怖かったから……」


    「怖い?何故だ?」


    タカメは目を閉じ、再び俯いた



    「いや、今話したくないのなら無理はしなくていいぞ」



    しかし彼女は小さく首を振り


    「これを見てくれ」


    そう言って襟元を大きく開くと、首から肩口にかけて巻かれていた晒を解き始めた


    「おい!まだ傷が塞がってないだろう!」


    コトイは慌てて止めようとするが、解けた晒が滑り落ちた後、そこにあるはずのものが無くなっているのを見て、声を失った



    「……傷が無い……?」



    ようやくそれだけの事を言ったが、タカメは自虐的な笑みを見せ


    「昨日まではまだ少し痕が残ってたんだけどね……
    すっかりきれいになっちまった」


    独り言のように呟く



    「一体どうして……」



    「あんたも知ってるだろ?
    どんなに傷付けられても再生する化け物のこと」



    「…………まさか」



    「あの日、山で私を喰おうとしたのは、山犬なんかじゃない」



    諦めと覚悟を滲ませた告白に、全てのものが音を無くし

    コトイもまた息を詰めて彼女の次の言葉を待った





    「ーーー私を襲ったのは傀儡だ。

    しかもそいつらは里人の姿のままだった。

    山にいるのは……傀儡になった人間なんだよ」




  69. 69 : : 2016/01/03(日) 23:49:53




    全てを話し終えたタカメは脱力し、小さく震えている


    彼女の告白はコトイの想像を超えていた

    何をどう考えればいいのか……


    漁師を生業としてきた彼には手に余る事実だった


    しかしそれでも彼は、目の前で震える少女への労わりを忘れなかった


    はだけた衣をそっと直し、出来る限り落ち着いた声で彼女に伝える


    「良く話してくれたな。
    一人で抱え込んでいるのは辛かっただろう……」


    「ごめん……本当にごめん……」


    「謝るな、タカメ。
    言っただろう、助けが必要な時はいつでもお前らを護ると。
    俺はお前を護りきれなかった。謝るのは俺の方だ」



    タカメは唇を噛み締めて、最後の願いを口にした



    「ーーー助けてくれるっていうのなら……今すぐ私を殺してくれ」



    「タカメ!」



    「化け物になった姿なんか誰にも見られたくない……
    中途半端に傷付けても再生しちまうんだ……だから……頼む……」



    悲痛な願いはコトイの胸に突き刺さる


    己の身に起きた災厄を受け止めるまでに、彼女はどれほど悩み、苦しんだか……


    そして出した答えは、コトイに命を絶って貰う事だけが救いの『絶望』だったのだ


    彼女の覚悟を覆す言葉は簡単には見つからない


    それでもコトイは違う形で彼女を救ってやりたかった



    「なあタカメ、今のお前は俺の目には化け物なんかには見えない」


    「時間の問題だ……きっとじきにその時が来る……」


    「ならば約束しよう。
    その時が来たら、俺が必ずお前を救ってやる。
    だからお前がタカメでいられる間は、生きる事を諦めないでくれ」


    「無理だよ……怖いんだ……
    いつあの化け物になって、家族や里人を襲っちまうか分からない。
    そんなの耐えられる訳ないだろう!」



    「落ち着け、タカメ」



    コトイはタカメの身体を腕の中に抱き込み、幼子をあやす時のようにその背を撫でた


    「俺を信じてもう少しだけ耐えて欲しい。
    大丈夫だ、お前を一人にはしない。
    どんな結果になっても、これ以上お前を傷付けたりはしない。

    だから生きてくれ、俺の為に。
    お前の家族や、ツルギの為に……」





    タカメはもう何も言わなかった


    ただ黙ってコトイの腕の中で、血の涙を流し続けていた


    この涙が流れているうちは人でいられる


    彼女にとってそれは、悲し過ぎる自己肯定であり、束の間の安穏の証でもあった




  70. 70 : : 2016/01/10(日) 22:46:42

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    『君はどうしてここに連れて来られたのか分かるかい?』


    白衣を着た男が私に声を掛ける


    ―――分からない


    そう答えたつもりだったけれど、いつも通り私の言葉は彼には伝わらなかった


    『ね?やっぱり一切の反応を示さない。
    どう考えてもこの検体はハズレだと思いますよ』


    彼は隣に立つ女性に、私が『欠陥品』であることをしきりに伝えたがっているようだった


    『目に見える結果を求めるのが、貴方たち科学者の性ですものね』


    女性は私に向けた好奇心に満ちた視線を、逸らすことなくそう言った


    『科学からデータを取ってしまったら、それはファンタジーという名の別物になってしまう』


    『でもシックスセンスはファンタジーじゃないわ。
    確かに存在する第六の感覚よ』



    『そもそもどうしてそんな不確定で量産も出来ないような能力に、我が国の未来を託さなければならないのか……甚だ疑問に思いますよ』


    『なら訊くけど、貴方には2000年後の未来が想像できる?』


    『どうでしょうねぇ……このまま何の手立ても為さないでいたら、ろくでもない未来にしかならないでしょう。

    未来が夢のような世界に描かれていたのは、21世紀の始めまでですよ』



    『おかしな話よね。あの頃からこの星を何度も壊せるだけの兵器を各国が持っていて、お互いに牽制し合っていたのよ?

    宇宙にまで飛び立てる技術があっても、スイッチ一つですべてが終わってしまう世界だったのに、彼らは未来に希望を持っていた』



    『実際にスイッチ一つで壊滅状態まで追い詰められましたからね。
    単に先を見通す力の欠如した、能天気なぼんくらだったんでしょう』


    『随分厳しいのね』


    『あいつらのせいでどれだけ後世の人類が迷惑を被ったと思ってるんです?その後の1500年のうち半分以上は全く進歩のない、文明の氷河期を迎える羽目になったんですよ?

