このSSは性描写やグロテスクな表現を含みます。
この作品は執筆を終了しています。
怪物 ~進撃の巨人パロ~
- 進撃の巨人
- 2902
- 80
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- 1 : 2016/05/23(月) 02:51:35 :
- 皆さんどうもこんにちは、進撃のMGSです。
体調不良でしばらく執筆からも雑談からも遠ざかっておりましたが、執筆から再開してまいります。
さて、今回の作品は進撃の巨人で音楽モノ、第二弾になります。
今回の作品は、より政治色の強い作品になり、より私の趣味が反映されたものになる予定です。
お付き合いいただければ幸いであります。
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- 2 : 2016/05/23(月) 02:55:09 :
この世は全て冗談だ。
―――ジュゼッペ・ヴェルディ最後のオペラ“ファルスタッフ”より
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- 3 : 2016/05/23(月) 02:56:18 :
「それで、この私に後任を引き受けて欲しいというのだね?」
1935年
オーストリア、帝都ウィーン
国力の衰退とは裏腹に、芸術、学問といった文化の爛熟した、豪華絢爛たる音楽の都、ウィーン。
退廃的であり世紀末的、魑魅魍魎跋扈する魔性の都。
その中にあって、エルヴィン・スミスは権力から権力へ、自由自在に泳ぎ回る術を心得ていた。
「勿論です、エルヴィンさん。あなたは何といっても、我らが総統閣下のお気に入りなのですから。」
「総統閣下も随分と私を過大評価されているようだね。」
高官を前に、エルヴィンは苦笑して見せる。
もちろんこれは計算ずくだ。
少しでも良い条件で仕事を引き受けられるように。
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- 4 : 2016/05/23(月) 02:59:32 :
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「あなたほどの方が、ここでくすぶっているのは何とももったいない話です。」
「ふむ。私は今の境遇も悪くはないと思っているのだがね。」
「とてもそうには見えませんよ、エルヴィンさん。あなたのその目は、野心に溢れている目だ。」
高官に内心を覗かれ、少し気に入らなかったが、勿論そんな様子はおくびにも出さない。
エルヴィンは笑みを浮かべたまま、高官に詰め寄った。
「ベルリンでの私の待遇は、さぞかし魅力的なものとなるのだろうね?」
「勿論ですよ。あなたは何といっても、総統閣下が最も気に入られている指揮者の一人ですから。」
「いいだろう。ベルリン国立歌劇場の音楽監督の職、引き受けさせていただこう。」
こうやってエルヴィンは常に、権力の中を泳ぎ回って生きてきた。
権謀術中に長けた男。
バレリーナの私生児であり、父はオーストリア皇帝との噂が付きまとうほどの優雅な男。
ウィーンの光も闇も飲み込んだような、謎めいた雰囲気を持つ男――――――エルヴィン・スミスは、ナチスを相手にしてさえその権力を飲み込まんとしていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
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- 5 : 2016/05/23(月) 03:02:16 :
事の発端は、1935年。
既にナチスが政権を掌握してから二年が経ち、ユダヤ人たちへの差別が激しさを増していく中で、その事件は起こった。
「どういうことだ? 上演中止だと!?」
「そうだ。」
「ふざけるのも大概にすることだ! お前たちナチスがかくまで芸術を迫害する気なら、私は一切の職を辞任する!!」
そう語気を荒げたのは、ベルリン・フィル及びベルリン国立歌劇場の監督であったドット・ピクシス。
ピクシスはヒンデミット作曲の“画家マティス”を上演にかけようとしていた。
ところが、そこにナチスが待ったをかけたのである。
実のところ、ヒンデミットの音楽はナチスによって“退廃音楽”であると見なされ、特にヒトラーは彼を快く思っていなかった。
故に、ナチスはヒンデミットの新作の上演を妨害したのである。
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- 6 : 2016/05/23(月) 03:03:10 :
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怒り心頭のピクシスは翌日、新聞に“ヒンデミット事件”と題した記事を掲載した。
曰く――――・・・・・・
「ヒンデミットを排斥しようという動きは、根拠のない言いがかりである。
ヒンデミットは現代ドイツの音楽において必要不可欠な人物であり、これを切り捨てることはいかなる理由があろうと許されない。」
この記事を目にしたナチスの高官たちは激怒した。
特に激怒したのは、邪悪の天才―――――宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスだった。
※ヒトラーと一緒に映る宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルス(右)
http://ona.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1d6/ona/Hitler_Goebbels.jpg?c=a1
「よろしい。では、彼の望むままにしてやろうじゃないか。」
ヒトラーの右腕。
ナチスの中でもヒトラーに次ぐ権力と野心を持った危険な男は、目の上のたん瘤であったヒンデミットを擁護したピクシスを敵とみなした。
こうして、ピクシスとナチスの間において、仁義なき権力闘争が勃発した。
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- 7 : 2016/05/23(月) 03:09:13 :
ゲッベルスは手始めに、ピクシスに対して苛烈な処遇を与えることにした。
ピクシスを自分の牙城である宣伝省の大臣室に呼び出し、やってきたピクシスに対して、ゲッベルスは大臣の椅子に座ったまま挨拶をした。
「ご機嫌はいかがかな、ドット・ピクシス?」
「まあまあですよ。さて、今日はどのような御用があってこの大臣室に私を呼ばれたのです?」
「なに、あなたが職を辞す覚悟だと聞き及びましてね。こちらもあなたの覚悟を汲むことにしたのですよ。」
呼び出されたピクシスに対し、ゲッベルスは慇懃無礼な態度で応じた。
きな臭さを感じていたピクシスは、やはりといった感じで、少し肩を落として問いかける。
「つまり、どういうことです?」
「なに、簡単なことですよ。」
ゲッベルスはますます慇懃無礼に、しかし、底意地の悪い笑みを浮かべると、すっと立ち上がってピクシスに耳打ちをした。
「あなたが就いている帝国枢密顧問官、及びベルリン・フィル、ベルリン国立歌劇場の監督の地位を降りていただくという事だ。」
「!? 貴様!?」
「これは命令だ。勘違いしていただいては困る。」
こうしてピクシスは、ゲッベルスによってすべての職から降ろされる羽目になった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
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- 8 : 2016/05/23(月) 03:10:28 :
時刻は深夜、客室の暖炉には薪がくべられて炎がパチパチと燃えている。
「相手が悪かったとしか言いようがないよ、ドット。」
「気にしないでくれ、グリシャ。私は、私の良心に従っただけだ。」
「しかし・・・・・・。」
ピクシスを気遣ったグリシャは、自宅の客室にピクシスを招いた。
グリシャ・イェーガーは、ベルリン国立歌劇場において、第一楽長の地位にあり、実質ナンバー2であった。
ワインを片手に、ピクシスは憂鬱な表情を取りながら、話を続けた。
「これでいいのだよ。辞任の件については私から言いだしたことだ。」
「ピクシス・・・・・・。」
「だがね、事はこれだけでは終わらないぞ?」
失意のどん底にあるだろうと思っていたグリシャは、友人の表情を見て驚いた。
ピクシスの顔には、ある種の狡猾さを含んだ野心が表れていた。
成程、ピクシスはそういうやつだった。
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- 9 : 2016/05/23(月) 03:11:48 :
「これだけで終わらせるつもりはないという事か。」
「勿論だとも。次に私が君にどうしてほしいか。分かってくれるね?」
「全く君というやつは、煮ても焼いても食えぬ男だ。」
観念した様にグリシャはため息をつくと、手に持っていたワイングラスを傾けた。
とそこへ、まだ幼い子供が一人、客室へと入ってきた。
「ねえパパ? まだ眠らないの?」
その男の子は、眠たそうな目をこすりながら、父親が寝室に来るのを今か今かと待っていたようだった。
父親であるグリシャは、優しい微笑みを浮かべながら立ち上がると、子供の側へとしゃがみこんだ。
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- 10 : 2016/05/23(月) 03:12:41 :
「お父さんはね、いま大切な客人を迎えているんだ。分かるね、エレン?」
「・・・・・・・・・・・・うん。」
頷きながらも、不安と不満、哀しみをその瞳に宿すエレン。
ややあってグリシャは立ち上がり、妻であるカルラを客室へと呼んだ。
「カルラ。エレンと一緒に寝室に行ってくれないか?」
「未だ客人がいらっしゃるわ。」
「構わないよ。エレンが寂しそうにしているからね。ピクシスも分かってくれるだろう。」
グリシャには予感があった。
これから確実に困難な時代がやってくる。
だからこそ、家族と過ごす時間は大切にしたいし、少しでも温もりを感じさせてあげたい。
ピクシスがベルリン国立歌劇場の監督を辞任して間もなく、グリシャ・イェーガーも第一楽長を辞任。
グリシャは間もなく南米、アルゼンチンへと亡命した。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
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- 11 : 2016/05/24(火) 14:52:31 :
こうした経緯があり、ピクシスは監督を降ろされ、グリシャは第一楽長を辞任したのであるが、そこにエルヴィンは付け入った。
幸いなことに、エルヴィンはヒトラーからの覚えめでたく、このことはドイツ第三帝国におけるキャリアを築き上げるのに、何の妨げにもならなかったのだ。
「ゲッベルス大臣からも、ぜひ君を好待遇で迎えたいとのご意向だ。」
「それは何とも光栄な話ですな。」
「具体的な話はまた今度の機会にいたしましょう。さて、私はゲッベルス大臣や総統閣下に良い知らせをもたらすことが出来そうだ。」
ナチスの高官は笑みを浮かべ、エルヴィンと固い握手を交わした。
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- 12 : 2016/05/24(火) 14:53:20 :
「それにしても、随分と上手くいったものだ。」
ナチスの高官が去った後、エルヴィンは一人つぶやきながら、ワイングラスを傾けた。
(ベルリン国立歌劇場の監督の地位を手に入れたという事は、実質私は大臣クラスの権力を手に入れられた、という事だ。)
ワインを片手に、笑みを浮かべるエルヴィン。
これ程愉快なことがあろうか?
