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関ヶ原の戦いとその考察について

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  1. 1 : : 2015/10/03(土) 15:15:18
    このssでは、歴史好きな自分から見た関ヶ原の戦いについての考察を述べています。
    個人の意見が含まれる場合がありますがお許しください
  2. 2 : : 2015/10/03(土) 15:27:17
    関ヶ原の戦いは1600年(慶長5年)9月15日に発生し、徳川家康率いる東軍「文治派」と 毛利輝元率いる西軍「武断派」の間に発生した戦である。
    (一般に石田三成が総大将と思われがちだが、実際は毛利輝元である)

  3. 5 : : 2015/10/03(土) 15:37:56
    兵力についての記述

    西軍

    宇喜多秀家 18000
    小早川秀秋 15000
    毛利秀元  15000
    石田三成  6900
    長曾我部盛親6600
    小西行長  4000
    吉川広家  3000
    織田信孝  2500
    大谷吉治  2500
    小川祐忠  2100
    安国寺恵瓊 1800
    長束正家  1500
    木下頼次  1000
    脇坂安治  990
    赤座直保  600
    大谷吉継  600
    朽木元網  600

    となっている
  4. 9 : : 2015/10/03(土) 16:10:36
    一方の東軍

    徳川家康 30000
    浅野幸長 6500
    福島正則 9000
    黒田長政 5400
    細川忠興 5000
    池田輝政 4500
    井伊直政 3500
    松平忠吉 3000
    加藤嘉明 3000
    田中吉政 3000
    京極高知 3000
    筒井定次 2800
    藤堂高虎 2500
    寺澤広高 2400
    山内一豊 2000
    生駒一正 1800
    古田重勝 1200
    金森長近 1100
    有馬豊氏 900
    本田忠勝 500
    織田長益 450

    と、なっており、両軍の総兵力は西軍82690
                   東軍91550
    となっている。
    しかし、東軍と内通して動きがない武将が多数おり、実際西軍で戦闘を行っていたのは35000名程度と、1部の将兵に数は限られる。
    数では不利となりつつある、西軍だったが地形的に優位に立っていた。
  5. 11 : : 2015/10/03(土) 22:24:28
    鶴翼の陣を引き、笹尾山、中尾山、南宮山を占拠していたが、重要な翼の部分に布陣する諸将の裏切りにあい、後に西軍は辛き目を見ることとなった。

    開戦からの流れ
     
     先鋒戦 西軍 宇喜多秀家18000
        
         東軍 福島正則10000
    が対峙した。福島勢は兵力で劣勢に立たされながらも善戦し、押しつ押されつの激戦を繰り広げた。
    他の対峙勢力を見ると
      西軍 大谷吉継 600
      
      東軍 京極高知3000
         藤堂高虎2500

    ここでは、精兵を率いていた大谷勢が10倍近い兵力を支えていた

    続いて、 西軍 小西行長4000には
         東軍 織田長益450
            古田重勝1200が対峙し
  6. 13 : : 2015/10/04(日) 19:47:23
    石田本隊6900には、連携して布陣した、黒田、細川勢合計10400の軍勢が攻めかかった。

    黒田隊の狙撃兵は、石田隊の先鋒である島清興を負傷させ、形成危うしと引き下がる先鋒軍を見て、黒田、細川勢は猛追を加えたが石田隊はこれに、かねてより用意しておいた大筒で撃退した。
  7. 14 : : 2015/10/04(日) 21:13:46
    開戦からしばらくたったころ、三成はまだ参戦していない武将に戦いに加わるように促す狼煙を打ち上げた。
    しかし、西軍は宇喜多、石田、小西、大谷とその傘下の部隊がそれぞれの持ち場を守って各個に戦っているだけで部隊間の連携が取れていなかった。それに対し、部隊数、実際兵力数で上回る東軍は西軍一部隊に対し、複数の軍勢が連携して、同時多方面から包囲攻撃を仕掛け、または入れ替わり立ち代り波状攻撃を仕掛けるなどして間断無く攻め立てた。さらに遊撃部隊として最前線後方に控えていた寺沢勢、金森勢が増援として加わったため、時間が経つにつれて次第に戦局は東軍優位に傾き始め、特に石田隊は猛攻を受けて柵の中に退却していた。とは言え、西軍主力部隊はいずれも士気が高くその抵抗力は頑強であり、戦局を覆すほどの決定打には成り得なかった。ここで松尾山の小早川秀秋隊1万5,000と南宮山の毛利秀元隊1万5,000、その背後にいる栗原山の長宗我部盛親隊6,600ら、計4万7,000が東軍の側面と背後を攻撃すれば、西軍の勝利は確定的となるはずであった。しかし、島津は応援要請を拒否、また毛利秀元・長宗我部盛親・長束正家・安国寺恵瓊らは、徳川家と内応済みの吉川広家に道を阻まれて参戦できずにいた。結局、最後まで南宮山の毛利軍ら3万3,000もの大軍は参戦せず、直後に起きる小早川秀秋の裏切りと並ぶ西軍の敗因となる。
  8. 18 : : 2015/10/17(土) 20:57:41
    小早川秀秋の裏切り

    やはり、西軍最大の敗因となったのは小早川秀秋の裏切りだと推察される。
    小早川隊は山を駆け降りると、東軍の藤堂・京極隊と激戦を繰り広げていた大谷隊の右翼を攻撃した。大谷吉継は、かねてから秀秋の裏切りを予測していたため、温存していた600の精兵でこれを迎撃し、小早川隊を松尾山の麓まで押し返した。ところが、それまで傍観していた脇坂安治、小川祐忠、赤座直保、朽木元綱ら計4,200の西軍諸隊も、小早川隊に呼応して東軍に寝返り、大谷隊の側面を突いた。予測し得なかった四隊の裏切りで戦局は一変、戸田勝成・平塚為広は戦死し、敗北を悟った吉継も自刃して果てた。
    大谷隊を壊滅させた小早川ら5将あまりは、勝ちに乗じて、激戦を続けていた宇喜多秀家隊の脇を攻撃した。
    ここに関ヶ原の勝敗は決した
  9. 24 : : 2015/11/01(日) 15:33:50
    大垣・佐和山両城の落城、三成の処刑、論功行賞

    家康は実質西軍の総大将であった、石田三成と西軍の主な武将の拿捕を命じた。
    一方で大坂城無血開城を行うべく、福島正則と黒田長政に西軍総大将である毛利輝元との、開城交渉を命じている。家康は9月20日に京極高次の居城である大津城に入城し、しばらく留まった。この間北陸方面の東軍総大将であった前田利長が、西軍に属した丹羽長重と青木一矩の嫡男・青木俊矩を連れて合流している。

    一方、西軍は9月19日に小西行長が、美濃岩手5千石. 関ヶ原の領主であった、竹中重門の兵に発見され、9月21日には石田三成が。23日には安国寺恵瓊がそれぞれ拿捕されている

    10月15日以降、論功行賞が順次発表された。宇都宮城に拠って上杉景勝・佐竹義宣を牽制した結城秀康の67万石を筆頭に、豊臣恩顧の諸大名は、軒並み高禄での加増となった。しかしいずれも西国を中心に遠国へ転封となり、京都・大坂および東海道は、家康の子供達や徳川譜代大名で占められた。

    10月1日 三成・行長・恵瓊ら3名は、大阪、堺を一条から六条引き回しののち、六条河原で斬首。三条に梟首された

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