    今一番文明の進んでいる我が国でさえ、19世紀の技術にようやく追い付いたぐらいだ。
    それ以外は殆ど未開の原人レベルです』




    『今あなたたちが研究している“あれ”はそんなことにはならないのかしら?』



    『“シモベ”は完璧です。貴女も良くご存じのはずだ。
    彼らは生態系を壊すことが無い。どんなに過酷な環境でも耐え、自らを動かすエネルギーすら必要とはしない。

    理想的な生命体です。

    彼らを作り出し、後世に遺してくれた事だけは、大戦前のご先祖様を評価したいですね』



    『そうね……環境を全て破壊してしまうような物騒な兵器を持つ必要が無くなるんですもの』



    『あー……先日発表になった、彼らを生物兵器として利用する研究の決議ですか。
    あれなら否決されましたよ。

    人だけを選んで攻撃するような都合のいい因子を持たせるなんて、今のところ不可能ですから』



    『今のところはね……』




  71. 71 : : 2016/01/10(日) 23:04:10




    『結局何が仰りたいんです?』


    『この世に不変のものなどありえない。どんな繁栄にも必ず終わりは来る』


    『それはもちろん』


    『でも太古から変わらないものもあるわ。そして途絶えることなく引き継がれているの』


    『シックスセンスの力ってやつですね』


    『今はモンゴロイド…その中でも一部の者にしか見られない力だけれど、そもそもは誰にでもあったはずなのよ?』


    『物理世界と精神世界の融合ですか‥‥…先生の論文を読ませて頂いたが、今はまだ壮大なファンタジーでしかないですね。

    それに、貴女自身が今言ったばかりでしょう?
    例え魔法使いが実権を握る世界が来たとしても、必ず終焉は訪れるんです』


    『その通り。だからこそ必要なのよ。

    時代が変われば思想や文化が変わってしまう。
    弾圧や支配を受けても変わらずに、前時代からの記憶を後世に残す器がね』


    『それって……何の役に立つんです?』


    『役に立つかどうかは私にもわからないわ。
    だってそうでしょう?彼らは其々の立場でその時代を生きて来たのだから』



    『話が大きすぎてついて行けないな……
    残念ながら神様の視点なんて大層なモノは持ってないんでね。

    自分は大人しくシモベたちと意思疎通が出来る検体の研究に集中しますよ』



    『まずはその“検体”との意思疎通が必要みたいだけどね。
    貴方たちはアルカイックだと馬鹿にするけれど、彼らは決して未開の原人なんかじゃないのだから』


    『わかってますよ。
    だから貴女がここにいるんでしょう?
    シックスセンスの力でも何でもいいから、こいつらに文化的な考え方を教えてやって下さい』



    『全く……話にならないわね』




    彼らの会話は歩み寄ることなくいつまでも続いている


    いつになったら終わるんだろう…


    退屈になった私は、お行儀が悪いとは思ったけれど、こっそりと小さなあくびを漏らした



    『あ!!』



    『どうしました?』



    『今この子あくびをしたわ!私たちの話がそんなに退屈だったのかしら』


    『えー……脳波以下全てのデータに何の変化もないですよ?
    それに身体機能は失われたままなのにあくびって……』


    『何度言えばわかるの?この能力はそんなものでは測れないのよ』




    『やっぱりファンタジーだ……もしくはオカルトですね。

    大体どうして貴女にだけそんなことが分かるんですか?』





    『あら、言ってなかった?実は私にも“オリエント”の血が少しだけ混ざっているのよ』





    そう言って彼女は、花のような艶やかな笑顔を彼に向けた



    そして私も少しだけ



    その笑顔に見惚れてしまったのだ








    まだ私たちが狩られる前


    どこよりも早く立ちあがって、世界を手に入れたと勘違いした支配者が、幾度となく繰り返された同じ過ちに落ちて行く前



    ーーーそれはほんの100年と少し昔の記憶








    ーーーーーーーー

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    ーーーー


  72. 72 : : 2016/01/10(日) 23:26:53




    疑惑と狂気、そして悲哀が混濁しながら闇を支配していた夜

    それでもひとたび日が上れば、全ては光の元に晒され、罪の形が明らかになる



    日の出前に禊ぎを済ませ、社の奥に座したマツリメは、静かにその時を待っていた



    生涯の殆どを薄闇の中で過ごしてきた

    陽光の明るさに慣れる事は無いと思っていたが、何故か今朝は心地良く感じる



    たった半年でこうまで人らしくなれるものか

    それならばこれ以上時を重ねずに済んだ事を喜ばなければ……


    そんな感慨に耽りながら、短いようで長かったこの半年を思い返していた



    理不尽に狩られ蹂躙される恐怖を知らないこの里の暮らしは、彼女のこれまでとは真逆の、光に満ちたものだった


    日の出と共に生き、日の入りを見て眠る

    生を受けた時から光の差さない地下に潜り、夜を待って蠢く『獲物』だった彼女には想像もつかなかった生活は、羨慕を通り越して憎しみに近い感情を芽生えさせていた



    先代の巫女が最期に言った言葉が今でも耳に残っている


    『禍福の全ては己の中にある。
    負った業を嘆くだけでは誠の光は見つからぬだろう』


    命の期間が短いこの時代に、齢八十を越えて生きた先人の言葉を、彼女は苦々しい思いで聞いていた



    必死で己の心に光を灯しても、一瞬で踏み躙られる経験をした事があるのか?

    どれだけの者たちが、無念の想いを抱えて無駄に命を落としているか知りもしないだろう?


    お前らのような『家畜』には決して分からない

    絶望の中でしか生きて来なかった『獲物』の苦しみが……



    今でもその想いは変わらない


    しかしここに来る前、彼女の心を占めていた、どんな事をしてでも生き抜こうという執念は、だいぶ薄らいでしまっている



    これが光を浴びた者の持つ弱さなのか……



    マツリメは完全に日が昇ったのを確かめ、外に出た


  73. 73 : : 2016/01/17(日) 22:41:35




    目覚めたばかりの里の朝


    まだ里人の姿はどこにも見えない


    高い空を自由に飛び交う小鳥の囀りと遠く聞こえる潮騒は、マツリメが最も愛おしみ、最も厭わしく思う平穏の象徴だった


    歩く速さに合わせて頬を撫でる秋風が、とても心地良く感じられるのは何故だろう……


    ゆっくりと、その感覚を味わうように彼女は目的の場所へと向かった



    社から一番近い井戸に着いたマツリメは、火薬の詰まった筒を地面に立て、火を付けた


    筒から立ち昇る赤い煙は、彼女の心中のように穏やかに澄んだ早朝の空へと真っ直ぐに伸びていく




    呆気ないほど静かな最期だった



    もうじき里に終焉が訪れる


    それは予め決まっていた運命によるものか

    それとも彼女が導いた禍神の仕業によるものか


    どちらにしても彼女には、この後訪れる惨禍を見届ける義務はない


    後は自分をここに送り込んだ彼奴らと、見張り役の彼がなんとかするだろう




    次に彼女は、懐から出した薬包の中にある白く半透明な結晶の粒を手のひらに乗せた


    今まで里の井戸に溶かし込み続けてきたこの結晶は、彼女の力の効果を高める働きがあるらしい


    都では金より高い価値で取り引きされているようだが、彼奴らはこれを大量に準備していた


    『箱庭』の『家畜』に与えつづける為に……





    その時、マツリメの脳裏に一人の少年の姿が浮かんだ


    彼は里人の中でも彼女の力が届き難い存在だった

    いつも少し距離を置き、何か用事があるときにしか声をかけて来ない

    それでも彼女の記憶の中には、自分の名を呼ぶその声が、何故かはっきりと刻まれていた





    「マツリメ」





    「……!?」





    頭の中では無く、耳に届いた呼び声に驚いて振り向く

    しかしそこに立っていたのは思い描いていた人物とは別人の姿だった



  74. 74 : : 2016/01/17(日) 22:46:20



    「コマ……」



    いつになく硬い表情の彼を見たマツリメは、微かに芽生えた期待が完全に潰えたことを知った


    昨日仕掛けた勝負に、彼女は負けたのだ



    「もうじきタツミたちがここに来る」


    コマは険しい顔で言った


    「そう……」


    「でもその前に、マツリメに伝えたい事があったから……」


    里を裏切った自分に、今更何を言うつもりなのだろう……


    糾弾され、蔑まれることには慣れている



    しかしコマはマツリメが予想もしなかった言葉を口にした



    「マツリメ、俺たちをずっと騙してたんだろ?
    その事がばれちまって……お前は大丈夫なのか?」



    「……えっ?」



    「いや、それがお前の意思だったなら構わないんだ。
    俺たち……っていうかタツミたちもお前に酷いことをするつもりはない。
    だって理由もなくそんな事しないだろうし……」