ドイツ国内における芸術面での最高の地位のひとつを、手に入れられた。
高度な芸術のために、犠牲はつきものなのだ。
「ここに、エルヴィン・スミスの芸術を打ち立てることにしよう。」
翌日、エルヴィンはウィーンから、ベルリン国立歌劇場へと発った。
その先に、激しい不協和音が待っているとも知らずに。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
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- 13 : 2016/05/25(水) 13:34:49 :
聖なる地への巡礼者よろしく、エルヴィンはいよいよベルリン国立歌劇場へと乗り込んだ。
初仕事として選んだオペラは、リヒャルト・シュトラウス作曲のオペラ、“ナクソス島のアリアドネ”であった。
劇中のプロローグにおいて作曲家が、悲劇と喜劇を同時に上演せよと無理難題を突き付けられ、プリマ・ドンナがアリアドネの悲劇を演じ、踊り子がツェルビネッタの喜劇を演じるという何とも滑稽なあらすじになっているオペラだ。
エルヴィン・スミスは、オペラの指揮者として卓越した技量を持っていた。
練習のホールに入ると、そこには既にオーケストラと歌手たちが待っていた。
その中でも一際優れた二人の女性歌手が、エルヴィンに近づいてきた。
「お久しぶりですね、エルヴィンさん。」
「またあなたの棒で歌えて光栄ですわ、マエストロ。」
「よろしく頼むぞ、ミーナ、ハンジ。」
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- 14 : 2016/05/25(水) 13:35:14 :
踊り子、ツェルビネッタを演じるのは、ミーナ・カロライナ――――――――コロラトゥーラ・ソプラノである。
高い声を転がすように歌う技術に長けたミーナは、輝く様な高音を持ち、しかも、決して感情過多に陥らなかった。
まるで小鳥がさえずるような歌声を持ったこの歌姫は、モーツァルトの魔笛における夜の女王のアリアのような、至難の難曲を我が物としていた。
このアリアドネにおける踊り子の歌も、コロラトゥーラ・ソプラノにとって、実は夜の女王のアリアと引けを取らないほどの難曲。
ミーナはそれを、いとも軽々と歌って見せた。
「素晴らしい歌声だ、ミーナ。君の歌声は、まさにナイチンゲールと称えられるのにふさわしいな。」
「マエストロの棒の元だと、とても歌いやすいわ。」
「いつもありがとう。本番でもよろしく頼む。」
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- 15 : 2016/05/25(水) 13:35:48 :
プリマ・ドンナ、アリアドネを演ずるもう一人のソプラノ、ハンジ・ゾエはリリック・ソプラノだ。
美しくて柔らか、そして幾分暗く湿った声を持つハンジは、正に大人の恋人を演ずるのにふさわしい。
ベルリン国立歌劇場におけるプリマ・ドンナ・・・・・・・・・・・・それがハンジだった。
「いいか、ハンジ。アリアドネは何といっても悲劇の役なのだ。とは言っても大げさに、いかにも私は悲しんでいるという風に歌うんだ。」
「随分と難しい注文だね、エルヴィン?」
「なに、君にそれが出来ないとも思われないが、どうかね?」
「君という指揮者はやりにくいよ、全く・・・・・・。雲の上に乗せられて、本当に歌える気になってしまうんだから。」
ハンジは苦笑し、それから真剣な表情になって、黒いビロードのような声を響かせ始めた。
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- 16 : 2016/05/25(水) 13:38:14 :
エルヴィンは呼吸を歌手と合わせ、彼女たちの歌に寄り添った。
やがて練習が終わると、ミーナがエルヴィンに近寄った。
「あなたは不思議な人です、マエストロ。」
「一体何が不思議なのかな?」
「歌いやすいテンポですのに、音楽が破綻しないんですもの。素晴らしいわ。」
エルヴィンのテンポは、速かった。
オーケストラを自由自在に操るさまを心得たエルヴィンは、凡百の指揮者のような、制御できずにテンポが先走るのではなく、意図してテンポを速めることが出来た。
ミーナの小鳥のように可憐な歌や、ハンジのビロードのように深い陰影を湛えた歌を、洒脱なテンポの上に乗せて、エルヴィンは優雅で引き締まった舞踏の如く、生気に満ちた音楽を躍動させた。
エルヴィンのベルリン国立歌劇場デビュー公演“ナクソス島のアリアドネ”
当代でも優れた歌手と指揮者が手を組んだこの公演は、約束された成功を収めることが出来た。
特に、作曲者リヒャルト・シュトラウスはこの公演を見て感激し、カーテンコールの最中、客席から舞台に上がってきた。
「ありがとう、マエストロ。君の演奏は素晴らしかった。」
「先生の元で演奏出来て、私こそ光栄です。」
エルヴィンはシュトラウスに頭を下げると、シュトラウスはエルヴィンの手を取って、客席に向かって紹介するように頭を下げた。
雨あられのようにキラキラとした拍手が惜しみなく歌劇場に降り注ぎ、一夜にしてエルヴィンはベルリン国立歌劇場の寵児となった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
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- 17 : 2016/05/25(水) 17:26:11 :
- 期待です!
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- 18 : 2016/05/26(木) 18:09:04 :
- >>17
ありがとうございます(∩´∀`)∩
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- 19 : 2016/05/26(木) 18:09:13 :
「何? ピクシスが、ベルリン・フィルの監督に復帰するだと?」
「はい。」
「そんな馬鹿な・・・・・・・・・・・・。奴は、ゲッベルスと対立して辞任したはずだ!?」
ピクシスがベルリンにおける職を全て解かれてから僅か一ヶ月あまり・・・・・・。
楽壇を再び激震が襲った。
付き人からの報告が信じられず、エルヴィンは思わず声を荒げた。
「それが・・・・・・・・・・・・ピクシスはゲッベルスと手打ちをし、ベルリン国立歌劇場の監督こそ復帰しないものの、ベルリン・フィルの監督には復帰しました。」
「何故だ。」
「ゲッベルスは、ピクシスの楽団における影響力を無視するわけにはいかず・・・・・・復帰を許したとのことです。」
「そうか・・・・・・・・・・・・そういう事か。あのタヌキめ・・・・・・。」
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- 20 : 2016/05/26(木) 18:10:26 :
ベルリン・フィル三代目音楽監督、ドット・ピクシス。
ドイツの正統指揮者としての系譜を継ぐものであり、その創り出す音楽はまさに、ドイツの本懐というにふさわしい指揮者であった。
ゲッベルスはベルリン・フィルから彼を解任したものの、彼以上の適任を見つけ出すことが出来なかった。
ゲッベルスとの暗闘を、ピクシスは制した。
築き上げた名声の高さ故、ナチスとて彼をおいそれと雑には扱えなかったのだ。
ゲッベルスはやむなく、再びピクシスをベルリン・フィルの監督につけた。
ゲッベルスはピクシスを利用し、その芸術を利用しようとした。
対してピクシスは、自らの芸術がナチスの邪悪にも抗しうるものとして、自ら積極的に指揮棒を振った。
こうしてピクシスは幾度となくゲッベルスを初めとするナチスの面々の前で演奏を行い、その都度ナチスに抵抗したのである。
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- 21 : 2016/05/26(木) 18:21:13 :
- 期待してます!
-
- 22 : 2016/05/27(金) 01:32:09 :
- ありがとうございます(∩´∀`)∩
-
- 23 : 2016/05/27(金) 01:32:51 :
-
ピクシスはベルリン楽壇に再び舞い戻った。
それは即ち、ベルリン国立歌劇場の監督であるエルヴィンとの対決を意味していた。
エルヴィンとピクシスの暗闘が、ベルリンの中で行われた。
ピクシスはエルヴィンを臆面もなく攻撃した。
リヒャルト・シュトラウスあての手紙で、ピクシスはエルヴィンをこう罵っている。
「ウィーンでさえエルヴィンの指揮する公演は『大したことのない水準で』、耳の肥えたベルリンのオペラ聴衆に受けるはずがない。
エルヴィンはロンドンやパリでの客演でも成功せず、クールな優雅さと、専門家には興味がないとは言えないテクニック以外には彼は何も持っていないし、
何も与えることができないのです。彼には迫力と暖かさがまったく欠けているのです。
その上、エルヴィンは偉大なるドイツ音楽に対する心的関係をまったく持っていないのは最悪だし、
だから彼にはベートーヴェンやワーグナーや古典派が指揮できない。
その独自の流儀からしてエルヴィンをドイツ本来の音楽家と呼ぶことはまったくできません。」
ピクシスの攻撃は激しく、エルヴィンは急速にベルリン国立歌劇場での活躍の場を失っていった。
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- 24 : 2016/05/27(金) 01:33:43 :
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そんな折も折だった。
一枚の記事が、さらなる波紋を呼び起こす。
『アーヘンに奇跡のアルミン』
「な、何じゃこの記事は!?」
過敏に反応を示したのは、ベルリン・フィルの監督であったピクシスであった。
アーヘンの歌劇場において、新しい新星が生まれたというものであった。
トリスタンとイゾルデを指揮して、アルミン・アルレルトという指揮者が大成功を収め、それがナチスの空軍司令官、ヘルマン・ゲーリングの耳にとまったのである。
※ヒトラーと居並ぶゲーリング(右)
http://lgmi.jp/userfiles/images/image01130830.jpg
やがてアルミンはゲーリングの勧めで、ベルリン国立歌劇場へと招かれた。
ゲッベルスが後援するエルヴィンやピクシスにとって、ゲーリングの後援するアルミンが乗り込んでくることは面白からぬ事態であった。
ここベルリンにおいて、三人の音楽家は、熾烈な争いを繰り広げること相成った。
歌劇場の内と外に、エルヴィンは敵を抱えることとなってしまったのだ。
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- 25 : 2016/05/27(金) 07:30:16 :
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「始めまして、エルヴィンさん。アルミン・アルレルトです。」
「エルヴィン・スミスだ、よろしく頼む。」
乗り込んできたアルミンは、慇懃な挨拶をエルヴィンと交わした。
アルミンはどこまでもスマートな男で、敵対心や利己心といったものを欠片も見せることはなかった。
が、その激しい野心は人並み外れていた。
そしてなにより、アルミンはナチスの党員でもあった。
ドット・ピクシスはナチスではなく、いわばドイツでしか生きることを知らない、ドイツのための指揮者であった。
ウィーンの光と影を飲み込んだエルヴィンもまた、日和見主義ではあったが、ナチスの党員ではなかった。
アルミンはより政治的に節操がなく、這いあがっていくためならと何でも利用した。
その飽くなき権力欲は、同じ権力欲にまみれたエルヴィンと決して相容れることなどなかった。
アルミンはエルヴィンの就いているベルリン国立歌劇場の監督の地位を望み、激しい権力闘争が繰り広げられた。
そしてそれは、政治的に見れば、ゲッベルスとゲーリングの代理戦争でもあった。
が、アルミンがゲーリングの支持を全面に受けることが出来たのに対し、
エルヴィンはナチスでなかったためと、ピクシスの妨害によって十分な支持をゲッベルスから受けることが出来なかった。
勝負は、初めから見えていた。
間もなくエルヴィンは失脚し、ベルリン国立歌劇場の監督の地位を追われた。
1936年のことであった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
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- 26 : 2016/05/27(金) 13:28:35 :
1936年
ベルリン、首相官邸
「お気をお鎮めください、総統閣下。」
「黙れゲッベルス! わしはあの軍楽隊長を許さん!! しかもわしをからかったのだ! 目にものを見せてやる!!」
「既に手は打ってあります。万事このゲッベルスにお任せを!」
失脚したエルヴィンではあったものの、チャンスはすぐに転がってきた。
というのも、バイエルンにおいて、ナチスをからかうような発言をした指揮者が現れたのである。
その男、名前をミケ・ザカリアス・・・・・・・・・・・・バイエルン国立歌劇場の監督であった。
「俺の前でそんな下品な挨拶をするな!!」
口の悪い紳士として知られたこの巨人指揮者は、ドイツ国内にあって、幾度となくナチスに反抗した。
以前よりミケは、ナチス式の挨拶すら拒否し、しかも、毅然としてドイツ国内にとどまり続けたのである。
「ゲッベルス・・・・・・具体的にはどんな手を打ったのだ!?」
「ミケは・・・・・・あの軍楽隊の隊長めは今後、バイエルンにおける演奏を禁止致しました。」
「ほう、それで?」
「後任には、我が総統のお気に入りの指揮者でありますエルヴィンを指名いたします。」
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- 27 : 2016/05/27(金) 13:29:37 :
- 期待です。
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- 28 : 2016/05/27(金) 13:29:41 :
-
ゲッベルスの必死の説得もあってか、先ほどまで烈火のごとく激怒していたヒトラーが、漸く落ち着きを取り戻した。
エルヴィンの演奏を記録したレコードをかけ、ゲッベルスに厳命した。
「いいか、二度とミケをバイエルンで演奏させるな!
