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僕の歌は君の歌~兵士になった少年~

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  1. 1 : : 2014/07/19(土) 22:18:56
    こんばんは。
    もし、“全国髭ゴーグルさんの名前知りたい人ランキング”、というのが存在したならば、上位ランク確定の、数珠繋ぎです。

    ※髭ゴーグルについて
    コミックをお持ちでない方は、確認できず申し訳ないですが、第13巻52話にて、ハンジの隣で腕組みして座っている、彼です。
    ハンジ班の1人と思われます。彼にはまだ、公式に名前が知られておらず、数珠繋ぎが個人的に、別のシリーズにて、“髭ゴーグル”と表記させてもらっていました。
    アニメ第25話でも、屋根の上でハンジと一緒に少し出ています。

    今回は、そんな髭ゴーグルにスポットを当てたいと思います。

    まず、髭ゴーグルに、数珠繋ぎが勝手に名前をつけました。

    エヒト・ヴォール

    しかしながら、今後、進撃の巨人本編にて、髭ゴーグルの本名や素性等が明らかになってくると思われます。

    本編とごっちゃになりそうで不安だ、という方は、Uターンすることをおすすめします。

    そのほか、いくつか捏造設定も含まれます。

    以上の条件でも良い、という方は、お暇な時にでも、目を通していただけたらと思います。では、よろしくお願いします。
  2. 2 : : 2014/07/19(土) 22:33:51
    「エヒト。」

    仲間の声に、はっと顔を上げる。目の前には、丸刈り頭の青年が、呆れ顔でこちらを見ている。

    「まぁたお前、それ読んでるのか…?」

    エヒトは、仲間から指示された“それ”を閉じると、表紙をそっと撫でた。

    「…何度読み返しても、飽きないんだ…自分でも不思議だよ、まったく…」

    その一冊は、ページをめくる部分と、そうでない部分とがはっきりと見分けられる程、手垢で汚れてしまっていた。

    自分を兵士へと導いたもの。兵士になった今となっては、折れかかる心を奮い立たす、無くてはならないものでもあった。

    あの頃。

    あの頃のエヒトは、ひょろりと痩せて背は低く、メガネをかけていて

    内気で、本ばかり読んでいて

    周りのいじめの対象になっていたことは、言うまでもなかった。

    それでも彼には

    夢があった。

    それぞれの悲しみ

    それぞれの夢、そして明日…。
  3. 3 : : 2014/07/19(土) 22:49:53
    ー842年

    「エヒト!」

    母親の呼ぶ声に、少年はおずおずと、読みかけていた本から顔を上げた。

    その口調から、母親の機嫌の悪さが、手にとるように分かった。

    少年は、返事を絞り出した。震える、小さな声だった。

    「…なに、母さん…」

    母親の顔は、不機嫌に苛々と、眉間に皺を寄せていた。

    「またそんな所で本ばかり読んで…少しは体を動かしたらどうなの。このままじゃあんた、開拓地に行ったって、鍬のひとつも振れやしないよ…」

    自分は将来、開拓地に行く。いつの頃からか、少年の頭には、そう刷り込まれていた。

    見るからに、ひ弱な体。当然、体力も無く、運動能力も同年代の子供の並以下だ。

    訓練兵に志願する、という考えなど、周りの人間はおろか、本人すら、考えてもいない事だった。

    母は、そんな息子が、息子に向けられる世間の目が、嫌で嫌で堪らなかった。

    そんな母の思いとは裏腹に、毎日家の中に閉じ籠って本ばかり読んでいる息子の姿が、彼女の苛立ちに拍車をかけていた。

    少年は、開いていた本を、そっと閉じた。

    「外にはあまり…出たくは…ないんだ…」

    外に出れば、他の子供たちのからかいの対象になるのが常だった。ただ、何か言われるだけならまだしも、以前は石を投げつけられ、すんでの事で顔面への直撃は免れたが、少年にとってその経験はトラウマでしかなく、ますます家の中に引きこもってしまった。

    母親からの非難を浴びながらも、少年がひたむきに取り組んでいたこと、それは

    本を読むこと、そして

    物語を書くことだった。
  4. 9 : : 2015/05/20(水) 21:36:09



    『ー…私は、やるわ。』

    そう誓いをたてる少女の物語に、エヒトは夢中で目を走らせていた。

    物語の主人公である少女の運命を、まるで自分の事のように、固唾をのみ、辿り続けた。

    少女は、囚われの身であった。

    無実の罪を着せられ、両親、そして兄弟とともに、王国に囚えられていた。

    刻々と迫る、死刑執行の日。

    しかし、少女は諦めない。

    彼女が常に追い求めていたもの、それは…

    「…自由…」

    思わず口にして、エヒトは身を固くした。

    かすれた、小さな声だったけれど、母親に聞かれてはいないかと、不安だった。

    誰も自分の部屋にやって来ないのを確かめると、エヒトはその物語の頁を、はらりと捲った。

    そして、思うのだ。

    自由とは、なんだろう。

    家に居れば、雨風は防げるし、食べるものにだって困らない。普段は怖いけど、母親だっている。

    でも…何かが足りない。そんな気がする。

    それが自由というものなのか、幼いエヒトには、分からなかった。

    挿し絵に描かれた少女は、まっすぐに前を見つめている。

    その先に、何が見えるのか。

    エヒトがそれを理解するには、まだまだ時間が必要だった。
  5. 10 : : 2015/05/21(木) 11:40:47
    次の日は快晴だった。

    エヒトは母親と2人、シガンシナ区へと出向いた。

    目的は、月に何度か開かれる、市場へ買い出しに行くことだった。

    シガンシナ区は、壁の警備のため多くの兵士が駐屯することにより、経済が成り立っているようにみえるが、実際はそれだけではままならず、より多くの人々を呼び寄せるために立てられた、もう1つの経済対策だった。