    「コマ……?何を言っているの?」



    「えっと……だから……
    もし俺たちを騙してたのがマツリメの意思じゃなく、誰かの差し金だったとしたら、失敗しちまったお前はどうなる?」




    ああ……なんて無防備な世界なんだろう……


    『家畜』たちはどこまでも愚直で……

    彼らが生きる『箱庭』は、腹が立つほど平和だったのだ


    彼女がいた場所では、逆らう者、都合の悪い者は、理由も意思も関係なく一方的に排除される


    それが当たり前であったし、更に言えば生まれや血脈によって、ただ生きているだけで狩られる運命を甘受しなければならないのだ



    「私が酷い目に遭うと知ったら、コマは助けてくれるの?」



    そんな事は不可能だと知りつつ、マツリメは彼に尋ねた



    「勿論だ!まだお前がした事全部がはっきりしたわけじゃないけど、ガキの頃からずっと一緒だったじゃねぇか。

    なんか……今でも信じられないけど、お前は記憶を書き換えられるらしいし……その力を利用されてただけなんだろ?」





    ーーー目眩がする





    自分たちのよく知る者が悪意を持つわけが無いと、盲信している純粋さ


    呆れるほどに愚かで



    そして哀しい



    「私がこの里に初めて来たのは、ほんの半年前よ?
    あなたが言う子供の頃の記憶も、私にとって都合良く書き換えただけ」


    驚いたように目を見開くコマの顔が、彼女の加虐心を煽る


    「他にもあるわ。
    私は山に傀儡と言う名の『種』を蒔いたの。
    そして里人たちがその異変に気付かないように記憶を操作した。
    何故なら出来るだけたくさんの里人を、傀儡の餌にしなければならなかったから」



    「……餌?」



    冷たい視線を自分に向けるマツリメは、コマのよく知る優しい彼女とはまるで違って見えた



    「どうして……そんな……」



    「理由は簡単。あなた達は餌になるために育てられていた『家畜』だからよ。

    コマ、あなたは生きていくために獣を狩るでしょう?
    狩った獣は食料にして、毛皮を利用するわよね?
    それと同じ。

    傀儡には餌が必要で、私は生きていくためにあなた達を利用したの」



  75. 75 : : 2016/01/22(金) 20:00:04




    マツリメは己の感情のまま、言葉を選ばずコマに告げていた

    それを聞いた彼が傷付き、怒り、自分を憎むようにと、殊更に酷い言い方で彼を追い詰めた


    いつしか彼女は『家畜』であるコマにも、自分が支配者に対して抱いている感情と同じものを植え付けようとしていたのだ


    しかし実際は、哀しげな視線を自分に向けたまま立ち尽くすコマがいる


    「ねぇコマ、あなたは自分達が餌だったと知ってどう思う?

    何の罪も無い、ただ真っ当に生きて来た里人達の命が一方的に奪われるのよ?」


    どうしても彼から自分が望んでいる一言を引き出したくて、マツリメは尋ねた


    するとコマは少し困ったように眉を顰めて言ったのだ



    「元々俺たちは熊や狼の餌だからな……

    獣だって容赦ねぇよ?善人だろうが赤ん坊だろうが関係無く喰っていく。

    俺たちは道具が無けりゃ牡鹿や猪より弱いし……
    しっかり武器を用意してたって、年に何人かは喰われちまってる。

    だからこうやって弱い者同士が集まって、助け合って生きてるんじゃねぇの?

    さっき傀儡の餌になる為に育てられたって言ってたけど、そう言われたからって何もしないで大人しく喰われる奴なんかどこにも居ないぞ。
    ちっぽけなウサギでさえ、最後まで抵抗はするもんだ。

    でもさ、それでも勝てねぇなら……
    それはもう仕方ないよな……?」



    今度はマツリメが立ち尽くす番だった



    「……仕方ない?
    あなた、そんな簡単に自分の命を諦められるの?」



    「いや、勿論すげぇ嫌だよ?
    だから精一杯抵抗はするさ」



    「無駄なのよ?どんなに抵抗しても勝てない事は初めから分かっているのよ?」



    既にマツリメの問い掛けは、自分と支配者との構図にすり替わっていた



    「なら逃げる。親父やタカメに良く言われてんだ。
    お前は逃げ足が速いから長生きするってな」



    「だめ……逃げられない……どこへ行っても……」


    苦しそうな表情を浮かべるマツリメを、コマは気遣わしげに見つめた



    「なぁマツリメ、お前どうしてそんなに弱気なんだ?

    俺から見たらお前の方がよっぽど、自分の命を簡単に諦めてるようにしか見えないぞ?」



    「そんな事無い!私は生きる事を諦めなかったからここに来たのよ?
    コマこそ自分で言ったじゃない、勝てなければ喰われても仕方ないって!