バイエルンは、あのワーグナーがトリスタンとイゾルデやマイスタージンガーを初演したところだ。
そう、ミュンヘンは我が党 にとって格別の聖地。
あの聖地をウドの大木に汚させるわけにはいかん! エルヴィンの如き南国の優雅な棕櫚の木に守らせるべきなのだ。」
ワーグナーの音楽には、毒がある。
ワーグナーの音楽に魅せられて身を滅ぼしたものは数知れず、ワーグナーに金を貢ぎあげた挙句に国を滅ぼした国王もいたほどであった。
そして、ヒトラーもまた、その巨大な音楽に魅せられて、巨大な妄想を抱くに至った。
ヒトラーのワーグナーへの傾倒ぶりは、演奏に4時間以上かかるニュルンベルクのマイスタージンガーを全部暗記しているほどであり、まさに常軌を逸していた。
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- 29 : 2016/05/27(金) 13:30:34 :
ミュンヘンには現在でも、総統官邸、ナチス本部、美術館など、目も見張るばかりの壮麗さを誇る建築物が残る。
これ全て、ヒトラーがワーグナーの世界を再現し、世界の首都たらんとミュンヘンに造営した建築物であった。
ニーベルングの指環に登場する神々の城 と見紛うばかりに、ヒトラー全盛の威容をそこに留めていた。
当時のバイエルン、ミュンヘンはまさにナチスの牙城であり、またそこに君臨するヒトラーはワーグナーの楽劇に登場する主神ヴォータン であった。
その中枢ともいえるのがバイエルン国立歌劇場であり、ベルリンで失脚したエルヴィンは、図らずもヒトラーの庇護を受けた。
こうしてエルヴィンは、1937年1月1日より、ナチスの狂気渦巻くバイエルン国立歌劇場の監督に就任した。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
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- 30 : 2016/05/27(金) 13:31:09 :
- >>27
期待ありがとうございます(∩´∀`)∩
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- 31 : 2016/05/28(土) 19:59:01 :
-
1937年、夏
オーストリア、ザルツブルク
オーストリアにある都市、ザルツブルクが最もにぎわいを見せるのは、ザルツブルク音楽祭が開かれる時であった。
この音楽祭ではオペラが盛んに上演され、更にはオーケストラ・ピットには決まってウィーン・フィルが入る。
更に、世界的に著名な指揮者もここには集まる。
名実ともに、世界最高のレベルを誇る音楽祭が、このザルツブルクを鮮やかに彩るのである。
今年も、イタリアのオペラの殿堂、スカラ座を率いていたリヴァイ・アッカーマンが、
オーストリアからはウィーン国立歌劇場の音楽監督であるマルコ・ボットが、
バイエルンを追放されたばかりのミケ・ザカリアスが、
それぞれ華々しいオペラを担当することになった。
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- 32 : 2016/05/28(土) 20:00:24 :
ことに、リヴァイ・アッカーマンの活躍はめざましかった。
今でも指揮者は敬意をこめてマエストロと呼ばれる。
その由来はイタリア語であるが、そのイタリアで活躍し、マエストロと初めて呼ばれた男――――――それがリヴァイであった。
今の劇場にオーケストラ・ピットがあるのも、
上演や上映の際に明かりが落ちるのも、全てこれリヴァイがもたらした改革であった。
そして、リヴァイ自身は芸術に奉仕する厳格な男であり、
ファシズムの蔓延したイタリアを既に脱出し、今はアメリカの楽壇の頂点に君臨する帝王であった。
そんな帝王が、ドイツ近くのオーストリア、ザルツブルクでオペラを振ること自体、ファシズムへの挑戦だった。
モーツァルトの魔笛、
ベートーヴェンのフィデリオ、
ワーグナーのニュルンベルクのマイスタージンガー、
ヴェルディのファルスタッフ、
反ナチス、反ファシズムの牙城となったザルツブルクにおいて、リヴァイは以上のオペラを振っては八面六臂の活躍を成した。
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- 33 : 2016/05/28(土) 20:03:03 :
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「違う! 違う違う違うッ!! そうじゃない!! ピアニッシモだ!!」
練習に入ったリヴァイはまさに鬼神の如く、オーケストラを罵倒した。
リヴァイの怒号は凄まじく、アッカーマンをもじってノーマン(違う としか言わないので)のあだ名を頂戴したほどに、違う違うと罵声が飛んだ。
その厳格な統率力で、常に高度な芸術を実現してきた。帝王と言われる所以。
が、そこは世界最高と言われるオーケストラ、ウィーン・フィルである。
「おいおい、やっぱり切れたな。」
「ああ、この小節で切れたから、賭けは俺の勝ちだな。」
「仕方ねぇなあ・・・・・・。」
あろうことか慣れない奏者をわざと第一オーボエに座らせ、どの小節番号でリヴァイが切れるかを予想して賭け事をやってのけたのだ。
『ロシアでは指揮者が将軍で、オーケストラが兵士だが、ウィーンではあべこべだ。』と嘆かせるほどのオーケストラ。
百戦錬磨の古豪、ウィーン・フィルの団員たちは、揃いも揃ってタヌキだった。
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- 34 : 2016/05/29(日) 02:21:39 :
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さて、本番になり、リヴァイはニュルンベルクのマイスタージンガーをザルツブルクの耳の肥えた聴衆に披露した。
序曲が鳴り始めた瞬間。
巨大な劇場は瞬く間にニュルンベルクへとその姿を変えた。
リヴァイの演奏は、まさに巨大なニュルンベルクの街並みを再現するかの如く、古色蒼然とした建築物がたちまちのうちに築き上げられた。
聴衆は思わず耳を奪われ、ウィーン・フィルの奏者たちでさえ、自らの演奏が信じられなかった。
やがて合唱団が歌い出し、歌手たちが生き生きと歌い出すと、リヴァイはこれを強力に統率し、街の中に生きる職人たちの魂がそこに宿ったかのごとくであった。
そして最後に靴屋の親方、ハンス・ザックス役のダリス・ザックレーがドイツ文化の不滅を歌い上げたとき、興奮は最高潮に達した。
それは、まさに落日せんとするかつてのドイツ王家、パプスブルク家最後の輝きでもあった。
演奏終了後、割れるような拍手の中、リヴァイの表情は、まるで何かが抜け落ちてしまったかのように虚しいものになった。
気が付いたウィーン・フィルのコンサートマスターが声をかけた。
「いかがなされましたかな、マエストロ?」
「俺たちはたった今、素晴らしい演奏を成し遂げた。さっきまで手元にあったのに、もう跡形もなく消え去った。それが虚しいだけだ。」
「私もですよ。そのような境地に我々を導いてくださった、あなたはまさにマエストロだ。」
コンサートマスターは感極まった様子で、リヴァイと握手を交わした。
-
- 35 : 2016/05/29(日) 02:24:13 :
この音楽祭でとりわけ異彩を放ったのがリヴァイであったが、彼に次いで活躍した指揮者はマルコ・ボットだった。
マルコはこの音楽祭においてモーツァルトのフィガロの結婚、ドン・ジョヴァンニを担当することになっていた。
モーツァルトの使者と言われ、モーツァルトを振らせては右に並ぶもの無き指揮者マルコの本領。
彼はリヴァイと違い、決して怒らなかったが、何度も何度も望む音が出るまで団員を説得せしめた。
とりわけ、上手くいってない時ほど、マルコはその本領を発揮した。
酷く悲しそうな顔で、マルコは語り掛けるのである。
「なぜあなた達は美しい音を出さないんですか? もっと、もっと歌ってください。」
「マルコさん、またあんな悲しそうな顔を。」
「音を出さざるを得ないよな。」
「だな、怒りっぽいリヴァイより、よほど堪える。」
そうやってマルコはリヴァイとは違ったやり方で団員たちを統率し、その実力を発揮させた。
狙って限界を踏み越えさせる、相当に器用な芸当の出来る指揮者。
マルコはその人徳によって、オーケストラからも信頼され、彼の言う事ならよく従ったのである。
-
- 36 : 2016/05/29(日) 15:17:18 :
本番になり、マルコはモーツァルトのフィガロの結婚を披露し始めた。
それは見事な演奏であった。
リヴァイの影響を受けてか、いささか早い序曲であったが、その歌心が十全に発揮されて、いささかの取りこぼしもないほどに充実していた。
そして、歌手たちがそれぞれ歌い始めると、それをまるで包み込みように歌手たちに寄り添った。
歌手たちの呼吸に合わせ、マルコは充分にフィガロを歌いきり、この歌劇が持つ華やかさと峻厳さとを引き出していった。
モーツァルトの使者、マルコ・ボットの面目躍如。
この曲が持つ秘めた美しさは、マルコの奥義となって花開いた。
様々な美しい旋律がマルコによって歌われ、それらが絡み合って調和され、見事に静謐な感動を引き出したのだ。
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- 37 : 2016/05/29(日) 15:18:58 :
リヴァイが活躍し、マルコが活躍し、ザルツブルク音楽祭はいよいよ爛熟の極みに達していた。
反ファシズムの牙城として、ドイツを追われた音楽家たちがその魂を昇華させた。
そしてそれは、オーストリア最後の、黄昏の如き輝きであった。
そんな中、リヴァイには一つ、どうしても許せないことがあった。
「何故だ、マルコ・・・・・・・・・・・・なぜ奴がここにいる?」
「ここは芸術の都、彼がいたって不思議じゃない!」
「ふざけるな! ナチスに魂をうったピクシスだ! 奴がここにいるだけで虫唾が走る!」
ベルリン・フィルの監督であるドット・ピクシスが、ドイツの代表としてこの音楽祭に乗り込んできたのである。
それは、ゲッベルスと手打ちをし、彼の後援を受けていたことと無関係ではなかった。
故に、ピクシスとリヴァイは音楽祭の開催中、なるべく顔を合わせないようにしていたのであるが、遂に街中で鉢合わせすることになってしまったのだ。
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- 38 : 2016/05/29(日) 15:21:57 :
「おい、何故貴様がここにいる? ナチスに魂をうった貴様が!?」