    巨人の領域にもっとも近く、巨人に喰われる恐怖が先立ち、敬遠されると思いきや、人々の多くは100年以上続く平和に安心しきっているのか、シガンシナに立ち寄る足どりも皆軽く、怯える表情をみせる者など、誰1人いなかった。

    エヒトもご多分にもれず、母と並んで歩きながら、今日は何を買うのかなあと、思案を巡らせていた。

    市場は、いつもと変わらぬ賑わいをみせていた。
  6. 11 : : 2015/05/21(木) 12:00:26
    カーン、カーン…!

    すると突然、大きな音が、シガンシナ区の街に鳴り響いた。

    人々は一斉に、音の根源であろう、高台にある鐘に目を向ける。

    そして、程なくして、さわさわ、ざわざわと、人々の声が広がる。

    その断片が、エヒトの耳にも聞こえはじめる。

    「…もう帰ってきたのか…」

    「今朝、出発したばかりだろ…」

    「どの位戻ってきたんだ…」

    しばし人々のささやき合う声に耳を傾けていると、道の向こうから、誰かが走って近づいて来る気配を感じ、エヒトは目を向けた。

    自分と同じ年頃の少女が、なにやら思いつめた様子で走って来る。むろん、エヒトの事など気にする様子はなく、少女の向かう先は、おそらく壁外に通じる扉のようだった。

    少女は、身の丈よりも少し大きなスカートを翻し、腰まで伸びた黒い髪が、顔にまとわりつくのもかまわず、エヒトの前を駆け抜けていく。

    すると、少女から少し距離をおくかたちで、またエヒトと同い年位の、今度は頭を丸刈りにした少年が、心なしか足音を忍ばせながら走り抜けていく。

    周りの大人たちも、2人の子どものあとを追うように、ゆるゆると歩を進めはじめる。

    「…調査兵団だね。壁の外から、帰って来たんだ。」

    今まで口を閉ざしていた母が、静かに言った。しかし、母は人々の流れに乗ろうとはせず、その背中を見つめるばかりだ。

    エヒトも、調査兵団のことは知っていた。だが、実際にその兵士を目にしたことはなかった。

    「エヒト、帰るよ。」

    母はそう言うが早いか、エヒトの手を引き、人々の流れとは逆の方向に歩を進めようとする。

    「…僕…」

    「どうしたの、早く…」

    「僕…行ってくる!」

    エヒトはそう言うなり、母の手を振りきり、人々の流れる方へ…2人の子どもたちが駆けていった方へ、夢中で走りだした。

    「エヒト!」

    母の呼ぶ声にも、エヒトは振り返ることなく走り続けた。

    上手く言葉にできないけれど、エヒトは、このまま家に帰ってはいけない。そんな気さえしていた。

    何かが…自分を呼んでいるのだ。

    エヒトにとって、それは初めての経験だった。
  7. 12 : : 2015/05/21(木) 12:14:12
    エヒトが息を弾ませたどり着いた先には、すでに多くの人だかりができていた。

    しかし、大人たちの壁に阻まれ、人々の視線の先をうかがい知ることは出来ない。

    エヒトは、息をついた。こんなに走ったのは、久しぶりだった。

    「お父さぁん!」

    声が聞こえる。子どもの声だ。

    「お父さん…お父さぁん…!」

    エヒトは声の主を捜すと、道端に積まれた木箱の上に乗り、夢中で手を振る少女を見つけた。

    先ほど、エヒトの前を駆け抜けていった少女だ。

    少女の視線の先を、エヒトの位置からうかがい知ることは出来なかったが、よく見ると、少女の隣にも、頃合いの木箱が積まれている。

    エヒトはその木箱に登り、少女の隣に立った。

    しかし少女はそれに気づく様子もなく、手を振り続けている。

    エヒトは、少女の視線をたどった。
  8. 13 : : 2015/05/21(木) 21:08:52
    少女が見ていたのは、巨人の領域とされる壁外から生還した調査兵の列だった。

    その様子に、エヒトは思わず息をのんだ。

    その表情は皆憔悴し、うつむいたまま、ただひたすら歩を進めている。

    と言っても、まともに2本の足で歩いている兵士も、ごくわずかで、ガラガラと音を立て進む荷車の上に積まれた多くのモノは…もしかしたら…

    「お父さん!」

    少女の声に、エヒトは我に返った。少女の視線の先には、馬に乗る壮年の男がいる。

    男は少女の存在に気づくと、周囲を気にしてか、遠慮がちに手を振り返している。

    それを見るなり少女は、木箱がきしむのもかまわず、ぴょんぴょんと飛びはね、喜んでいる。

    少女の父親はその様子に苦笑しながら、隣を同じく馬で進む若い兵士に、声をかけている。

    エヒトはその若い兵士を、じっと見つめた。

    細く長身なその兵士は、正直男なのか女なのかも、エヒトにははっきり判別出来なかったが、ゴーグルをずらし、しきりに涙を拭う様子が見てとれた。

    少女の父親は、しきりに何やら声をかけている。

    若い兵士は、それに何度もうなずいている。

    そして調査兵団一行は、人々の非難の波にのまれながらも、道の向こうへと消えていった。
  9. 14 : : 2015/05/24(日) 21:44:48
    「ふう…」