    私は嫌だった……
    到底勝てないと思っていても、まるで虫けらのように一方的に奪われるのは我慢出来なかった。

    ……だから……獣みたいな彼奴らに従って、自分が獣になる事で生き延びたのよ!」



    マツリメは心の奥底に閉じ込めていた本音を、隠すことなくそのまま吐き出していた




  76. 76 : : 2016/01/22(金) 21:05:51



    ずっと自分自身を偽ってきた

    彼奴らがそう呼ぶから里を『箱庭』と呼び、里人達を『家畜』と呼んだ

    人の道から外れていると心のどこかでは思っていたが、彼奴らの思想に愚直に従っていれば罪悪感など芽生えなかった


    だって『家畜』達はその為に生まれたのだから

    自分達のように狩られる事もなく、平和に暮らしているのだから……


    しかし今、彼女は認めてしまった


    流れる血の種類に優劣を付け、人を人とも思わない『獣』になどはなりたくはなかったと


    マツリメの悲痛な叫びに、彼女に謀られ命を危険に晒されているコマの心も激しく痛んだ


    それは自分の為の痛みではなく、そこまで追い詰められていたマツリメへの深い憐憫の情だった



    コマは言った


    「人は獣にはならねぇよ。

    だからマツリメ、お前も獣なんかじゃない。

    まだ間に合うだろ?
    本当はこの里に来た時直ぐにそうやって話してくれてれば良かったけど……」



    それを聞いたとき、彼女は漸く自分が手に掛けた巫女が言った、最期の言葉の意味が分かった



    この里に入った時に、過去のわだかまりは捨ててしまえば良かった……



    彼女は虐げられた記憶の呪縛に囚われたまま、自分と同じ運命を辿ろうとしている里人達の上に立った気でいた


    しかし

    『人は獣にはなれない』

    そうコマが言った通り、彼女は支配者になったわけではない

    それどころか道具としての価値すら既に無くしかけている




    一体……何の為の決断だったのか……



    鼻先に突き付けられた延命と仮初めの平和の為に、同胞を殺める道具に成り下がるくらいなら

    決して勝てないと分かっていても、この光の中に住まう彼らと共に、新しい抵抗を試みるべきだったのだ



    そしてそれで命が失われるなら……



    『それはそれで仕方ない』と思えたのだ……




    「……やっと分かったわ。あなたが言っていた言葉の意味が……

    私が苦しかったのは、彼奴らのせいじゃなかった……」



    ーーー禍福の全ては己の中にある
    負った業を嘆くだけでは誠の光は見つからぬだろう



    彼女は先代の巫女と、目の前に立つ健やかな駿馬を思わせる様子の少年に向けて言った




    「最期に気付けて良かった……

    私に出来る事はもう何も無いけれど、一つだけあなた達に遺せるものがあるわ」



    「なんだよ、最期って!」



    語気を荒らげるコマを見つめるマツリメの瞳は、微笑みを湛えて穏やかに澄んでいた



    「ソラメを……」



    言いながら握り締めたままだった掌を開き、口元へと運ぶ



    「マツリメ!何してるんだ!」



    コマが駆け寄りその腕を押さえつけるが、結晶は全て彼女の中へと消えていた



    「彼女は私と同じ所から逃げて来た娘……

    地下の暗闇でも光を諦めなかった……」



    次第に輝きを失っていくマツリメの瞳には、厭わしいという暗い感情を含まない、どこまでも明るく心地良い、美しい青空が広がっていた




    「マツリメ!」





    「彼女を救ってあげて……」





    コマは腕の中で力を無くしていくマツリメに向けて、必死でその名を呼び続けた











    そして

    最期の時


    マツリメは記憶の中の彼女と同じ微笑みを浮かべ




    ーーーありがとう






    一言呟いて事切れた





  77. 77 : : 2016/02/02(火) 00:50:23






    その少し前

    巫女の社からほど近い雑木林に、快晴の青空へと一筋伸びた赤い帯を見上げて、嬉しそうな笑みを浮かべる少年の姿があった



    「やっと決心したかぁ。
    全く……女っていうのは余計な感情に振り回され過ぎだよね。
    そうは思いません?」


    彼の足元には、辛うじて息はしているものの、確実に死への道を辿りつつある男が横たわっていた



    「苦しくは無いでしょう?
    何しろ最新の薬らしいですから。
    無駄に苦しめたりはしないんですって。

    自分たちの手を汚さない事と、殺す相手に苦痛を与えない事を自慢にしているんですよ、彼らは。
    我々は野蛮人とは違うんだ、ってね。

    笑っちゃうでしょ?」


    大して可笑しくも無さそうに言い捨てる



    「ーーーでもまぁ、間に合って良かった。
    貴方があの娘を連れて帰ったりするから、僕も慌ててちょっと先走っちゃったけど……これで余計な時間稼ぎしなくて済みそうだ」



    横たわっている男は徐々に呼吸が浅くなり、身体を強張らせていく


    彼は遠ざかっていく意識をなんとか繋ぎ留めようと、静かに、しかし必死にもがき続けていた


    「そんなに頑張らないで、早く楽になっちゃって下さい。
    この後僕も色々忙しいんです」




    男を見下ろす少年の瞳に邪気は無い


    あまりにも見慣れたその表情は、一瞬これが全て夢なのではないかと男に錯覚させるほどだった


    彼は悪夢からの覚醒を願い、力を振り絞って少年の名を呼ぶ






    ーーーユズル……





    しかし漸く口から漏れたのは、浅い呼気に混ざった微かな音だけだった


    それでも少年はその響きをしっかりと拾い





    「さようなら、タツミさん。
    大丈夫、すぐ皆さんも其方に連れて行きますから」





    無垢な笑顔をタツミに向けた後

    急に興味を失ったように背を向け、浜に向かって歩き出した











    『種』は撒かれ

    そして生まれた禍いは放たれた


    偽りの安寧に護られていた『箱庭』は霊山から降りてきた十数体の禍神によって、最期の刻を迎えようとしていた




  78. 78 : : 2016/02/02(火) 01:01:12




    それは傀儡達による一方的な殺戮だった



    まだ目覚めたばかりの里人達は、戸口に現れた人影が返り血を浴びて真赤に染まっているのを見ても、大きな危機感を覚えず

    ただ茫然と侵入者を迎え入れ、成す術もなく捕食されていった



    今まで侵略された事も無ければ凶悪な犯罪が起きた事もなかった、この里の本質が持つ弱点が顕になったのだ


    彼らは人の形をした災厄を見た事が無い


    高波、嵐、干ばつ、疫病

    そして様々な形を持つ獣たち


    彼らにとって禍いは、常に人外の姿で現れるものだったのだ



    戸口に現れたのが猪や熊であったなら、本能に近い経験則から、しっかり対処出来たはずだった


    しかし人型をしたこの禍いは、時に良く見知った者の姿を留めていて、我に返って抵抗する彼らの闘争心を鈍らせる


    人に向けて刃を向けた事の無い者の躊躇いがちな反撃など、傀儡の前では無力だった


    斬りつけられても怯むこと無く家族を喰らい続けるその姿は、平穏に慣れた里人の足を竦ませ、逃げる事すら不可能な状態へと追い詰めていく


    山側から徐々に侵食されていく里の異変に彼らが気付き、浜の方へと逃げ始めた時にはもう、里の三分の一程までが傀儡の餌食となっていた








    「コトイを呼んでくる。板戸を閉めて、時間を稼いでおいて」


    里の中程にあるタカメの家にも、既に凶事の報せは届いていた


    まだ傀儡の姿は見えていない


    浜へと走る里人たちは、想像する事すら今までに一度も無かった厄災を告げられ、どこか半信半疑な思いを抱えて避難しているように見えた


    おそらく実際に傀儡を目の当たりにした者たちは、もうとうに浜へと着いているのだろう



    「コマはどうするの?!
    あの子……社に行くって……!」


    足を痛めて歩くこともままならない夫に寄り添っているシズメが、息子の身を案じて問い掛ける


    しかしタカメは非情にも思える冷静な口調で


    「今から社に向かってももう遅いよ。ここより山に近いからね。
    後はあいつが怖気づいて立ち止まらない限り、なんとか逃げ切れるだろう」


    そう言い切り

    そして



    「とにかく今は自分たちの事だけ考えて」



    強く念を押し、良く研がれた斧を片手に外に飛び出していった





  79. 79 : : 2016/02/06(土) 22:15:01




    「!!」



    通りに出た瞬間、タカメの目に飛び込んできたのは、無惨に引き千切られた里人の姿だった



    「……もうこの辺りまで……?」



    傀儡は人の気配を感じ取りそこに向かう


    初めは一軒づつの家を襲ってまわっていたのだろうが、里人が避難を始めたことでそちらに手を出していくようになったのだ


    この先は更に侵食の速度が早まるだろう


    時間を稼ぐ為の『餌』が移動してしまっているのだから……



    タカメは気遣わし気に両親のいる方へと視線を向けた



    ーーー耐えてくれ



    通りから外れ、雑木林の中に入った彼女は、祈るような思いで走り出した



    コトイの住む苫屋まではそう遠くはない

    出来ることなら何事も無いまま辿り着きたかった


    しかし通りを外れてすぐ、その考えが甘かった事を知る




    ーーー傀儡……!




    タカメと同じように考え、見通しの良い通りを避けて雑木林に入った者が先にいたのだろう


    もしかしたら通りで襲われていた者の家族かもしれなかった


    そこに居た二体の傀儡のうち一体は蹲り『餌』を喰らっている


    そしてもう一体は少し離れた場所にある立木を見上げ、両手を伸ばして何かを探っていた


    耳を澄ませると、細く微かな泣き声が聞こえてくる


    逃げることを諦めた親が、我が子だけでもと木の枝の上に抱え上げたのだろうか……




    まだこちらに気付いていない傀儡たちをやり過ごすのは簡単だ

    しかしタカメは迷うことなく蹲る傀儡に近付き、その首筋目掛けて斧を振るった





    ーーーガッッ!!