リヴァイの声は鋭く響いた。
ナチスに対する積極的な反対者であり、自由主義の闘士たるリヴァイにとって、ピクシスはまさに不倶戴天の敵だった。
「それは違う、リヴァイ。音楽をやるものに国境は無意味、偉大な音楽は常に圧政に対抗出来るのじゃ。」
「詭弁だ。ナチスのもとで音楽を奏でれば、音楽の偉大さは失せる! ただの宣伝に過ぎなくなる!」
「偉大な音楽はゲシュタポでも触れることは出来ん! それはナチスと真っ向から対立する! わしは・・・・・・ナチスの敵だ!」
「音楽の力は、政治によって歪められる。ナチスのもとでタクトを取るかぎり、貴様はナチだ!!」
道端で、リヴァイとピクシスは言い争いになった。
ピクシスは、音楽の偉大さが、ナチスに抗しうる武器だと固く信じていたが、リヴァイは逆に考えていた。
音楽の偉大さが、却ってナチスに利用されてしまう・・・・・・・・・・・・リヴァイは権力の恐ろしさを十分に知っていた。
それ故に、リヴァイは闘士たる道を選び、芸術のため、音楽のためとひたすらにその命を捧げてきた。
そんな彼から見て、ピクシスは己の音楽に溺れ、己の音楽に奢った人間に見えていたのである。
そしてここに、リヴァイはナチスの恐るべき影を見た。
ピクシスの演奏する第九は、ナチス・ドイツの栄光を正に体現していた。
急速に力を強めていくドイツ第三帝国の栄光を、リヴァイはピクシスの音楽に見出したのだ。
恐らくピクシスには自覚はないだろうが、これが政治の恐ろしき所だ。
いったいどれほどの人間が、ピクシスの体現するナチスの偉大さに屈することになるのだろう。
ナチスの影は、繁栄きわまるザルツブルク音楽祭にあって、暗い影を投げかけたのであった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
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- 39 : 2016/05/29(日) 20:42:46 :
投げかけられたナチスの影は、たちまちのうちに広がっていった。
1938年3月
ベルリン、首相官邸
「ゲッベルス、ゲーリング、ヒムラー・・・・・・・・・・・・いよいよだ。時は来た。」
「この時がやってくるのを、待っておりました。」
「このゲーリング、喜びに堪えません。」
「どうぞ、思い切り成し遂げてくださいませ、我が総統。」
幹部たちに後押しされ、ヒトラーは遂に動いた。
ナチス・ドイツは遂に、オーストリアを併合し、その領土を拡大した。
ナチスの人間たちがウィーンに大挙し、市民たちはこれを熱狂的に受け入れたのである。
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- 40 : 2016/05/29(日) 20:43:19 :
ウィーンの街はナチスの手に堕ち、そのことは音楽家にとって過酷な運命を強いることになった。
その中でも、ウィーン国立歌劇場の監督であったマルコ・ボットの運命は壮絶であった。
マルコ・ボットはナチスの忌み嫌うユダヤ人であった。
そして、ウィーン・フィルのメンバーの四分の一は、やはりユダヤ人が占めていた。
ナチスがウィーンに大挙するや、マルコはナチスによって迫害され、命の危険に晒されたのである。
マルコの人生においても、最も過酷なコンサートが始まった。
マルコはこの日、ユダヤ人の作曲家、マーラーの交響曲第9番を演奏すべく、ウィーン・フィルの指揮台に立った。
が、その最前列をナチスに占められ、会場は足を踏み鳴らすなど、騒然としたものとなった。
今にも自分は殺される。
それでもマルコは指揮台に立ち、マーラーを振った。
命がけの演奏は壮絶を究め、音色はほとんど祈りのようなものとなり、死の恐怖を叫ばんばかりとなった。
そしてそれは、マーラーがこの曲に込めた死への恐怖と呼応し、彼岸的な美しさを湛えた演奏となった。
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- 41 : 2016/05/29(日) 20:44:11 :
-
その数日後に、マルコは亡命し、オーストリアを出た。
辿り着いたのはロンドン、ルツェルンであった。
そしてそこで、さらなる悲劇がマルコを襲ったのである。
「そ、そんな・・・・・・・・・・・・何かの間違いだ! ああ、嘘だ。嘘だ……。」
それは、最愛の次女が夫に射殺されたという悲しむべき事件だった。
マルコはショックのあまり、指揮棒を握れなくなってしまった。
「指揮は俺が代行する。マルコ、お前は休んでいろ。」
「リヴァイ・・・・・・・・・・・・僕は。」
「分かっている。お前ほどの不幸な指揮者は、どこを探してもいない。」
その人徳によって知られた名指揮者、マルコ・ボットは、ナチスによって散々に痛めつけられたのである。
マルコはやがて活動の拠点をアメリカに移し、ヨーロッパの地に再び住み着くことはなかった。
そうするためにはあまりに悲しみが深すぎたのである。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
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- 42 : 2016/05/30(月) 22:18:17 :
「何じゃと? ウィーン・フィルを解散する? そんな、馬鹿な!?」
「何を言うか!? 我らドイツには、ベルリン・フィルがある。ウィーン・フィルなど不要だ!」
オーストリアを占領したヒトラーは、次に文化の粛清に乗り出した。
ウィーンを代表するオーケストラであるウィーン・フィルに解散を命じ、多数のユダヤ人奏者が粛清されようとしていた。
かかる暴挙に、流石のピクシスも驚き悲しみ、遂にナチスへと直談判に及んだ。
「ゲッベルス。今すぐにウィーン・フィルの解散を止めさせるのじゃ。」
「これは総統閣下の命だ。これを無碍にすることは出来ん・・・・・・。」
「ウィーン・フィルあっての音楽の都。これが無くなれば、ウィーンから音楽が消えてしまうも同然じゃ。」
すると、ゲッベルスもこれには憂慮を示した。
「確かにその通りだ。ユダヤ人がいる楽団故、彼らは追放せねばならぬが、これが無くなってしまっては大きな損失なのは分かっている。」
「しからばなぜじゃ? なぜ総統閣下は斯様な命令を下される?」
「閣下は・・・・・・ユダヤ人の作る音楽を嫌っておられる。その為に、ウィーン・フィルを滅ぼそうとなされる。」
流石のゲッベルスも、これには頭を悩ませているようだった。
すると、ピクシスはゲッベルスに詰め寄った。
それは、かの邪悪の天才を戦慄たらしめるものであった。
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- 43 : 2016/05/30(月) 22:19:04 :
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「ならば、わしがこのオーケストラを率いる。」
「!! なんと!?」
「それならば、簡単に手出しは出来んじゃろう。たとえ総統閣下であろうとのう。」
ゲッベルスは恐れをなした。
ウィーン・フィルを守ろうとするピクシスの気迫に押されたのもあるが、それ以上に・・・・・・。
「それは、総統閣下に弓を引くという事か?」
「いや、わしは客演に赴くのみじゃ。総統閣下のご意向に背くものではない。」
「・・・・・・。」
ゲッベルスはややあって、静かに部屋を退出した。
翌日、ピクシスはウィーンに赴き、自らがオーケストラを率いる旨を伝えた。
常任指揮者を置かないという建前は守りつつ、客演指揮者としてピクシスを迎えるという事でピクシスとオケは合意し、指揮者を迎えたウィーン・フィルは解散を免れたのである。
が、このことは明確に、ゲーリングの怒りを買った。
以降、ゲッベルスの推すピクシスと、ゲーリングの推すアルミンとの対立は激化し、ベルリンの楽壇は恐ろしい権力闘争に彩られることとなった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
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- 44 : 2016/05/31(火) 14:35:53 :
バイエルン国立歌劇場、
エルヴィンは控室において、彼の秘書と密談を交わしていた。
「そうか、ピクシスとアルミンの対立は激化する一方なのか。」
「はい。ピクシスがウィーンの楽壇をも手中に収めたとのことで、彼を帝王と崇める人間も出てきている次第です。」
「無理もない話だろう。ベルリンとウィーン、楽壇の最高峰を二つとも手中に収めた人間はそうはいまい。」
エルヴィンはベルリンとウィーン、二つの楽壇の情勢に目を光らせていた。
ピクシスがナチスと対立し、時には手を打ちながらも楽壇を支配していく様を眺め、その影響力の巨大さをつぶさに観察していたのである。
「ピクシスは自分の影響力の大きさをよく知っておいでだ。だから抜け抜けと楽壇を支配し、その力でもってナチスに抗することが出来る。」
「しかし、そんなことをしては無事ではすみますまい。総統閣下はこの件について不快な思いを抱かれたはず。」
「その通りだ。が、その名声の大きさゆえ、総統閣下と言えど簡単に手を出せんのだ。宣伝戦に長けたゲッベルスにしてからが、彼と手を打たなくてはならなかった。」
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- 45 : 2016/05/31(火) 14:36:29 :
「それで・・・・・・・・・・・・あなたはどうします? マエストロ?」
「フム。私は・・・・・・・・・・・・ウィーン・フィルに客演する。」
「!! 近づこうというのですか!? 楽壇の帝王に?」
「その通りだ。ベルリンにおいてピクシスは、ゲーリングの推すアルミンとの権力闘争を強いられている。
一方でウィーンにおいてはのびのびと振る舞えるというわけだが、私はそこに付け入ろうと思う。
いかに楽壇の帝王と言えど、ずっとウィーンにいられるわけではあるまい。
そこで、ピクシスがウィーンにいない間を埋めるように、この私が客演する。」
エルヴィンはほくそ笑んで、話し相手の秘書に、ウィーンへの客演の手続きを取らせるよう命じた。
間もなく、エルヴィンのウィーン・フィル客演の話がまとまり、ピクシスが開いたウィーン・フィル存続の道に背乗りする格好になった。
ピクシスはウィーンにおいても厄介な敵を抱えることとなり、ベルリンではアルミンを通してゲーリングに、ウィーンではエルヴィンを通してヒトラーに、それぞれ監視されることと相成ったのである。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