    少女は満足そうに息をつくと、ようやく隣に立つエヒトの存在に気づき、きょとんとした表情をみせた。

    エヒトは、ここで初めて少女と向き合った。

    腰まで伸びた黒い髪が、真昼の陽の光に照らされ、とても美しい。

    肌は白く、柔らかそうな頬は、ほんのり赤く色付いている。

    そしてその大きな瞳は今、まっすぐにエヒトを見つめている。

    エヒトは胸の奥で、言葉にならない何かを感じていたが、その時はそれが何なのか、理解出来ずにいた。

    少女は、にっこりした。

    「こんにちは!」

    それに対しエヒトは、情けない位にビクリとし

    「こっ…んにちは…」

    「良い天気ね!」

    「うん…」

    「さっきお父さんが壁の外から帰ってきたの。見えた?」

    大きな瞳をキラキラさせ、少女はエヒトに問う。

    「うん…見えた。」

    エヒトは目を反らし、ぼそぼそと答えているにもかかわらず、少女はにこにことした表情を変えることなく

    「そうなの!?嬉しい!」

    大抵の人間なら、エヒトの態度に気を悪くし、怪訝な表情を浮かべるのだが、少女にそんな素振りはない。

    エヒトは、戸惑った。いつもなら、もう相手に嫌われても良い頃なのに。

    「ねえ、名前、何ていうの?」

    エヒトは、思わず少女の顔をみた。少女は、キラキラした瞳で、エヒトの答えを待っている。

    「えっ…えっ…エ…ヒト…」

    「えひとくん?」

    「うん…エヒト。エヒト・ヴォール。」

    少女は、それを聞くと、今度は優しい微笑みをエヒトに向けた。エヒトはそれを見た時、少女が少しだけ、自分より大人にみえた。

    「私は、ニファ。」

    …ニファ…。

    その名をエヒトは、この先幾度となく求め続ける事になる。

    目の前に広がる、そう遠くない、未来に。
  10. 15 : : 2015/05/25(月) 21:48:21
    夕暮れが迫り始めていた。

    ニファの家は、偶然にも、エヒトと同じウォール・ローゼの東の区だということで、2人は並んで家路についた。

    「エヒトくんのお父さんは、何のお仕事をしているの?」

    ニファに問われ、エヒトは口ごもる。

    エヒトの父親は、すでにこの世を去っていた。

    出稼ぎに行った先で流行り病にかかり、あっけなく死んでしまった。

    その当時エヒトはまだ幼く、父の記憶はほとんどない。

    黙ってしまったエヒトを見、ニファは慌てた。訊いてはいけない事を訊いてしまったと思ったのだ。

    「あ、ごめんね。言いたくなければ、言わなくていいよ。」

    心配そうに自分を見つめるニファに、エヒトのほうも慌てて

    「え、あ、その…僕の父さん、ずっと前に病気で死んじゃってるんだ。」

    ニファは、まるで自分の事のように、悲しそうな顔になり

    「…そうなんだ…じゃあ、寂しいね、エヒトくん…」

    エヒトは、そんなニファを励ますように笑ってみせ

    「でも、平気だよ。僕、父さんの記憶ほとんど無いし…それに、母さんがいるから。」

    その言葉に、ニファはほっとして

    「…よかった。」

    「うん。」

    少しの間、2人は黙って歩き続け、再び口を開いたのは、ニファだった。

    「…あのね。私のお父さん、調査兵団の分隊長なんだよ。」

    「…ふうん…」

    エヒトは、正直分隊長というものが、どういったものなのか分からなかったが、ニファの誇らしげな表情から察するに、すごいものなのだと感じ、目を丸くした。

    ニファは続ける。

    「お父さんがお休みの日はね、お家に帰って来るんだけど、毎回たっくさんのお客さんを連れて来るの。それで、みーんなで一緒にご飯を食べるの。みんな、お父さんの大事な部下なんだって。」

    「…へえ…」

    「お父さんがいれば、人類は絶対に巨人に勝てるよ!」

    ニファはそう言って、右手で拳を作り、左胸にどん、と押し当ててみせた。

    エヒトは笑った。ニファが笑顔になる時、エヒトはいつでも嬉しい気持ちになった。

    「…すごいね。きみのお父さん。」

    エヒトはそう言うと、背後に何やら気配を感じ、歩を止め、そっと振り向いた。
  11. 16 : : 2015/05/26(火) 22:48:20
    夕日に照らされた街で、人々は市場の片付けに追われている。

