グダニスク【18】
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- 1 : 2024/02/24(土) 07:15:46 :
- グダニスク(ポーランド語: Gdańsk IPA: [ɡdaɲsk] ( 音声ファイル))は、ポーランドの都市。バルト海南部に面するポモージェ(ポメラニア)地方東部に位置し、グダニスク湾を擁するポーランド最大の港湾都市であり、ポモージェ県の県都である。
ポーランド語の発音はカナへの転写が難しく、グダンスクと表記されることもある。ポーランド政府観光局はグダンスク[2]、当地の市役所はグダニスク[4]と表記しており、現地の公的機関においても日本語表記が分かれている。カシューブ語ではGduńsk [ɡduɲsk](グドゥニスク[5])。また、ドイツ語名のダンツィヒ(Danzig [ˈdantsɪç] ( 音声ファイル)、ダンチヒとも)でもよく知られている
「グダニスク」という地名は、ここを流れるモトワヴァ川(英語版)の古名であるグダニャ川から来ている。これはインド・ヨーロッパ祖語で「滔々と流れる水(すなわち河)」が原義となる語幹 deh'nuから成り立つ。
中世
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都市としての起源
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考古学者によると、グダニスクの砦は980年ごろポーランドのミェシュコ1世が原住民との戦いを終えてから建設したものである。997年にプラハのアダルベルトが、ボレスワフ1世に代わって市民に洗礼を施したことを記念して、1997年に1000周年記念祭が執り行われた。
グダニスクはまもなく、ポメレリアとして知られる分裂した公国の中心地となった。ポメレリアとは「海のそばの土地」という意味である。このうち最も有名なシフィエントペウク2世は1235年ごろ、グダニスクに自治権を与えた。当時のグダニスクの人口は2000人ほどであった。この11年前の1224年、グダニスクはすでにリューベックのものと似た都市法を確立していた。リューベックは1226年に都市基本法を制定した。ポメレリアの統治者は徐々に権力を強め半ば独立した侯となり、ポメレリア公国を1294年までそれぞれ分割して統治した。
ドイツ騎士団との確執
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1308年11月13日、グダニスクではヴワディスワフ1世 (ポーランド王)によってドイツ騎士団が招聘され、ブランデンブルク辺境伯とドイツ騎士団により管理された[7]。植民地化にされた。1320年/ 1330年頃に、騎士と都市貴族による組織が生まれ、商人層の株式市場や集会場としても使用される社交場が建設されたが、その建物は極めて洗練されたものだった。組織も建物もアーサー王に因んで「アーサー王宮廷」(ドイツ語で <Artushof>)と呼ばれていた(Cord Meckseper)[8]。
1343年にカリシュの和約(英語版)が結ばれ、騎士団がポーランド王国に賃料を支払うことでポーランド王からポメラニア地方がドイツ騎士団に貸与されることとなった。この地方の帰属問題はまだ残っていた。
グダニスクはドイツ騎士団の支配下で街とし近代化され経済成長し、国王による都市化促進政策の一環として、ユダヤ人もドイツ商人と一緒に招聘された。ドイツからの移民が増加し、 1361年にハンザ同盟の正式な貿易加盟都市となり、穀物(特に小麦)、木材、炭酸カリウム、タールその他ポーランドの森から産出されヴィスワ川の運送網を経由してやってくるさまざまな品物の輸出が促進される事になった。グダニスク市民は、ドイツ都市法のマクデブルク法による税や裁判制度などを理由にドイツ騎士団の支配を嫌っており、グダニスクを含むポメラニア地方やリトアニア大公国などに関する一連のトラブルが発端で1409年に勃発したポーランドとドイツ騎士団との戦争では、グダニスク市民はポーランド側に就いた。この戦争は1410年のグルンヴァルトの戦いにおけるポーランド王国の勝利によって終結した。グダニスクは以前からドイツ騎士団の支配を廃してポーランド王国へ帰属することを望んでおり、その望みがかなうことになった。しかし翌年に締結した第一次トルンの和約では、行政上の技術的理由によりポーランド王国は再びドイツ騎士団にグダニスクを賃貸しすることに決め、グダニスクは騎士団の支配下に戻った。
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