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- 46 : 2016/06/01(水) 17:43:08 :
囚われたかごの中で必死に羽ばたく鳥のように、ピクシスは指揮台において必死に羽ばたいた。
ピクシスはオーストリアにおいてザルツブルク音楽祭の存続に尽力し、
ドイツにおいてはバイロイト音楽祭に出演してはワーグナーの音楽に息吹を与え続けた。
1943年
バイロイト
ここバイロイトは、各地を放浪した作曲家ワーグナーが、自分の楽劇を上演するためにのみ作り出した、
ワーグナーの、ワーグナーによる、ワーグナーのための劇場であった。
毎年夏になると、バイロイト音楽祭がこの劇場において開かれ、世界中からワーグナーの愛好家たるワグネリアンたちが集まってくる。
現代においてもワーグナーの権威たるこの音楽祭は、世界で最もチケットのとりにくい音楽祭の一つとして知られ、
つとに10年ほど、チケットの抽選漏れに耐え続けなければならない。
言葉を変えれば、10年ほどハガキを出し続け、ワーグナーに対する忠義を尽くしたもののみがチケットを手に入れられるというわけである。
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- 47 : 2016/06/01(水) 18:14:14 :
さて、この時期において、ワーグナーはヒトラーのお気に入りの音楽であり、
ワーグナー家の娘であるウィニフレッド・ワーグナーとは、家族ぐるみの付き合いがあった。
ウィニフレッドも熱烈なヒトラーの信奉者であり、二人の間にはただならぬ関係があるのではないかとの噂が常に付きまとうほどであった。
「ヒトラーおじさん!」
「あ、ヒトラーおじさんだ!!」
「おお、ヴィーラント、ヴォルフガング・・・・・・随分と大きくなったじゃないか。」
バイロイト郊外にあるワーグナーの邸宅、ヴァーンフリート荘に招かれて、ヒトラーはバイロイトの女王たるヴィニフレッドに謁見した。
このバイロイトにおいては、独裁者ヒトラーもただの人であり、気前のいい好人物そのものであった。
「ようこそお越しくださいました。今お茶にしようと思っていたのですよ。さあ。」
「ああ、お気遣いなく。こうしてお子さんたちの成長を見れるだけでこの私はお腹いっぱいですからな。」
「酒も女も嗜まれない・・・・・・実に禁欲的で潔癖。恐れ入りますわ。」
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- 48 : 2016/06/01(水) 18:14:57 :
「政治家たるもの、清廉潔白でなくてはならない。そうだろう?」
「そうですわね・・・・・・。ワーグナーおじさまは酒も女も大好きであらせられ、出費も物凄いものでした。」
「私は彼のような大人物にはなれんよ。出来ることと言えば、身の回りを常に清潔に保ち、朝晩の政務を誠実に執り行うのみだ。」
「実に慎み深いことです。それだけに、私はあなたが好きですよ。ハイル・ヒトラー。」
「うむ。時にウィニフレッド。今年の音楽祭のプログラムだが、マイスタージンガーのみになっているな。」
「ええ、今できる最高の公演は、最早ドイツを称えるニュルンベルクのマイスタージンガーだけなのですよ。」
「そうか・・・・・・・・・・・・無茶をかけたな。」
「とんでもございません。ワーグナーの歴史に残るような、立派な公演にして見せます。」
「相分かった。頼むぞ。」
ヒトラーはウィニフレッドに頭を下げ、公演の練習をするピクシスを覗きに出かけた。
敬愛するワーグナーの御前では、ヒトラーは実に慎み深く振る舞ったのである。
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- 49 : 2016/06/02(木) 06:49:39 :
「よし、ここは音を合わせて、歌いあげるのじゃ。」
バイロイトのピットでは、ピクシスが歌手たちに指示を飛ばしながらオーケストラを指揮していた。
ピクシスの創り出す音楽の肝は、その即興性にあった。
音楽とは、一度奏でられればすぐにでも消えてしまうものである。
その為、音楽は強烈な体験として人々の記憶に残るようなものでなくてはならない。
それ故に、テンポを自在に引き延ばして、観客に強烈な体験として音楽を聴かせる。
ピクシスの魔術のような音楽は、常にその即興性から生み出されていたと言っても過言ではなかった。
そして、その様式は、ワーグナーのようなテンポ設定が肝となる作品において絶大なる力を発揮した。
そもそもが巨大な音楽であるワーグナーの管弦楽が、まさに轟音のように響き渡り、力強い響きを獲得した。
ピクシスの演奏は、誰にもまねできないような、堅牢強固な砦のようなものとなり、そこに込められたニュアンスは、余人の及ばないほどに精妙を極めていた。
-
- 50 : 2016/06/02(木) 06:50:44 :
バイロイトのオーケストラ・ピットは特殊な構造をしていた。
オーケストラは観客席からは見えず、従ってオーケストラの音が観客に直接響き渡ることもない。
奈落の底のようなピットの中に、指揮者を頂点として降るようにオーケストラが配置される。
その為、歌手の声がピットの中では聞こえにくく、常に歌手とオケのずれが問題になってくる。
事に、歌手のテンポに合わせて管弦楽を付けるのは至難の業と言えた。
そんな中にあって、ピクシスは見事に歌手につけた。
本番の公演中、歌手たちはピットからの暖かいサポートを感じ取っていた。
テンポはピクシスのものであったが、歌手がそのテンポに合わせて歌うことは容易で、まるで軽い雲に支えられているかのように、のびのびと振る舞うことが出来た。
舞台上においてハーゲンクロイツが踊り、歌手たちはその中で最高のパフォーマンスを発揮した。
最後に、ハンス・ザックスを演じるダリス・ザックレーがドイツ芸術を称える歌を歌いあげたとき、会場の興奮は最高潮に達した。
「素晴らしい!!」
臨席したヒトラーは感極まって立ち上がり、熱狂的な拍手を送った。
観客は総立ちとなり、華々しいスタンディング・オベーションに舞台は包まれた。
挨拶のために舞台上へピクシスが上がると、拍手はますます大きくなった。
ピクシスの演奏した『ニュルンベルクのマイスタージンガー』は、まさにドイツ人の、ドイツ人による、ドイツ人のための高度な芸術となって花開いた。
そしてそれは、ナチスの国威発揚となって、全国のドイツ人たちを鼓舞するに至ったのであった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
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- 51 : 2016/06/02(木) 20:29:45 :
音楽家たちにとって、第二次世界大戦は暗い時代の到来であった。
1939年、
ナチス・ドイツはポーランドへと進行し、第二次世界大戦の口火は切られた。
それからというもの、ナチス・ドイツの勢いたるやすさまじく、翌年の1940年には、フランスを降伏せしめたのである。
「ここは光の都、たとえヨーロッパが火の海となろうと、ここは死守しなければならぬ。軍隊の行軍も、この都は避けて通ることだ。」
パリに入城し、人影のなくなった街を歩きながら、ヒトラーはこうつぶやいたとされている。
芸術の都を支配下に置き、ナチス・ドイツの力はいよいよその頂点にまで達した。
次にドイツは、ソ連侵攻作戦を立案し、軍を東へと進めた。
だが、遂にここでヒトラーは政策を誤った。
スターリングラードに送ったドイツの主力部隊が、散々に打ち破られたのである。
ソ連軍に押され、日に日にドイツの勢力が後退していく中、イギリスはアメリカと決死の作戦を取った。
フランス北西部、ノルマンディー。
1944年、ここにおいて史上最大の上陸作戦と名高いノルマンディー上陸作戦が決行されたのである。
アメリカとイギリスの主力部隊が一気にノルマンディーに押し寄せ、ナチス・ドイツは上陸を許してしまった。
第一波だけでも数万に達する兵が一気に上陸し、ドイツの防衛ラインを混乱せしめた。
こうして、ナチス・ドイツは東西に挟み撃ちにされ、陥落を待つばかりになったのである。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
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- 52 : 2016/06/02(木) 21:05:38 :
1945年、オーストリア
食わせ物、エルヴィン・スミスもまた、陥落していくナチス・ドイツの中にあって、その苦難をウィーン・フィルと共にしていた。
彼はピクシスに倣い、少なからずエルヴィンは、ウィーン・フィルに救済の手を差し伸べていた。
権力闘争に明け暮れる一方で、少なくないユダヤ人奏者たちを破滅の運命から救い出したのも、またエルヴィンであった。
「マエストロ。」
「いいから行くんだ。恩返しは戦後にでもやってもらう。私は恨みも恩も忘れない。」
「感謝します。この恩は、いつか必ず・・・・・・。」
逃れていくユダヤ人奏者に背を向けて、エルヴィンは指揮台に立った。
空襲は日を追うごとに激しくなり、
ウィーンの街も戦火に巻き込まれていく。
ウィーン国立歌劇場は遂に、空襲によって廃墟と化した。
そんな中にあって最後まで指揮台に立ってウィーン・フィルを指揮し続けたのは、エルヴィンただ一人だったのである。
-
- 53 : 2016/06/02(木) 21:06:04 :
ピクシスは、既に亡命していた。
国内での抵抗も虚しく、ピクシスは遂にゲーリングより、命を狙われた。
滞在先のホテルにゲシュタポが突撃したとき、部屋は既にもぬけの殻だったという。
危機を感じたピクシスが一足早く脱出し、そのまま歩いてオーストリアースイスの国境を歩いて渡ったのだった。
「さて、権力闘争には勝利したものの、虚しいばかりだな。」
「ええ、炎上するウィーンの中で勝利したとて、何の感慨やありましょうや?」
コンサートマスターと会話を交わすエルヴィン。
自らの故郷でもあるウィーンが灰になっていく様に、流石のエルヴィンも心を痛めずにはいられなかった。
「さて、マエストロ・・・・・・・・・・・・最後の演奏会の時間ですぞ。」
「そうだな・・・・・・・・・・・・何の因果だろうな。この曲が最後となるとは。」
「ドイツ・レクイエム。かのブラームスが遺したドイツ人のための鎮魂歌。」
それは、灰になっていくウィーンへの鎮魂歌であった。
まだ燃えていないウィーン・フィルの本拠地、ムジークフェラインザールの指揮台に、エルヴィン・スミスはたった。
目の前には大編成のオーケストラ、その後ろには、ウィーン楽友教会合唱団が鎮座する。