    ぱっと見、ニファやエヒトを見つめる人影は、無い。

    気のせいかな…。

    そう思い視線を外そうとした時、少し離れた、木箱の陰に…

    「…あっ…」

    エヒトは、思わず声を上げた。するとニファは

    「エヒトくんも、気づいた?」

    と、エヒトと同じく、木箱に視線を向けている。

    木箱の陰に、1人の少年が身を潜め、こっちをじっと見つめている。

    少年は、エヒトとニファが自分の方を見ている事に気づいたのか、“やべっ。”と顔を歪め、引っ込める。

    「もう!隠れてもムダ!」

    ニファはそう叫ぶと、少年が隠れている木箱へ、一目散に駆けてゆく。

    エヒトも、思わずあとを追った。
  12. 17 : : 2015/05/27(水) 21:22:20
    「こら、出て来なさい!」

    木箱の前に仁王立ちし、ニファが叫ぶのにもかかわらず、木箱の陰から少年が出て来る気配は無い。

    ニファがもう1度叫ぼうと、息を大きく吸ったところで、ニファとエヒトの目の前に、町人と思われる男が現れ、よっこいしょの掛け声とともに、木箱は撤去されてしまう。

    「…。」

    「…。」

    すると現れたのは、両膝を抱え、必死で気配を消す丸刈りの少年だった。

    そう。調査兵団の帰還を報せる鐘が鳴ったとき、ニファの後ろを駆けていった少年だった。

    「…。」

    …どうやら、木箱が撤去され、自分の姿がニファとエヒトに丸見えになっている事に、少年はまだ気づいていないらしく、ネコから逃れたネズミのように、息を殺し、身を潜めて(?)いる。

    「…。」

    するとニファが、少年の丸刈り頭を、つんつん、とつついてみせる。

    ふと、少年が顔を上げる。

    ニファと目が合う。

    「う、うわあぁぁぁっ!!!」

    まるで化け物でも目の当たりにしたかのように、悲鳴をあげる少年に、ニファは、ふくれっ面になり

    「そんな大きな声、出さなくてもいいでしょ!?」

    そんなニファを見て、わずかに落ち着きを取り戻したものの、少年は呆然とした様子で、ニファを見上げている。

    ニファは続ける。

    「あなた、ずっと私のあとをつけて来てたでしょ?どういうつもりなの?私に何か用があるの?」

    ニファがそう問い詰めると、少年はきまりが悪そうに、うつむいたまま、答えようとしない。

    エヒトはニファの隣に立ったまま、少年をじっと見つめた。
  13. 18 : : 2015/05/27(水) 22:25:07
    その少年は、年齢こそエヒトと変わらないように見えるものの、エヒトは、自分とは違うものを、ひしひしと感じていた。

    腕や足には、細いなりにも筋肉が付いており、普段元気に外を走り回っている様子が見てとれる。膝こぞうには、擦り傷の跡もある。

    エヒトは、どちらかというと、顔立ちは柔和で、髪を短くしていなければ、女の子に間違えられる事もしばしばなのに対し、少年は鋭くつり上がった瞳を持ち、子供ながらも、粗暴な印象がうかがえる。

    …だけど…。

    辛そうに歪められた眉と、微かに染められた目元から、エヒトはその少年から、何か切実な想いを読み取った。

    この少年は、ニファやエヒトに対し、意地悪することが目的で近づいたのではないことを、エヒトは、感じとっていた。

    そして、思わず口を開く。

    「…僕の…」

    「えっ?」

    ニファは、エヒトを見る。エヒトは続ける。

    「…その子、僕の友達なんだ。」

    その言葉に、少年も驚いた様子でエヒトを見る。

    「だから…その…ニファを追いかけてたんじゃなくて…僕を…捜してたんだと…その…」

    思いつくままに言葉を紡ぎ、口ごもるエヒトに、少年はやっと口を開いた。

    「そう…そうなんだよ実は…」

    早口にそうまくし立てると、少年は立ち上がり、エヒトの肩を抱く。

    「こいつを捜しててさ。一緒に調査兵団見ようって、約束してたんだよマジで。」

    少年の言葉に、ニファは一瞬目を丸くしたものの、すぐににっこりと笑い

    「なあんだ、そうだったの。私ったら…怒ったりして、ごめんなさい。」

    ニファに笑顔を向けられ、頬を赤く染める少年の顔を、エヒトは横目で見ながら、胸の奥で何かがチクリと痛むのを、感じていた。
  14. 19 : : 2015/05/28(木) 22:15:10
    少年の家も、エヒトとニファと同じ方向にある、ということで、3人一緒に歩いた。

    「…あっ…」

    ウォール・ローゼに入った頃、ニファは空を見上げ、突然走りだし、エヒトと少年より離れたかと思うと、ピタリと立ち止まった。

    それを見計らったかのように、少年はエヒトにささやく。

    「…さっきは、ありがとな。」

    「ん、ああ…べつに…」

    エヒトは曖昧にうなずいてみせた。一緒に肩を並べて歩いてきたものの、エヒトはこの少年の名前すら知らないのだ。

    少年は、エヒトにさらに顔を寄せ

    「…オレたち…友達、だからな。」

    「…え…」

    優しい言葉だった。まるでエヒトの不安や寂しさを…もう、1人ぼっちじゃないんだよ、と、言ってくれているようだった。

    少年は、エヒトと向き合った。少年のほうが、エヒトよりも拳1つぶん、背が高い。

    「オレ、ケイジ。お前は?」

    「僕はエヒト。」

    「おーい、エヒトくーん!それと、えっと…」

    ニファが呼んでいる。

    ケイジは、ニファに向かって叫ぶ。

    「オレ名前、ケイジっていうんだーっ!」

    その言葉に、ニファはとびきりの笑顔をみせ、空を指差した。

    「エヒトくーん、ケイジくーん!」

    ニファの指差す先には…

    「一番星だよーっ!」

    彼らの見つめる小さな光の先に、どんな未来が待ち受けているのか、幼い彼らは、まだ知る由もなかった。
  15. 20 : : 2015/05/31(日) 21:00:10
    ニファ、そしてケイジと別れたエヒトは、夢中で走った。