    彼女の攻撃に迷いや躊躇いは無かった


    猪の額をも割るその一撃は、傀儡の頭を一瞬で切り離していた



    何も躊躇う理由は無い


    例え元は人であったとしても、御霊を無くし傀儡に成り果てた者への情けは、寧ろその命を絶ち切ってやることなのだから


    そしてタカメはそのことを誰よりも良く知っていた




  80. 80 : : 2016/02/06(土) 22:22:05



    もう一体、立木の傍に立つ傀儡は、彼女が山で世話になった知人に良く似ている


    彼もまたこのような姿で『餌』を漁る、化け物のままで居たくは無いはずだった


    しかし先程とは違い、立ったままの状態で首を撥ねる事は難しい


    薙ぎ払うだけでは力が逃げて、中途半端に斬りつけてしまうだけだろう



    先ずは足を狙うつもりで、立木から引き離そうと傀儡に近付き、声を上げた



    「こっちだ!来い!」



    声に反応した傀儡が振り返り、赤く染まった顔に開く、濁った双眸が声の主を見とめた


    タカメは全身に緊張を走らせ、距離を測りながら斧を握り直す




    ーーーしかし


    傀儡は襲っては来なかった




    再び立木の方へ向き直ると、枝の上に乗る『餌』を探り始めたのだ




    「…………そんな……」




    私は人として認識されていないのか……?



    タカメの心は、まるで冷水を浴びせかけられたように凍りついた


    そして次の瞬間、それを上回る激しい感情の滾りが彼女の身体を突き動かした



    「ああぁぁーーーーーーっ!!」



    一撃で仕留めようという冷静な判断は、既に吹き飛んでしまっていた


    傀儡の身体を立木にめり込ませる勢いで闇雲に斧を振るう


    腰を砕かれ、頭を潰されてもなお、浅ましく餌を求めて動き続ける傀儡の姿は、更に彼女を苛立たせ、理性を崩壊させた



    違う!!!


    私はこんな化け物なんかじゃない!!



    己の中の不安と怒り、その全てをぶつけるように


    何度も


    何度も


    狂気の中で斧を叩きつける



    飛び散る血飛沫に濡れていくタカメは、傀儡以上に危険な空気をその身に纏い

    触れるもの全てを破壊し尽くす、まさに禍神と化していた








    ーーーやがて

    返り血で濡れそぼった斧の柄が滑り、彼女の手から落ちた時


    傀儡はその原型をとどめぬほどに破壊された、ただの肉塊に成り果てていた







    荒い呼吸が収まっていくと共に、激情の波も静かに引いていく


    暫く放心していたタカメは、怯えを含んだ細い泣き声の主に向かって血に塗れた手を差し伸ばした





    「おいで……」





    この子には

    私が人に見えているのだろうか……





    彼女の心には深い漆黒に包まれた絶望と、堪え難い悲しみだけが残されていた





  81. 81 : : 2016/02/17(水) 16:23:28


    ーーーーーーーー

    ーーーーー





    ーーー長い夢を見ていた





    それが夢だとはっきり分かっていながら、醒める事が出来ないまま

    長い長い夢を見続けていた




    『やっと会えた……』




    今、目の前にはずっと焦がれていた人の姿がある



    しかし……



    まだ夢の中に居るのだろうか……


    「彼」は、いつもとは違う成り行きに、小さく首を傾げた



    あの日目覚めた時

    彼女が隣に居なくなっている事を知り、深い絶望に襲われた


    それからどれだけの時間をたった独りで過ごしてきたか……


    こんな風に再会する夢を数え切れないほど見てきた


    そして現実に出会えた事もまた、二度……いや、三度あり

    同じ数だけ別れの絶望も味わっていた



    『もしかしたら、これも夢なのか?』


    どうして「彼女」は俺に笑いかけて来ないのだろう……


    どうしていつものように語りかけて来ないのだろう……



    こんな不吉な夢は見たことが無い


    いつだって「彼女」は、記憶のままの美しい笑顔で俺に語りかけて来るじゃないか

    『また会えたね』と……




    ならばこれは……




    現実?




    「彼」の目に映っているのは確かに「彼女」だった


    『たとえ今の器が消えてしまっても、私は私のまま変わらない。
    だからきっと見つけてね』


    そう「彼女」は言い、その言葉の通り「彼」は「彼女」を見つけてきた


    一度だって間違えた事はない


    だからこれは確かに「彼女」なのだ



    「彼」は必死で記憶を辿った



    不測の出来事に混乱し、棒立ちになっている自分を見つめる険しい顔


    未だかつて「彼女」がこんなに冷たい視線を自分に向けた事があるだろうか?


    鮮明に蘇る記憶の中の「彼女」は、どんな時にも微笑みを絶やさなかった

    少なくとも「彼」に対しては……




    どうして……?


    何故……?





    数々の場面の記憶が頭の中に溢れ返り、「彼」はなんとか答えを見つけようと闇雲にそこを探る





    ーーーその時、孤独の恐怖に追い詰められた「彼」の脳裏に、一片の記憶のかけらが降りてきた




    そうだ……あれは、俺が再生実験に失敗し、片腕を無くして「彼女」の元に戻った時……


    初めて俺は「彼女」の怒りの表情を見た


    『どうしてこんな事を……
    貴方は特別なのだとあれほど言ったのに……』


    その顔は怒っている筈なのに、あまりにも哀しげで……

    恐ろしくなってしまった俺は必死で「彼女」に謝っていた


    『ごめん!ごめんよ!
    もう二度とこんな事させないから!

    だから……笑って……お願いだ……』


    しかし「彼女」は俺ではなく、俺をこんな風にした奴らに怒りを向けていたのだ


    「彼女」は欠けてしまった俺の身体を優しく撫で


    『貴方は特別なのよ……
    治癒能力の代わりに自我を持っている。
    そして仲間を作り出せる能力も、今は貴方だけが持っている。
    貴方は彼らと私達を繋ぐ唯一の鍵なのに……

    なんて酷い事を……痛かったでしょう?
    可哀想に……』


    そう言ってハラハラと綺麗な涙を流した


    本当は痛みなど感じてはいなかった


    だけど自分に触れる柔らかな手の感触が嬉しくて、俺は黙ったまま、ただ身を任せていた


  82. 82 : : 2016/02/17(水) 16:25:22





    ーーーそうか……


    「彼女」は、また俺が利用されている事に怒っているんだ


    大丈夫

    今回はどこも傷つけられていないから


    安心して


    ね?


    ほら、何も欠けてないだろ?





    「彼」は「彼女」に己の身体がよく見えるようにと、残っている右手を差し出し、ゆっくりと近付いていった



    そんなに怖い顔しないで……


    俺は大丈夫だから


    いつものように笑っ…………て……







    ーーーザッ!!!








    「逃げろ!!ソラメ!」





    「彼女」へと差し出された腕が、肩口から深く斬りつけられ、ダラリと下に垂れ下がった





    ……?!