エルヴィンが指揮棒を振りだすと、地の底から湧き上がるようなコーラスが、黄金のホールに響き渡った。
この演奏に立ち会ったもの、一人として涙を流さぬもの無く、この世のすべての悲しみが洗い流されていく様な演奏となった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
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- 54 : 2016/06/04(土) 07:40:27 :
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その後も連合軍の侵攻は続き、1944年の8月にパリは解放された。
1945年、4月にはオーストリアを陥落せしめ、ウィーンはナチス・ドイツの支配から解放された。
翌月の5月、連合国は遂にドイツに侵攻し、ベルリンを包囲攻撃し始めた。
追い詰められたナチスの幹部たちは、それぞれ悲惨な最期を遂げていった。
降伏を拒否したヒムラーは服毒自殺し、
ゲッベルスもまた降伏を拒否した。
ゲッベルスは自らの息子や娘に睡眠薬を飲ませ、全員を眠らせてから青酸カリを口の中に入れて殺害に及ぶと、
自らはマグダ夫人を撃ち殺し、それから拳銃自殺を遂げた。
絶大な権勢をふるったヨーロッパのメフィストフェレスの、あまりにも凄惨な最期であった。
そして、ベルリンの地下壕において、愛人であるエヴァと共に拳銃自殺を遂げた。
それから2日後の5月2日・・・・・・・・・・・・遂にベルリンは陥落し、ヨーロッパにおける第二次世界大戦は終結した。
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- 55 : 2016/06/04(土) 08:00:53 :
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ナチスの牙城であったニュルンベルクにおいて、戦後、戦争犯罪人を裁く裁判であるニュルンベルク裁判が開廷した。
これは、日本の戦争犯罪人を裁く極東国際軍事裁判と対になる裁判所であり、生き残ったナチスの幹部たちがズラリと顔をそろえた。
そんな最中、まだ戦争も終わっていない1945年の4月27日には、エルヴィンの指揮でウィーン・フィルは活動を再開していた。
というのも、ウィーン・フィルは空爆の中にあって指揮台に立ったエルヴィンのことを忘れていなかった。
戦後、最初にエルヴィンを指揮台に昇らせたのは、彼らなりの恩返しだったのだ。
エルヴィンは早速指揮台に昇り、ウィーンの音楽を象徴するシューベルトの未完成交響曲、ソ連に配慮する形でチャイコフスキーの交響曲第五番を演奏した。
戦後の焼け焦げたウィーンにあって、エルヴィンはぬけぬけと戦後を睨み、自らの地盤を固め始めた。
良くも悪くもエルヴィンは音楽家であり、自由な演奏活動のため、地盤固めに余念がなかったのである。
政治家としての人間の業ともいえようか、はたまた、音楽家としての良心ともいえようか・・・・・・・・・・・・ともかく、エルヴィンはそういう抜け目のない男であり続けた。
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- 56 : 2016/06/04(土) 08:13:26 :
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その後、戦後のベルリンにおいて、非ナチ化裁判がニュルンベルク裁判と同時進行で開廷した。
それは、西ドイツが自らの戦争責任を追及するという名目で開かれた裁判であり、アメリカ軍の作ったブラックリストに基づいて被告が検挙された。
その中には、ピクシスやアルミン、ミケの名前もあったのである。
ナチスに協力した廉で、以上の音楽家は捕えられて、出廷を余儀なくされた。
後にミケは幾度となくナチス・ドイツに反抗していたことが明らかとなり、連合国から謝罪を受けたのであるが、
残りの二人は国内で権力闘争を繰り広げた事が仇となり、有罪判決を免れなかった。
ピクシス、アルミンは1947年まで演奏活動を禁じられた。
呉越同舟と言えばいいのだろうか、憎み合う敵同士、同じ獄に繋がれたのは皮肉としか言いようがない。
ここでもエルヴィンはぬけぬけと頭を低くしてやり過ごした。
権謀術中に長けたこの男は、自らの罪を追及されない方法も心得ていたのである。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
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- 57 : 2016/06/05(日) 13:40:23 :
1951年
バイロイト
ワーグナーの聖地、バイロイトにおいても非ナチ化の波は押し寄せた。
ヒトラーに協力的だった女王ヴィニフレッドは追放され、音楽祭の経営は息子であるヴィーラントとヴォルフガングにゆだねられることなった。
終戦から6年後の1951年、ヴィーラント、ヴォルフガング兄弟は、漸くバイロイト音楽祭の開催に漕ぎつけた。
長い禁止期間を経て、バイロイトは新しい経営陣と共に、新たなワーグナーの聖地として出発することとなったのである。
二人の兄弟は、この新しい門出に際して、有力な指揮者たちを呼び寄せた。
即ち、ドット・ピクシス、
アルミン・アルレルト、
そして、ミケ・ザカリアス。
新時代のワーグナーを打ち立てるべく、ヴィーラントとヴォルフガングは、新旧優れた指揮者の元で、自ら舞台の演出を担当することにしたのである。
-
- 58 : 2016/06/05(日) 13:41:04 :
が、ここで早速問題にぶち当たった。
「ヴィーラント、問題が一つある。」
「どうした、ヴォルフガング?」
「舞台装置のことなんだが、派手な装置は創らないでくれ。」
「どういうことだ?」
「実は・・・・・・・・・・・・指揮者のギャラが高すぎて、舞台にかけられる金がほとんどない。」
「!? じゃあどうやって演出をすればいいというんだ!! この馬鹿者がッ!!」
ヴィーラント、ヴォルフガングの二頭体制は、早速分裂の兆しを見せていた。
演出のヴィーラントに対し、ヴォルフガングは劇場の経営に専念していたのだが、その経営方針には問題があり、ヴィーラントをたびたび悩ませることになったのである。
困ったことに、指揮者も歌手も雇わねばならない以上、舞台にかけられる金はめっぽう少なくなっており、ヴィーラントを圧迫していた。
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- 59 : 2016/06/05(日) 13:41:39 :
翌日。
リハーサルのために、ミケ・ザカリアスは劇場に入った。
ミケは舞台を見渡し、そして、一言呟いた。
「どうなっている・・・・・・・・・・・・何もないじゃないか!?」
ヴィーラントの苦肉の策であった。
派手な舞台装置が創れないなら、初めから舞台装置など作らず、複雑な照明だけでシンプルな舞台をつくる。
後に新バイロイト様式として世界を席巻することになるこの舞台芸術は、皮肉にも予算の都合から生み出された華であった。
勢い、保守派であるミケは反発した。
「ふざけるな! こんな何もない舞台でワーグナーをやれだと!? このクソヤロウが!! 俺は降りるぞッ!!」
この口の悪い指揮者は散々に喚き散らし、ヴィーラントとヴォルフガングは何とかミケのご機嫌を取らねばならなかった。
何とか怒りは収まったものの、その後も火種は燻ぶり続け、ヴィーラントとミケは確執を抱えることとなってしまったのである。
-
- 60 : 2016/06/05(日) 13:42:24 :
そんなことがあったにもかかわらず、ミケはこのバイロイトにおいて、まるでワーグナーの守護者のように君臨し続けた。
ミケが担当していたのは、ワーグナー最後の楽劇であるパルジファルであった。
ワーグナーがこのバイロイトの音響を念頭に置いて作曲し、この地以外での上演を許そうとしなかった秘曲。
ミケはこの楽劇を演奏するにあたり、二人の新人を連れてきた。
クンドリー役には、分厚い低音を持つソプラノであるユミルを当てた。
このクンドリーという役は、ソプラノパートでありながら、メゾソプラノのような低音を響かせねばならない難役として知られていた。
元々メゾソプラノであったユミルは、高音に難を抱えていたものの、豊かな低音に恵まれていた。
タイトルロールであるパルジファルには、ジャン・キルシュタインを抜擢した。
パルジファルに限らず、ワーグナーのテノール役はヘルデンテノールと呼ばれ、輝かしい高音と豊かに響く中低音を同時に要求される難役ばかりであった。
そんな中にあって、ジャンの性質は軽く、輝かしい高音はあっても、中低音は必ずしも充実しているとは言えなかった。
が、ミケはあえて新鮮な感動をこの楽劇にもたらそうと、語るように歌うジャンに白羽の矢を立てた。
ミケはこの新時代の歌手たちに、新しいパルジファルを託したのである。
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- 61 : 2016/06/05(日) 13:43:42 :
「何度言ったら分かるんだ! このクソアマ!!」
「んだとコラ!? このノッポ親父!!」
練習は困難を極めた。
というのも、口の悪いユミルとミケは、案の定と言ってもいいものか、すぐに喧嘩になったからだ。
勿論、輪をかけて口の悪いジャンとも喧嘩になる始末で、いつも仲裁を買って出たのはヴィーラントであった。
「いい加減にしてくれないか!? マエストロ、ジャン、ユミル!?」
と、その時であった。
練習用のピアノから、なんともおどけたメロディが聞こえてきた。
ふと見るとそこには、アルミンがニッコリとした笑顔で座っていた。
アルミンはミケの前では、徹底的におどけものを演じていた。
若いくせに老獪なこの男は、ワーグナーの守護者たるミケに対して、早速取り入ろうとしていたのである。
が、ミケの反応はアルミンの予想に反して冷淡なものであった。
「ふん、今度有能な練習用指揮者 がいると、どこぞの劇場に紹介してやろう。」
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- 62 : 2016/06/05(日) 13:44:20 :
ミケはとっくに、アルミンを嫌っていた。
アルミンの創り出す音楽が、ミケにとっては我慢がならなかったのである。
有能であることは認めつつも、彼の創り出す軽い響きが、ワーグナーを汚しているとミケは考えていた。
もっとも、世間の人間はアルミンをミケの如くには見ていなかった。
何と言っても、彼は奇跡のアルミンである。