    息を弾ませながら、目の前を流れてゆく風景を、目に焼きつける。

    辺りはもう、闇に包まれ、ぽつ、ぽつと灯る町の灯りが、とても幻想的だった。

    今まで家の中から眺めていた世界を、エヒトは今、駆けている。

    そう思うだけで、エヒトは嬉しくて嬉しくて。

    不思議な魔法にかけられて、星いっぱいの夜空を駆け抜けることだって、できる気がした。
  16. 21 : : 2015/05/31(日) 21:56:10
    「…ただいま。」

    消え入りそうな声でそう言うと、エヒトは家の戸をくぐった。

    「…。」

    中では、母が夕食の支度をしている。いつもなら、母は包丁をトントン鳴らしながら、1日中家で本ばかり読んでいたエヒトに、小言を漏らすのが常だったが、今日はちがう。

    「あの…母…さん…」

    おそるおそる母に近づく。母は、手を止める事も、エヒトを見る事もない。

    エヒトは続けた。

    「あの…ごめんなさい。勝手に走っていっちゃって…」

    母は、刻み終えた野菜を鍋に入れてから、言った。

    「…調査兵団を、見て来たのかい?」

    「えっ…あ、うん。」

    「誰と?」

    「え…最初は、僕1人だったけど…他にも、見に来てる子がいて…その子たちと、友達になれたんだよ!明日、遊ぶ約束もしたんだ!」

    途中から、声を弾ませながら話すエヒトに、母は、微笑んだ。母の笑顔に、エヒトはますます嬉しくなって

    「僕、友達ができたの、生まれて初めてだよ!もう、1日中家にいるんじゃなくて、外でも遊ぶから、安心してね、母さん!」

    鍋からお湯が噴き出し、母は蓋を開け、お玉でかき混ぜながら、言った。

    「もう、本は読まないのかい?」

    エヒトは、うつむいた。

    「本は…読むよ。好きだもん。でも、昼間は外で遊ぶからさ…」

    「いいんだよ。本を読むのだって、大切なことだよ。やめることないよ。」

    エヒトは、またぱっと笑顔になって

    「聞いてよ母さん。僕、初めて調査兵団の兵士を見たんだ!それに、今日友達になった子のお父さんが、調査兵団の分隊長なんだよ!」

    母はその時、表情を固くしたことに、エヒトは気づかなかった。

    「カッコ良かったんだ!」

    そう目を輝かせるエヒトに、母は向き合った。

    「エヒト…」

    「ん、なに、母さん?」

    この時母に返した答えに、エヒトは後悔してもしきれない、と、後に語っている。

    「エヒト…調査兵団に入ろうなんて、考えてないよね?」

    エヒトは笑って答えた。

    「うーん、分からないよ。もしかしたら、入るかもね。」

    正直、当時のエヒトに、そんな選択肢があることなど、想像もしていなかった。

    ただ、そう答えれば、母さんは、僕を心配してくれる。そんな思いが、あったのだろう。

    幼いエヒトは、母の想いも知らずに、ただ、明日ニファとケイジに会ったら、何をして遊ぼうか、と、心弾ませていた。
  17. 22 : : 2016/06/25(土) 23:00:23
    「あのね、私だけの秘密の場所があるの」