    痛みは感じない

    その代わりに、熱い何かが「彼」の半身に降りかかり、目の前に居る「彼女」の真っ白な頬にも飛び散った



    頬に赤い花を咲かせゆっくりと立ち上がる「彼女」は、「彼」が持つどの記憶よりも美しく


    「彼」は己の身に何が起きたのかを確かめるのも忘れ、その姿から視線を逸らす事が出来なくなってしまっていた




    「何してるんだ!早く逃げろ!!」




    耳障りな声も全く気にならない

    背中に何度も受けている衝撃すら、「彼」にとってはどうでもいい事に思えた



    「彼女」の黒目がちな眼が、自分を見定めるかのようにスッと細められる



    「…………ぬしの名は……」




    初めて耳で聞く「彼女」の声は、頭の中に響くそれよりずっと頼り無げに感じた




    執憑(シヅキ) ……か……」





    違う



    俺はそんな名じゃない……





    「なるほど……
    異形の者になってなお、執らわれ、尽くし、求める。

    終わり無き御魂を持つその業は、さぞ難儀であっただろうな……」





    何を言っているんだ?


    君は俺の事をそんな風には言わなかっただろう?



    『貴方は私達にとっての希望。

    ずっと先の世界では、病で苦しむ人も、貧困で命を失う人も無くなっているはず。

    だから私は貴方を護る……この左手でしっかりと……』



    そう言ってくれたのをもう忘れてしまったのか……?





    「ソラメ!!行け!」





    煩い!!黙れ!!!





    纏わり付いて来る邪魔者を払い除けようとするが、「彼」の一本しかない腕は、既に用をなさなくなっていた


    絶え間無く流れる命の源を、止める術を「彼」は持っていない


    視野が狭まり、辺りに薄闇が降りて来るまで、そう時間は掛からなかった



    ーーーそして





    「…………楽になれ」





    その声が耳に届いたとき、「彼」にとって一番鮮明で、一番美しい記憶が蘇った





    『はじめまして。

    私が貴方に名前をつけてあげる。

    私の国では希望の実現を表した素敵な言葉なのよ』







    ーーーこれからよろしくね。



    ーーー(アキラ)










    「彼」は全ての始まりの記憶と共に


    長い夢から解放され


    醒めることのない永遠の眠りへと堕ちていった





  83. 83 : : 2016/02/28(日) 21:34:52




    「走れるか?」



    タツミの家から外に出たコマは、まだ荒い息を整えながら、少し後ろに立つソラメに訊ねた


    「問題ない」


    間を置かず返ってきた答えに頷き、白く華奢な彼女の手を取って走り出す


    マツリメの放った傀儡が、今屠った一体だけだとは思えない

    それは通りにまで散らばっている里人達の無惨な姿を見れば分かる事だった



    コマがタツミの家に着いた時、既に主の姿はなく、彼の妻もそこには居なかった


    代わりに残されていたのは、床に吸い込まれきれずに赤い水溜りを作っている夥しい量の血痕と、異形の化け物と対峙するソラメの姿だけ


    そこからはもう何も覚えていない


    自分がいつどこで鉈を手にしたかも分からぬまま、傀儡に向かって凶器を振り下ろしていた



    「タツミ達は喰われちまったのか……?」



    今になって身体中の震えが止まらない


    何かを話していないと、湧き上がって来る恐怖心に負けてしまいそうだった


    その声色からはっきりと怯えを感じ取っているはずのソラメは、コマとは正反対の落ち着き払った様子で


    「タツミという男はアレが来る前に出て行った。
    女の方は襲われていたが……」


    僅かに言い淀んだ後


    「深い傷を抱えたままどこかへ消えた」


    はっきりとそう言った




    「……何なんだよ……それ……」




    「あれが傀儡というものか……哀しい業を負った生き物だな」




    「ふざけんな……何が哀しいんだよ……!
    彼奴らに哀しみなんて感情があるわけねぇだろう!」



    吐き捨てるようにそう言ったコマの言葉に、ソラメは答えない


    それから二人は黙ったまま、其々の思いを抱えて道を急いだ




  84. 84 : : 2016/02/28(日) 21:38:11




    ちくしょう……

    どうすりゃいいんだ……



    今ここで傀儡に出くわしたとしても、手には刃こぼれした鈍らな鉈しかない


    役に立たないと分かってはいても、それを手放す勇気は彼には無かった


    傀儡の血に塗れ、滑りやすくなっている鉈の柄をしっかりと握り締める




    強くなりてぇ……




    それは彼にとって、幼い頃から何度も願ってきた思いだった


    年長とはいえ女である姉よりも

    一年近く歳下の幼馴染みよりも

    自分が弱い存在である事に彼は劣等感を持っていた


    それは身体能力や狩りの技術だけではなく、勇気であったり、恐れに対する耐性であったり

    そういうものが自分には欠けていると、ずっと恥じていた


    そしてそんな思いを抱えるコマに、マツリメはいつも言うのだ


    『強くなるという事は痛みに鈍くなるという事。
    だから強い人は痛みを怖れずに立ち向かえるのよ。
    でもね、それでは弱い者の痛みを感じられなくなってしまう。