ワーグナーの音楽から重厚さを取り払い、明晰さを与えた彼の演奏は、まさに新時代のワーグナーであるともてはやされたのである。
そんな彼が担当する楽劇は、トリスタンとイゾルデであった。
この楽劇は、取り分けてタイトルロールが難役でもって知られていた。
アルミンはここで、二人の歌手を起用した。
まず、イゾルデ役にはユミルを起用した。
充実した中低音を持つユミルは、初期のバイロイトにおいて八面六臂の活躍を成すこととなった。
そして、至難の難役として知られるトリスタンには、ベルトルト・フーバーが起用された。
既に最高のオテロ歌いとして名声を成していたベルトルトであったが、その充実した重低音、輝かしい高音をもってワーグナーへと挑戦することになった。
-
- 63 : 2016/06/05(日) 14:01:01 :
-
役者はそろった。
戦後初のバイロイト音楽祭は、ピクシスの第九によって華々しい幕を開けた。
重厚にして、マグマのような情熱の迸るピクシスの演奏は、バイロイトの第九として、長く人の語り草になるほどの演奏であった。
ピクシスによる華々しいセレモニーの後、いよいよワーグナーの楽劇が演奏された。
アルミンがトリスタンとイゾルデを、その明晰さでもって情熱的に演奏すると、
ミケはパルジファルを、まるでオルガンのような重厚さで演奏してみせた。
クンドリーにイゾルデと、ヒロインを一手に引き受けたユミルは、その充実した声の威力でバイロイトの夏を制覇した。
カーテンコールにてユミルはこれ以上ないほどの喝采を浴び、実に15回も舞台に呼び戻された。
パルジファルを歌ったジャンがどこまでも伸びる美声を十全に披露すると、
トリスタンを歌ったベルトルトはその重低音の威力を存分に発揮し、聴衆を驚かせた。
かくして、新時代のワーグナーは鮮烈に印象付けられ、特にユミル、ジャン、ベルトルトは一夜にして華やかなスター歌手の座に上り詰めた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
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- 64 : 2016/06/05(日) 14:27:20 :
-
バイロイトにて華々しい成功を収めたアルミンであったが、彼の成功を妬むものがいた。
ドット・ピクシスである。
戦前、戦中と激しい権力闘争を繰り広げていた両者は、戦後においてもなお争い続けた。
というのも、アルミンはピクシスが就いているベルリン・フィルの音楽監督の座を狙い、ピクシスはそれを激しく妨害せんがため、決してベルリン・フィルの指揮台には昇らせなかったのだ。
「あのA・Hを必ず排除するのじゃ! よいか!? 必ずじゃ!!」
ピクシスはアルミンを名前で呼ぶことさえ嫌った。
既に大御所であり、余りある才を持つはずのピクシスは、若いアルミンの才能を妬んだのである。
ピクシスの仕打ちはこれだけにとどまらず、ザルツブルク音楽祭にも及んだ。
「あのA・Hが出演するというなら、わしは一切の演目を辞任する!」
戦後、ピクシスはザルツブルク音楽祭において、フィガロの結婚、ドン・ジョヴァンニ、魔笛、魔弾の射手、オテロと錚々たるオペラの指揮を担当していた。
帝王に手を引かれては音楽祭の経営は成り立たなくなる。
結果として、アルミンはザルツブルク音楽祭からはじき出され、ウィーンで指揮をする機会さえも奪われていたのである。
嫉妬に狂った帝王は、若き才能を全力で潰しにかかっていた。
-
- 65 : 2016/06/05(日) 14:30:18 :
-
アルミンは、しかし、戦後もしたたかな男であり続けた。
アルミンはロンドンに本社を構える英EMIプロデューサー、キース・シャーディスと組んで、彼の所有するオーケストラを指揮しては、良質な録音を世に送り出していた。
時期が到来するまでアルミンは指揮棒を振るい、シャーディスのオーケストラを引っ張り続けたのである。
これは、録音嫌いなピクシスの神経を逆撫でするものであったが、流石のピクシスもプロデューサーとして絶大な権勢をふるうシャーディスに手を出すことは出来なかった。
「何故だ・・・・・・・・・・・・何故A・Hのレコードが売れるのじゃ!?」
アルミンの先見の明は、コンサートに替わってレコードの時代が来ることを見越していたことであった。
コンサートにおいて圧倒的な人気を博した帝王ピクシスも、レコードの売り上げにおいてはアルミンの後塵を拝する羽目になった。
古い権威を振りかざす帝王に対し、新たな技術でもってアルミンは抵抗し続けた。
ここにおいて、ピクシスとアルミンの対立は頂点に達したのである。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
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- 66 : 2016/06/06(月) 21:40:34 :
-
「さて、今の状況であるならば、二人の間に付け入るのも容易かろう。」
ピクシスとアルミンの戦いの渦中に、エルヴィンは再び付け入ろうとしていた。
アルミンのいないザルツブルクにエルヴィンは乗り込み、あっという間に重要なポストを占めたのである。
更に、政変はバイロイトにも飛び火した。
「俺はもうお前の演出にはついていけん! ここにワーグナーの精神が戻るならば、俺は真っ先にここに戻ってやる!!」
演出の方針を巡って、ヴィーラントとミケが遂に決裂し、ミケがバイロイトを去った。
追い打ちをかけるように、アルミンまでもがバイロイトから手を引き、バイロイトは有能な指揮者を一気に二人も失ってしまった。
さて、二枚看板を失ってしまったヴィーラントであったが、さして困った様子は見せなかった。
というのも、ここでピンチヒッターとなるべき指揮者を既に見つけていたからである。
「という事だ。マエストロ・エルヴィン、引き受けてくれるね?」
「勿論喜んで。このエルヴィン、聖地バイロイトにてワーグナーを指揮できることを誇りに思いますぞ。」
こうして、またもエルヴィンはミケの後釜として、まんまとバイロイトに収まったのである。
-
- 67 : 2016/06/07(火) 09:32:23 :
1953年
ザルツブルク
エルヴィンはザルツブルクの指揮台に立ち、ばらの騎士を演奏した。
ばらの騎士は、元帥夫人、オクタヴィアン、ゾフィーと三人の女性が必要とされるオペラである。
リリック・ソプラノの役である元帥夫人には、名手フリーダ・レイスが当てられた。
フリーダは戦前のハンジの後継者として、申し分ない声の艶を持った歌手だった。
彼女が歌い始めると、やはり夕焼けの最後の輝き、黄昏が輝くように空気が震えた。
それがなんとも元帥夫人にふさわしかったのだ。
オクタヴィアンはズボン役、言ってしまえば元帥夫人の若き浮気相手。
若い男性を女性が演じ、女性の恋人と愛想を重ねるという難しい役どころ。
今回の公演では、メゾ・ゾプラノであるナナバが抜擢された。
溌剌として清新な声が、思春期の男の子にふさわしい・・・・・・・・・・・・エルヴィンはそう考えていた。
最後に、娘役であるゾフィーは、恋に悩むオクタヴィアンの心を射止める純真な娘で、それを悟った元帥夫人は潔く身を引き、物語に幕が降ろされる。
そんな純情無垢なゾフィーを演じたのは、かのミーナ・カロライナであった。
-
- 68 : 2016/06/07(火) 09:33:02 :
「お久しぶりですわね、マエストロ。」
「ミーナ。君は本当に素晴らしい歌手だ・・・・・・・・・・・・感情過多に歌わないのに、どうしてこう天真爛漫に聞こえるのか。素晴らしく古風な歌手だ。」
エルヴィンの讃辞に、ミーナもまんざらではなさそうに微笑む。
戦前から活躍してきたミーナにとって、このザルツブルク音楽祭は、最後の檜舞台であった。
流石に歳のせいもあり、高音を華やかに転がす力は失ったが、それでも銀色の声の輝きは失わなかった。
一生娘役を貫き通すと決めたミーナの、引退公演こそこのばらの騎士のゾフィーであった。
エルヴィンの早いテンポに乗って、ミーナは素晴らしく自然にゾフィーを歌った。
歌の上では、ミーナは新婚に恋い焦がれる娘そのものであり、好青年であるオクタヴィアンに想いを寄せ、大人への階段を昇っていく娘そのものを演じきった。
そして、最後の三重唱となり、元帥夫人が片目で笑って片目で涙を流し、舞台を後にすると音楽的な感動が一気に高まった。
オクタヴィアンとゾフィーの二重唱。
ナナバとミーナが静かに愛を歌いあい、幕が下りると割れんばかりの拍手が巻き起こった。
エルヴィンの指揮の見事さもあったが、今回の公演の主役はミーナであった。
最後の公演であっても第一線で、しかも第一級の声を披露したミーナに、観客は総立ちとなり、いつまでも拍手を送り続けた。
「ありがとうございます。私は、この公演を忘れません。」
ミーナは観客に深々と頭を下げ、有終の美を飾って舞台から去っていった。
一生娘役に身を捧げると誓った歌手の、まさに最後にふさわしい公演であった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
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- 69 : 2016/06/07(火) 09:58:58 :
さて、ザルツブルク音楽祭のあとはバイロイト音楽祭と、この夏、エルヴィン・スミスは大忙しであった。
聖地バイロイトへと到着したエルヴィンは、早速劇場に入って歌手とのリハーサルをスタートした。
エルヴィンが担当するのは、こともあろうにニーベルングの指環であった。
初夜、ラインの黄金、
第一夜、ワルキューレ、
第二夜、ジークフリート、
第三夜、神々の黄昏。
四部作から成るこの楽劇は、全て演奏すると15時間もかかる規模壮大なもの。
一晩に一つずつ上演しても、最低4日はかかるという、演奏するだけでも困難を極める演目であった。
歌手への要求もまた苛烈。
三つの役柄をもって、この楽劇の難役として知られていた。
即ち、ヴォータン、ジークフリート、ブリュンヒルデの三役である。
まずはヴォータンである。
神々の主神としての威厳に加え、娘を神として罰する際の、娘への愛情を示さなければならない。
しかも、ワルキューレでは第二幕、第三幕とほぼ出ずっぱりなうえ、最後の十五分は一人で歌わねばならない。
バリトン屈指の難役であるヴォータンには、豊かな重低音と威嚇するような声の威力を持つジークが抜擢された。
彼の声の威力は、ワルキューレの劇的なクライマックスを築き上げるのに十分であった。
『ヴォータンの槍を恐れるものは、この炎を超えるなかれ!!』
世界中に威嚇するように響いたジークの声は、まさに神々の長たるにふさわしい、雷鳴のような響きを有していた。
-