    翌日、エヒトとケイジは、そう得意げに話すニファの背中を追っていた。

    「秘密の場所ってなんだよ…秘密基地のことか?それだったら、オレも作ったことあるぞ」

    ケイジの言葉に、ニファはクスリと笑い

    「ついて来れば分かるって」

    ニファの後を追いつつも、エヒトの心には不安があった。ニファが迷うこと無く突き進んでいるのは、森の中だ。

    日頃外にすらあまり出たことの無いエヒトにとって、森は未知の世界だった。

    「エヒトくん、大丈夫?」

    不安気なエヒトを気遣い、ニファは時おり振り返っては、エヒトが自分に追いつくのを待った。

    「ったく、だらしねぇな」

    そう言いながらも、ケイジもニファと一緒に、エヒトを待っていた。

    エヒトはくたくたになりながらも、初めて感じる森の心地よい風や、友がそばにいるという安心感に、心を和ませていた。

    しばらく歩くと、ニファは歩を止め声を上げた。

    「ほら、あそこだよ!」

    そう指さす先には、鮮やかなオレンジ色の花が群生し、陽の光に照らされ輝いている。

    そこはひときわ、光の当たる場所だった。

    目の前の光景に心奪われ、歩み寄ろうとした足を、エヒトはふと止めた。

    花の咲く場所とエヒトたちとの間には、崖が広がっていたのだった。



  18. 23 : : 2016/07/01(金) 14:23:09
    ニファが飛んだ。

    その体は意図も簡単に花畑の上に着地し、彼女の長く黒い髪が光に照らされる。

    「ほら、早くおいでよ」

    ニファに促され、ケイジも飛んだ。

    「…っとと…ふう、着地成功!」

    ケイジは得意げにポーズを決める。

    「…エヒトくんも、ほら!」

    躊躇し続けるエヒトに、ニファは優しく手を伸ばした。

    しかしその手をつかむためにも、エヒトは飛ばなくてはならない。ニファやケイジがやったように。

    「僕は…いい。ここで見てるから」

    「そんな事言うなよ!エヒトなら飛べるって!」

    ケイジが言う。ニファは、なおもエヒトに向かって手を伸ばし続ける。

    「エヒトくん…大丈夫だよ。私、3人で一緒に、お花を見たいもん」

    エヒトは顔を上げた。その先には、ニファとケイジがいる。

    「私、このお花の名前、知らないけど…私は、光の花って呼んでるんだよ。だってこのお花は、たくさん光が当たる場所にしか、咲かないんだもの」

    「光の…花…」

    「飛べぇ!エヒト!大丈夫だ、オレが…オレとニファが、がっちり受けとめてやる!」

    ケイジも、エヒトに向かって手を伸ばした。

    エヒトは勇気を振り絞り、力の限り飛んだ。光の花の中に立つ、友に向かって。

    「うっ…うわあぁ!」

    あわや、のところで、エヒトの体を、ニファとケイジの手が支えた。

    「やればできるじゃねぇか!」

    ケイジがそう言ってエヒトの背中を叩く。

    「エヒトくん…見て、きれいでしょ?」

    エヒトはそのまばゆい光に、思わず目を細めた。

    「うん…今まで見てきたなかで…一番きれいだよ」

    その輝きは、いつまでもエヒトの心の中で、温かな光を放ち続けたという。



  19. 24 : : 2016/07/01(金) 14:58:15
    森を抜けた3人は、その足でニファの家へと赴いた。今日はニファの父が部下たちを招き入れ、宴会を開くのだという。

    「こんにちは!」

    ニファの家の近くまでやって来ると、いきなり見知らぬ大人に声をかけられ、3人の子供たちは、そろって首をかしげた。

    「外で遊んで来たの?ははっ、子供は元気が一番だね!」

    子供たちの反応をよそに、その大人は親しげに話し続ける。

    そしてニファの顔を覗き込むと

    「…ああ!君が分隊長の娘さんだね!目元がそっくりだ!」

    分隊長…その言葉に、エヒトははっとした。

    「…もしかして…調査兵団…の…」

    「そう!分隊長が、今夜宴会を開いてくれるって言うから、待ちきれなくって早く来ちゃったよ!分隊長は太っ腹だから、美味しいお酒を、今夜も期待しちゃおっかな!」

    子供が目の前にいるにもかかわらず、そう胸を踊らせているその人物は、以前凱旋の時にニファの父と一緒にいた、あの若い兵士だった。

    今は兵服ではなく、簡素な上着とズボン姿のため、気がつかなかったのだ。

    それに、あの時はひとしきり涙を流していたのだから。

    「…おい、ニファ…」

    浮かれ続ける若い兵士を目の前にし、ケイジがこっそりニファに耳打ちする。

    「お前の父ちゃんの部下って…すっげぇ変なヤツだな…」

    「んんっ!?何か言ったかそこのキミぃ!?」

    メガネをギラリと光らせ、若い兵士はケイジに詰め寄る。

    「えっなっな…なんでもねぇよ!」

    まさか気づかれると思っていなかったのか、ケイジは驚きながらも、何とか声を絞り出す。

    「…ん?」

    若い兵士は、今度はエヒトの手元に気づき

    「その花はなんだい?珍しい花だね」

    「これは、光の花よ」

    「光の花!?」

    聞いた事も無い名前に、若い兵士の目がキラリと光る。

    「えっ何それ!?どこに咲いてるの!?色はこの色だけなの!?他の場所でも栽培は可能なの!?あっもしかして、食べれるの!?」

    「えっ…ごめんなさい…分からないわ…」

    若い兵士は、興奮した様子で頬を赤らめながら

    「そうか、まだ謎なのか!いやぁそういうの聞くと、こう、たぎるんだよねぇ!とことん追究したくなる…この気持ち、分かるだろ!?」

    子供たちは、若い兵士の異様な振る舞いに、完全に言葉を失った。そんななか、ケイジがこう言い放った。

    「わっかんね~よ、バーカ!」

    と、あっかんべぇをしてみせるケイジに、若い兵士は愉快そうに笑い

    「あっはっは。分からない、か。残念だなぁ」

    エヒトは、じっと黙って、若い兵士を見つめていた。

    今まで出会った事の無い、変人、とすら呼べなくもない人物ではあるものの、エヒトはその瞳の輝きに、惹かれていた。

    この人は、まっすぐ前を向いている。

    「…ああ、言い忘れてたね…私の名前は…」

    こうして、彼らは出会いを果たした。

    「ハンジ。ハンジ・ゾエ。調査兵団の、兵士さ」

    光のもとに咲く花が、見守るその先で。
  20. 25 : : 2016/07/03(日) 22:06:25
    ウォール・マリアから壁外へと続く重厚な扉を目の前にして、ハンジは息を飲んだ。

    「怖いのか」

    隣でそう問いかけるのは、自身の上官であり、心優しい父親の顔も合わせ持つ男だ。

    ハンジは、慌ててその場を取り繕うように言った。

    「いえ、その…問題ありません。この前のような失態は、しませんよ、絶対に」

    前回の壁外調査は、ハンジにとって始めての経験だった。

    訓練兵の時に、壁外の…巨人の恐ろしさは嫌と言うほど聞かされてきたにも関わらず、実際に目の当たりにすると、もう生きた心地さえしなかった。

    そんなハンジの精神にとどめを刺すかのように、目の前で、同期の仲間が巨人に喰われた。

    もういっそのこと、自分も消えてしまいたかった。こんな苦しみを抱えてまで生き続ける意味を、この時のハンジはまだ悟る事ができなかった。

    そんな若き日のハンジを、分隊長は叱責する事なく、笑って受け入れた。

    『ハンジ。死ぬ事っていうのは、1度きりしか出来ないんだぞ』

    至極当然の事を説かれ、ハンジは涙を拭うのも忘れ、呆然とした。

    『1度しか出来ない事を、そんなに焦ってする事はない。逆に、自分が新しく生まれ変わる事は、何度だって出来る。出来るチャンスがある事は、何度でも経験しないと、損だぞ』