    無理をして強くなる必要なんかないわ。
    あなたはあなたらしくいればいい。
    優しさもまた、一つの強さに変わるのだから』と




    しかし実際には、密かに想いを寄せていたマツリメを護り切る事が出来なかった自分がいる


    たとえ過去の記憶が創られたものであったとしても、その言葉は彼女が生み出した彼女自身の言葉に違いはないのだ


    強くなりたいと願う自分に、そのままでいいと言ってくれたマツリメは、人の痛みを感じることのない、強大な力から迫害を受けていた


    彼女は今までにどれだけの想いを抱えて生きてきたのか……


    そんな彼女の傷付いた心を救ってやる事も出来ず、目の前で命を絶たれてしまった無念は、コマの心にも暗く深い絶望を植え付けていた


    視界が霞み、涙が頬を伝う



    俺がもっと強かったら……



    ソラメを救って欲しいという、最期に託された願いすら、このままでは果たせるかどうか分からない


    溢れ出る涙を拭うことも忘れ、コマはただひたすら足を前に進めた




  85. 85 : : 2016/02/28(日) 21:39:10




    ーーーその時


    「待て」


    不意に手を引かれて、立ち止まる


    「どうした……?」


    「泣くのは後にしろ」


    ソラメの視線の先には、通りに面した家の戸口に群がる三体の傀儡の姿があった


    このまま進めば間違いなく気付かれていただろう




    「どうする?」



    ソラメの問いかけは、迷い、戸惑うコマの気持ちを真っ直ぐに射抜いた




    戸口はまだ破られてはいない


    中に誰かが居ることも間違いはないだろう



    収まりかけていた震えが、再び彼の身体を襲った



    こんな時……

    タカメならば迷わず傀儡に斬りかかる


    ツルギなら……

    傀儡達を引き付けて中に籠る里人を逃がすだろう




    俺は……





    俺はタカメでもツルギでもない



    今の俺に出来ることは……




    「どうするつもりだ?」




    ソラメがもう一度同じ問いを繰り返す


    彼女は優しく気の弱い少年が、迷いを乗り越え答えを見つけ出すのを、辛抱強く待っていた




    ーーーやがて





    「行くぞ、こっちだ」




    手の中にあるソラメの腕をきつく握り締めたコマは



    止めどなく湧き上がって来る迷いを断ち切るかのように傀儡達に背を向け


    通りを外れて雑木林の中へと走り出した







    ーーーもう涙は乾いている



    自分は今、手の中にあるものだけを護りきる為に里人を見捨てた


    それが彼の答えであり、自らが選んだ彼自身の在り方だった




  86. 86 : : 2016/03/13(日) 23:42:40



    その後、注意深く進む二人の前に傀儡が姿を現わすことはなく、ほどなく彼らはコトイとツルギが住む苫屋まで辿り着いた


    一体今現在里に何体の傀儡がいて、どれほどの里人が犠牲になっているのか

    生きている里人と出会うことのなかったコマには、全く分からない

    まずは今の状況が知りたい


    そして何より、ここまで一人で耐えてはきたが、そろそろ彼の気力も限界に近くなっていた


    コマは半ば救いを求める思いで、苫屋へと駆け込んだ



    夜明け前に別れたきりになっている、家族の安否も気懸りではあるが、父と母には自分よりも余程頼りになる姉がついている



    ……はずだった




    「姉ちゃん?!」




    コマは子供の頃から幾度も見てきた光景を目の前にして、思わず声を上げた


    囲炉裏の側にうっそりと座るコトイ

    その向かいにはツルギの姿があり、戸口に近い所に立つタカメが振り返る


    違っていたのは、タカメの姿が鮮血に塗れて真っ赤に染まっていることだけだった


    「傀儡に襲われたのか?!
    怪我は?!父ちゃんと母ちゃんはどうしたんだ?!」


    「コマ、落ち着け。タカメは怪我などしていない」


    コトイが嗜めるが、ずっと気を張り、緊張を強いられてきた彼の興奮は収まらなかった


    「だって、それっ!」


    既に乾いて固まりかけている血糊を指差して叫ぶ


    「コマ。静かにしな。子供が目を覚ますだろう」


    抑えた低い声でありながら、姉の一言は弟の動きを止めた


    見ればコトイの膝の上には、まだようやく歩き始めたぐらいの子が、小さな身体を丸めて眠っている


    「父さんたちはまだ家にいる。
    コトイを呼びにここに来る途中、傀儡に襲われていたその子の親を見かけたんだ」


    「じゃあその血は……」


    「傀儡の血だ。親は喰われちまってたから、助けてやる事は出来なかったけどね……」



    やはりタカメは強かった……


    おそらく傀儡に気付いた段階では、まだ充分逃げられただろうに


    コマの胸に仄暗い劣等感が蘇ってきた



    「それにしても……あんた、自分の姿がどうなってるか気づいてないのかい?」


    「えっ……?」


    そう言われて改めて自分の身体を確かめると、白い衣に赤黒い血痕が斑に飛び散っている


    「あ……」


    それに気付いた途端、傀儡を目の前にした時の恐怖や、鉈から伝わる肉の感触を思い出し、彼はそのまま膝をついて座り込んでしまった


    「その様子じゃ、あんたも怪我してるって訳じゃなさそうだね。

    逃げ切って来ただけでも上出来だけど、あの化け物に立ち向かったっていうなら、初めてあんたを褒めてやるよ」



    「姉ちゃん……」



    自分を見下ろす姉の目が、いつになく優しい



    ーーー違う……

    俺は傀儡から逃げた

    自分が助かるために、里人を見捨てた……



    「父さんたちは私とコトイに任せて、あんたはツルギたちと一緒に浜に行きな」



    「そんな……!俺も行くよ!」



    焦って立ち上がろうとするが、足に力が入らない


    そんなコマの頭に軽く手を置いたタカメは


    「あんたがいたら足手まといだ」


    言葉はきついが、慈しむような柔らかな口調でそう言うと、斧を持ち直し、戸口に手をかけた



    「コトイ、悪いね。手を貸してもらうよ」



    「ああ、早く行って安心させてやろう」


    寝ている子をそっと床に移し、立ち上がった父の背中に、ツルギが声を掛ける


    「親父、気を付けてな」


    しかしその声に応えたのは、タカメの方だった



    「大丈夫さ。寄ってくる化け物は全部私が倒す。

    一匹残らずね」



    苫屋から出て行く彼女の顔には、どこか狂気を孕んだ笑みが張り付き、残されたコマとツルギの心に小さな不安を芽生えさせていた




  87. 87 : : 2016/03/14(月) 00:04:24


    「立てるか?コマ」


    二人が出て行った後も、コマは暫く放心したまま動けないでいた


    ツルギに声を掛けられ、ようやく視線を上げる


    「悪い……もう少し休ませてくれ」


    「お前、社に行ったんだろ?」


    「……ああ」


    次に来る問い掛けはわかっている

    コマは低く呟いた



    「マツリメは死んだ」



    「……何故だ?」



    問われた彼は、苦しそうに顔を歪めながら、ぽつりぽつりと彼女の最期を話していく

    それはツルギにとっても衝撃的な内容だった



    「じゃあ……マツリメが傀儡を放ったっていうのか?
    俺たちを喰わせる為に……」



    コマは首を縦に振った



    「俺たちを傀儡の餌にして、何の意味があるんだよ?!」


    思わず激昂したツルギの声に、眠っていた子供が小さくむずがる


    「知らねぇよ……マツリメは命令された相手も理由も、何も言わずに逝っちまった」



    その時、聞いたことのない不思議な響きを持つ唄が二人の耳に届いた


    視線を向けると、そこには幼子を抱き上げ、ゆっくりと身体を揺らしながら唄うソラメの姿があり

    今まで彼女の存在を忘れていたツルギは、驚いてその姿を見つめた


    こんな緊迫した状況の中にあって、彼女の周りだけは穏やかで優しい刻が流れていた


    コマもまた、彼女に視線を奪われたまま続ける



    「最後にマツリメは言ったんだ。
    ソラメを救って欲しいって。

    彼女も自分と同じ境遇にいて……それでも諦めずにそこから逃げ出して来た娘だからって……」


    ソラメの腕に抱かれた子供は、再び眠りについたようだった


    規則正い寝息が聞こえ、口元には薄く笑みを浮かべている



    しばらく躊躇っていたツルギは、覚悟を決めて彼女に声を掛けた



    「ソラメ」



    何度視線を合わせても慣れることのない漆黒の瞳が、ツルギを正面から見据える



    「……昨夜俺がお前にしたこと……」



    どう詫びても赦されるものではないことは分かっている


    彼女の白い頸に付いた赤い指の痕は、 狂気の中に居た自分が犯した罪の重さを、まざまざとツルギに見せ付けていた



    「本当にすまなかった。
    例えどんな理由があったとしても、無抵抗なお前にあんな事しちまうなんて……」



    しかし、思い詰めた様子のツルギとは裏腹に、被害者であるソラメは、淡々とそれに応えた



    「気に病む事はない。
    昨夜ぬしを一目見た時から、何が起きるかは予見しておった」



    「……ならどうして逃げなかったんだ?」



    「試みたのだ」



    「何を?」



    ソラメは幼子を抱いたまま、痛々しく頸に残る指の痕にそっと手を当てて言った


    「記憶の覚醒をな」


    その言葉を言い終わらぬうちに、赤黒い凶行の痕は明らかに薄れ、そして何事も無かったかのように消え失せた



    「おい!お前!」



    目を丸くして後ずさるコマを見て、くつくつと笑うソラメ



    「傀儡と同じか?
    だが別段人を喰いたいとは思わんな」



    「一体どういう事なんだ?
    記憶が戻ったのか?」



    ツルギが問う


    彼女は静かに立ち上がり




    「娘の自我は消えたままだ。
    だが最早そのようなことはどうでも良い。

    一族の記憶は取り戻したのだからな」



    意味がわからず顔を見合わせるツルギとコマに、今迄に見た事の無い程艶やかな笑顔を向けた

  88. 88 : : 2016/04/30(土) 07:47:28



    「……思い出したんなら教えてくれ。
    お前はマツリメと同じ所から来たんだろ?