- 70 : 2016/06/07(火) 09:59:22 :
この楽劇において最も過酷な役は、何といってもジークフリートであった。
天真爛漫で無慈悲、どこまでも野性的なエネルギーに溢れ純情。
底なしのエネルギーを有する究極の英雄役。
ジークフリートに求められるは、英雄を演じられるだけの超人的なパワーと、異常なまでのスタミナである。
ことに、第二夜のジークフリートにおいては、全ての幕で出ずっぱりなうえ、最初から最後まで全力投球。
しかも、最後はこれまた最強クラスの声を持つソプラノと、三十分も二重唱で張り合わなくてはならない。
テノール殺しとも、テノール史上最高の難役ともいわれる所以である。
この至難の難役に抜擢されたのは、前々回のバイロイトでパルジファルを見事に歌い切った、ジャン・キルシュタインであった。
「お、俺が・・・・・・・・・・・・ジークフリートをッ!?」
「そうだ。君こそこの難役にふさわしいと思うが、どうだろうか?」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
エルヴィンから最初に話を聞いた時、ジャンは椅子から転げ落ちんばかりに驚いた。
というのも、自分の声は高音こそ輝かしいが、中低音は充実しているとはいえず、従って英雄らしいパワーが不足していると思ったからである。
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- 71 : 2016/06/07(火) 23:03:31 :
ジャンが驚く様子を見ても、エルヴィンは態度を崩すことなく冷静に言った。
「確かに、君の声は中低音が充実しているとは言い難い。しかし、だ。私はこれから新しいジークフリート像を確立しようと思っている。」
「新しい・・・・・・・・・・・・ジークフリート?」
「そうだ・・・・・・・・・・・・君の語るような口調、輝かしい高音は、私の求めるジークフリートそのものだ。」
「俺が・・・・・・・・・・・・ジークフリートを・・・・・・。」
エルヴィンに説得され、ジャンの心のうちに、燃え盛る炎の如くに挑戦心が芽生え始めた。
ワーグナー歌いなら、誰もが一度は憧れるヘルデン・テノールの頂点・・・・・・・・・・・・ジークフリート。
「・・・・・・分かりました、やらせてください!!」
「よく、言ってくれた。私は君を信用している。どんな批判にも反論するだけの根拠がある。それはこの私が保証しよう。」
「ありがとうございます、マエストロ!」
人心を掌握することに長けたエルヴィンは、才能ある歌手のやる気を引き出すことにかけても巧みなものであった。
-
- 72 : 2016/06/07(火) 23:04:42 :
最後に、この楽劇のヒロインであるブリュンヒルデもまた、屈指の難役である。
ホッホ・ドラマティシャ・ソプラノに分類されるこの役柄は、声の強さを第一に求められる。
そこで抜擢されたのが、既にニューヨーク、メトロポリタン歌劇場で活躍していたミカサ・アッカーマンであった。
ミカサとエルヴィンのレッスン当日。
ピアノの伴奏をしていたエルヴィンは、ミカサにこう提案をした。
「さて、我らがブリュンヒルデ・・・・・・ミカサ・アッカーマン。新しいブリュンヒルデを創るにあたり、ここでテンポの確認をやっておきたい。」
「マエストロ、私から・・・・・・テンポを提案させてください。」
「ん? どういうことだ?」
提案を提案で返され、狐につままれたような顔をするエルヴィン。
すると、ミカサは自分のテンポでブリュンヒルデを歌い出した。
それはまさに、エルヴィンですら適切だと思われるテンポで、既に百戦錬磨の歌い手であるミカサの力量のほどを示していた。
「どうしたね、マエストロ? 何かご不満かな?」
とここへ、ヴォータン役のジークがからかうような口調で割って入ってきた。
エルヴィンは皮肉な表情を浮かべ、それからこう答えた。
「あの小娘は少し生意気だが、自らの仕事をよく知っているという事は、認めざるを得ないという事だ。」
-
- 73 : 2016/06/07(火) 23:17:01 :
最高の歌い手がエルヴィンの元に集い、ニーベルングの指環はこれ以上ないくらいに素晴らしいものとなった。
特に、第二夜であるジークフリートは、信じられないくらいの爆演となった。
初めてジークフリートに抜擢されたジャン・キルシュタインが、縦横無尽、その無尽蔵とも思えるスタミナで、ジークフリートを歌い切った。
無論ミスもあった。リズムを先走る悪癖が災いし、一小節早く出てしまったり、遅く出てしまったりといったミスを連発した。
が、それがどうしたと言わんばかりに堂々とした演唱は、まさしく時代を切り開く新しいジークフリートそのものであった。
そして、第三幕も半分が過ぎ、遂にミカサ・アッカーマンの出番が来ると、ミカサとジャンは張り合うように二重唱を歌った。
本来は愛を囁くはずが、怪獣と怪獣が戦うかのごとく声を張り上げ、演奏は白熱した。
ミカサが劇場の壁をビリつかせるほどの声の威力で歌い上げると、
ジャンはその高音を一層輝かせて、ミカサの声の威力に対抗した。
二人が歌い終わった直後、まだ演奏が終わっていないにもかかわらず拍手が起こった。
あまりの演唱に、フライング拍手が巻き起こったのである。
そして、演奏が終わった瞬間、劇場は凄まじいブラボーの嵐に包まれた。
ともすれば退屈との誹りを受けることもあるジークフリートで、かくも観客が熱狂的な拍手を送った例は、後にも先にもこの時だけであった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
-
- 74 : 2016/06/07(火) 23:23:38 :
かくして、エルヴィンはザルツブルク音楽祭でも、バイロイト音楽祭でもセンセーショナルな成功を収め、確実に地盤を固めていた。
その下に、エルヴィンは野心を燃やしていた。
それは、ウィーン国立歌劇場の音楽監督の座であった。
戦災によって焼け落ちた国立歌劇場であったが、1955年に再建と相成り、その再建記念公演が華々しく行われることがアナウンスされた。
エルヴィンはこの音楽監督の座を望み、これまで様々な手を打ってきたのである。
ザルツブルク音楽祭の出演も、
バイロイト音楽祭の出演も、
全ては当代随一の指揮者という肩書の元に、ウィーン国立歌劇場の音楽監督の座を手に入れるため。
エルヴィンの野心は留まることを知らず、彼の刃は、同じ音楽監督の候補たちに向けられることとなった。
即ち、他の候補たちを追い落とすべく、様々な策謀をめぐらせ始めたのである。
-
- 75 : 2016/06/07(火) 23:29:33 :
最大のライバルとなるのは、ピクシスとアルミンであったが、彼らはベルリン・フィルの音楽監督の座をめぐり、一進一退の攻防を繰り広げている最中であり、ウィーンにまでその影響力を行使できないでいた。
次にライバルになると目したのは、亡命先から戻ってきたグリシャ・イェーガーであった。
エルヴィンは早速、ベルリンの文部大臣に掛け合った。
「グリシャ・イェーガーが遂にヨーロッパに戻ってきました。」
「ほう、それは本当かね?」
「ええ、グリシャはドイツ文化を継ぐ正当な後継者です。よって、古巣であるベルリン国立歌劇場に迎えるべきでしょう。」
エルヴィンの狙いは、グリシャをベルリンへと遠ざけることにあった。
更に、ベルリン国立歌劇場の再建記念公演の日と、ウィーン国立歌劇場の再建記念公演の日を故意にぶつけ、グリシャの出演すら妨害したのである。
こうして、帰国したばかりのグリシャはエルヴィンの姦計にはまり、ベルリン国立歌劇場へと左遷されたのである。
-
- 76 : 2016/06/07(火) 23:42:52 :
ウィーン国立歌劇場は、伏魔殿と呼ばれる。
その華々しい公演の裏側で、いく度も醜い政争が行われてきたからで、実力ある指揮者が何度も悪魔に呑まれるがごとくに失脚してきたからである。
そして、様々に権力を駆使し、策謀をめぐらせてきたエルヴィンであったが、最後の最後で躓いてしまった。
ウィーンの文部大臣が、直々に横やりを入れてきたのである。
「次のウィーン国立歌劇場の音楽監督は、アルミン・アルレルトとする!」
折しも、アルミンは先代、ドット・ピクシスの死に伴い、まんまと彼の後継者としてベルリン・フィルの音楽監督の座を射止めていた。
その結果として、アルミンはその影響力をウィーンにまで及ぼし、文部大臣に直接掛け合ってこの座を射止めたのである。
ベルリンとウィーン、更にミラノ・・・・・・・・・・・・三つの楽壇を支配する新たな帝王の誕生であった。
-
- 77 : 2016/06/07(火) 23:43:13 :
「ば、馬鹿な!? アルミンが!? 音楽監督だと!?」
エルヴィンがベルリンに掛け合っている間に、アルミンはウィーンへ直接に掛け合っていた。
歌劇場に潜む魔物は、エルヴィン・スミスを遂に飲み込んだのである。
結局エルヴィンは再建記念公演の参加すらも許されなかった。
その後、メキシコにおける公演を持ち掛けられたエルヴィンは、断る意味で多額の報酬を要求した。
ところが、メキシコ側はそれを呑んでしまい、エルヴィンはメキシコへと飛ばされる羽目になった。
メキシコの薄い空気は、循環器の弱いエルヴィンには致命傷であった。
間もなく心臓発作を起こし、エルヴィンは国立歌劇場に戻れないまま帰らぬ人となった。
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- 78 : 2016/06/07(火) 23:43:29 :
-
- 79 : 2016/06/07(火) 23:44:42 :
1955年
ウィーン国立歌劇場、再建記念公演
ウィーンを愛し、ヨーロッパを愛した人格者がこの日、国立歌劇場へと戻ってきた。
既に年老いており、音楽監督の座は辞したものの、この再建記念公演だけは引き受けた。
ウィーン・フィルのメンバーたちも、人格者の帰還を心から喜び、彼のためにその身を捧げた。
「では、音楽を始めましょう!」
かつてのウィーン国立歌劇場の音楽監督。
巨匠、マルコ・ボットは指揮棒を振り、第九を演奏し始めた。
その祈りのような音楽は、ウィーンの街中へと響き渡り、音楽の都の復活を高らかに告げたのであった。
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- 80 : 2016/06/07(火) 23:46:17 :
- 以上で終了になります。
話の筋としては、エルヴィンがナチスを利用してのし上がってから失脚するまでという事になります。
音楽をめぐる権力闘争が書けたらなと思い、筆を執った次第であります。
感想をいただけたら嬉しいです。
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