    妻に先立たれ、男手ひとつで娘を育て、家計をやりくりしている分隊長らしいセリフだった。そして、周りから幾度となく“生き延びろ、死ぬな”と教え込まれてきた若者にとって、視点を変えた上官の言葉は、とても新鮮なものだった。

    「ただいまより、第●回壁外調査を、開始する!!」

    人類の活動領域を隔てる扉が、開かれようとしている。

    「行くぞ、ハンジ」

    「はい!」

    ハンジは上官の言葉を噛み締めるように、手綱を強く握り締めた。
  21. 26 : : 2016/07/04(月) 07:57:39
    そして、“その時”はやって来た。

    「前方に3メートル級…おい新兵!!!立体機動で早く飛べ!!!」

    先輩兵士の、悲鳴にも似た叫び声を耳にしながらも、ハンジは恐怖のあまり、指ひとつ動かせなかった。

    「あ…ああ…」

    涙や鼻水を垂れ流し、絶望に立ち尽くす獲物を前にして、巨人はニヤニヤと、笑っている。

    楽しい…のかい…ねえ、今、どんな気持ちなの…?

    心のどこかで、そう巨人に呼び掛けている自分がいるのに気づき、ハンジは呆れた。心底、自分はこんな状況で何を考えているんだと落胆さえした。少なくとも、この時は、まだ。

    「ハンジぃ!!!」

    1人の兵士が、こちらに向かって飛んで来る。

    「ぶ…ん…たいちょう…」

    ザシュ。

    うなじを切り落とす小気味良い音とともに、巨人の体が、ぐらりと傾いてゆく。

    「ハンジ!!早く逃げ」

    それは、まさに一瞬の出来事だった。

    倒れてゆく巨人の陰に、もう一体の巨人が潜んでいた。

    分隊長の体をつかむ。

    パキ。

    抵抗する間もなかった。

    「ぐ…うわぁぁっ…」

    「分隊長ぉぉぉぉっ!!!」

    部下から慕われ、娘をこよなく愛していた男の体は、無情にも、巨人の口の中へと消えていった。
  22. 27 : : 2016/07/06(水) 08:53:20
    「こん…ちくしょおぉぉぉぉっ!!!」

    ハンジは、あらん限りの力を使い、巨人の首を切り落とした。その力の原動力はもはや、憎しみのみである。

    「おい、何をしている新兵!」

    先輩兵士は戸惑いながらも、首を失ってもなお活動し続ける巨人のうなじを削ぎ、とどめを刺した。

    巨人の弱点はうなじのみであり、その他どの部分を破壊しても、再生し続ける…兵士であれば、誰もが理解していなければならない事実であった。

    むろん、新兵とて例外ではない。

    「気持ちは分かるが…今は落ち着いて行動しろ。そんな事では、分隊長も…」

    先輩兵士は、そこで思わず息を飲んだ。憎しみにまみれた、若き新兵の顔を目の当たりにしたのである。

    「分隊…長…どうして…あなたが…」

    目の前には、自ら切り落とした、巨人の首が転がっている。そして他の体と同じく、蒸気を上げながら劣化していく。

    なぜ、そうなるのか。その謎も未だ、人類は手がかりすらつかめていない。

    「おい、新兵…もう…」

    隊列に戻るよう、先輩兵士が促そうとするのを尻目に、ハンジは右足を、大きく後ろへ引いたかと思うと…

    「この…悪魔がぁぁっ!!!」

    巨人の首を、蹴り飛ばした。その時に感じるであろう足の痛みも、心に刻むつもりでいた。

    こっ…

    こっ…こっ…こっ…

    ころろ…





    …ぴた。


    「…えっ…」

    痛くない。だけど…おかしい…頭って、もっと固くて、重いもの…だよね…?