    一体なんだってこんな事に……」


    コマは持てる限りの勇気を掻き集め、重々しく、気韻に満ちた雰囲気を纏った少女に訊ねた


    「話すのは構わぬが、ぬしらは浜へ行くのではなかったのか?」


    その口調は、緊迫感に満ちたこの状況を愉しんでいるかのように軽い


    「いや、浜へは行かない。ここで親父たちが戻るのを待つ」


    「ほう……」


    ツルギの答えにコマも目を丸くした


    「おい、お前本気か?!」


    問われたツルギは、どちらとも取れる微妙な表情を浮かべて言った


    「親父は、浜に逃げたところで、船の数は限られていると言っていた。
    実際うちの前を通って避難している里人が、全て乗り切れないのは確実だろう。
    なら、このまま様子を見て、浜から戻ってくる彼らを待つつもりだったんだが……」


    「誰も戻って来てねえな……」


    「ああ、それに……静かすぎるのも気になる。
    少し前までは波の音が聞こえないくらい騒がしかったんだ。
    だけど今は通りを行く人の気配すらしなくなってる……
    浜に避難してない里人も、かなりの数いるはずだよな?」


    頷いたコマは、僅かに逡巡した後、消え入りそうな小さな声で幼馴染みに告げた


    「実はここに来る途中、傀儡どもが戸口に群がってる家を見かけたんだ……

    俺は……奴等に気づかれないように脇道に入った」


    「中に人が居たのか?」


    「居たんだろうな……」


    苦しげに歪むコマの表情を見て、ツルギには彼の心中が容易に想像出来た


    「コマ、仮に山犬の群れが里に降りてきたとしたら、お前ならどうする?」


    「……どうするって……そりゃぁ、奴らが入って来られないようにしっかり戸口を閉めて……」


    ツルギは頷き


    「誰も外に出て逃げようとは思わないだろうな。
    普段狩りをする事が無い、女子供なら尚更だ」


    コマの言葉を引き取って、結論を告げた



    「……何が言いたいんだ?」



    コマが尋ねる


    彼も既に気付き始めていた


    外敵に気付いたら、先ずは身を守る為に家屋へ逃げ込むものなのだ


    獣が巣に籠もるように


    そしてそこが破られれば、次は何処かへ身を隠す


    決して開けた見通しの良い場所、自らが追い込まれるような所へ向かったりはしない



    「だから実際には外に居たお前たちの方が、よっぽど危険だったんだ。
    もし傀儡に気付かれていたら、逃げ切れていたかどうか……
    何しろ奴等は、獣以上にタチが悪い」


    「ならどうしてみんなは浜に逃げた……?」




    「浜に何があるかは分からぬが、そこに向かわせたかった者が居るのだろう」


    それまで黙って二人の話しを聞いていたソラメが、核心に触れた答えを口にする



    「……お前の話しを先に聞いた方が良さそうだな、ソラメ」


    「そうだ、教えてくれ!
    奴等の目的がなんなのか、お前には分かってるんだろ?」


    二人の問いかけに、ソラメは抱いていた子を獣皮の上に寝かせ、ゆったりとした所作で彼らに向き直った



    「支配者の目的など、古の世から何も変わらぬ。
    武器を携え、力を示し、外敵からの守護と安寧を約束する事で、民を従える」


    「外敵……」



    「左様。しかし一旦壊れた世界には、そう呼べるだけの脅威が存在しなかった」





  89. 89 : : 2016/05/10(火) 19:25:29


    「ーーー形あるものはいつかは滅びる。

    それがどれだけ緻密に計算し尽くされ、精巧に組み立てられたものであっても

    どれだけ栄華を誇り、長きにわたって現世を支配した権力であっても……。


    必ず終焉は訪れる。


    それが現世(うつしよ)(ことわり)


    時の呪縛から逃れる事の叶わぬ、此の世の運命(さだめ)



    そしてその理の通り、一度世界は崩壊した。



    大陸の半分は海底に沈み、残った大地は毒を含んだ降り止むことの無い雨に晒され、多くの命が死に絶えた。



    新世界に遺されたのは、ほんの一握りの選ばれし民と

    彼らを護り、彼らに代わって復興の役務を果たす道具として、大量に創り出されていた、傀儡という名の『人に在らざる者』のみ……」



    滔々と語り始めたソラメの、低く静かな声音に、いつしかツルギとコマは、己が置かれている状況を忘れ、彼女が紡ぐ言霊に支配されていく


    微かに届く潮騒の音は、風に乗って遠く、近く、彼らの意識を遥かな過去の世へと導いていった



    「永き眠りから覚めた彼らが再び地上に現れた時、かつて星にまで手が届いていた人の叡智の結晶は、全て失われていた」



    どのような獣よりも弱く、生きる為の能力をとうの昔に手放してしまっていた彼らは、傀儡の力を借りて、慎重に、しかし速やかに命を繋いで行く


    滅びをもたらさぬ平和に満ちた文明を築く為に、彼らは一つの黙契を掲げていた


    ーーー決して同族同士で争いを起こしてはならない


    この黙契は、侵略と戦さの完全なる封印を約束するものであった

    彼らは経験し、そして知っていた

    始まりは小さな諍いであっても、いつしか全てを滅ぼす大過を招く事を……


    既に血にまみれた歴史は消え去った


    二度と同じ過ちは繰り返すまい


    我々は光に満ちた新世界の創始者として、新たな歴史を創り上げて行くのだ……と



    「……おかしな話だな。
    ならどうしてマツリメはあんな事をしなけりゃならなかったんだ?

    どうして俺たちは今、傀儡に襲われてるんだ?」



    思わず漏れたツルギの呟きに、記憶の語り部であるソラメは小さく頷き、それに答えた



    「新世界に於いて人と呼ばれる者は、二つの種に分かれておる。

    一つは原種。

    大戦の前、まだ文明が栄えていた頃に眠りにつき、毒の影響を受けずに生きる者。


    そしてもう一つは、亜種。

    全てを失い、現世の終わりを迎えて尚、瘴気に満ちた大地で命を繋ぎ続けた者。

    荒廃した世界で生きなければならなかった亜種は、人という種が進化する過程で使われなくなっていった太古の能力(ちから)を再び呼び醒まし、それを高めることで生きる術を得た」



    「俺たちは………」



    「ぬしらは後者だ。
    原種どもはぬしら亜種を人だとは思っておらぬ。

    奴等は自らの種を護る為、毒に穢された血を持つ亜種とは決して交わらぬし、同じ場所で生きることも許さない。


    しかし前時代から引き継いだ知恵の全てと傀儡の力を持ってしても、自分達より遥かに文明の遅れた亜種の方が、生物として生きる能力は高かった。

    このままではいずれ、其々の勢力が拮抗し、また争いが起こるだろう。


    そこで奴等は新たな過ちを犯す。


    二つの種にとって共通の外敵が在れば、虐げられている亜種の意識を其方に向けさせる事が出来る……と。

    そして傀儡に一つの新しい習性を付与した。


    ーーーその日より傀儡は人を襲い、その肉を喰らう業を負ったのだ」




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著者情報
Tukiko_moon

月子

@Tukiko_moon

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