    だけど、こんなにも軽い…そう、まるで毬のように。

    ハンジの戸惑いをよそに、巨人の体は蒸気に包まれ、跡形もなく、その姿を消してゆくのだった。

    多くの謎を残したままで。

  23. 28 : : 2016/07/13(水) 22:04:59
    ー846年

    黒と白の対の翼をあしらったマントを羽織った3人の若者のもとへと、ハンジは歩を進めた。

    「やあ、君たち!大きくなったね」

    「ハンジさん…」

    「来てくれたんだね、ニファ、ケイジ、それから…えっと…」

    ハンジは思わずそこで口ごもった。

    3人の中でひときわ背が高く、屈強な体つきをした、顎に髭を生やしたこの若者は、いったい…。

    「お久しぶりです、ハンジさん」

    声を聞けば、男性の声とはいえ、とても低い。

    ハンジの記憶の中に、そんな人物の記憶は無い。

    「えっと…誰だっけ?」

    髭の男性は気を悪くすることなく、微笑んだままで

    「…エヒトですよ」

    「え…エヒトくん!?」

    驚くハンジの様子に、ニファもケイジもクスリと笑う。

    「こいつが一番変わったんだよな。いつの間にか、背も俺を越えてたし」

    ケイジがエヒトを小突く。

    仲睦まじく笑い合う若者を前に、ハンジは表情を引き締めた。

    「君たち…ここ、調査兵団に入ったって事は…それなりの覚悟を決めてきてくれたって事…だよね?」

    上官の言葉に、3人はそろって敬礼した。人類に心臓を捧げる覚悟を示した、兵士の敬礼である。

    ハンジは言った。

    「よし。じゃあ、改めて…私は、ハンジ・ゾエ。今は、班長をしている。君たちはそれぞれの分隊に所属して、まずは調査兵団の兵士のしての心得を学ぶんだ…いいね?」

    「はっ!」

    エヒトは調査兵としての自覚に目覚めながらも、なおもハンジの瞳から、自分が追い求め続けた希望の光を、見いだそうとしていた。

    前へ。未来へと、進み続ける。

    その時、3人は気づく事はなかったが、彼らの瞳にも、ハンジと同じ光が、小さな灯火のように光り始めていた。

  24. 29 : : 2016/07/14(木) 22:00:41
    『変人の巣窟』

    調査兵団が民衆にそう揶揄されて久しいが、エヒトたちはその事実を、改めて知らされる事となった。

    「可愛い…ですか」

    「そうだよ」

    目すら合わせようとしない部下に構わず、ハンジは嬉々とした表情で続ける。

    「この子は夜更かしが好きな子でね…この子と過ごす時間は、日々の疲れを忘れさせてくれるんだよ」

    ハンジの言う“この子”とは、人間の子供でもなければ動物でも無い。人類を絶滅寸前にまで追い詰めた、巨人なのである。

    エヒトはハンジの表情を窺うも、強がったり嘘をついている様子はまったく無い。本心で、語っているのだ。

    ニファは青ざめた表情を浮かべたまま、口を開いた。

    「私には…ちょっと理解できません。巨人は恐ろしいものだと、今まで教わってきたので…」

    ニファの言葉に、ハンジは悲しそうに首を振った。

    「やれやれ…まったく、訓練兵団はいったい何を教えてきたんだろうね。ま、良いさ。これからどんどん、この子たちの魅力を知っていけば…」

    楽しみだなぁ、と、実験体である巨人に目を移すと、ハンジは再び興奮に頬を赤らめた。

    この当時のハンジは、巨人の捕獲や実験となると、周りがまったくと言って良いほど見えなくなっていたという。

    仲間の命さえも。

    エヒトらを含め、当時の新兵たちは、口々にこう囁き合ったという。

    ハンジ・ゾエに、関わっては、いけない。

  25. 30 : : 2016/07/16(土) 22:18:56
    「エヒトくんってさ、本当に変わったよね」

    エヒトは、びくりとした。声をかけられ振り向いた先に立っていたのは、ハンジだったのである。

    固い表情のままのエヒトに、ハンジは苦笑した。

    「そんなに警戒しなくたっていいじゃないか。なにも、とって食うわけじゃないんだから」

    「…すみません、その…突然だったもので…」

    実のところ、関わってはいけないと噂される上官に声をかけられ、警戒すらしていたのだが。

    「今日はニファとケイジ、一緒じゃないの?」

    「いえ…あの2人は今、別の任務で…」

    そうか、とハンジは息をつき、エヒトの隣に立った。そこは通路の途中で、備え付けられた窓からは、暖かな光が降り注いでいる。

    「私、君たちにまた出会う事ができて、本当に嬉しく思うよ」

    「そう…ですか。それは、光栄です」

    ハンジはエヒトを見た。エヒトも見つめ返した。緋色の瞳の中に、エヒトの姿が映る。

    「ニファも女の子らしくなったし、ケイジも悪ガキの頃よりずいぶん大人らしくなった。だけど、エヒトくんが一番成長したんじゃないかと、私は思うよ」

    エヒトは考えた。今、目の前にいる上官に、言おうかどうか迷った。

    そして、言った。

    「ハンジさんも…変わりました…よね」

    「私が、かい?」

    意外な発言だったのか、ハンジは目を丸くした。

  26. 31 : : 2017/08/13(日) 17:35:59
    「…ハンジさんは…」

    エヒトは慎重に言葉を選んだ。

    「以前はもっと…関わりやすかった、と言うか…」

    エヒトの言う以前とは、光の花のもとに、皆が集まった時の事である。あの時からどれだけの時間が経過したのだろう。

    どれだけの人間の命が、失われたのだろう。

    「ふっ…ははは!」

    てっきり気を悪くするかと思いきや、目の前に立つ上官は、おかしくてたまらない、とでも言うように、体をのけぞらせながら笑いはじめたのだ。

    エヒトは呆然とその様子を眺める他なかった。

    「…そうだよね」

    ハンジはふと笑うのをやめ、ぽつりと言った。今度はその瞳には、悲しみのようなものが浮かんでいた。

    ころころと変わる上官の感情に、エヒトは恐怖すら感じた。この人はいったい、どうしてしまったのだろう。

    この人にいったい、何があったのだろう。
  27. 32 : : 2017/08/20(日) 22:03:06
    それから数日経った、ある夜のこと。

    エヒトは自室で本を読んでいた。自室といっても新兵に個室が与えられるはずもなく、同室者のケイジは、豪快なイビキをかいて、とっくに眠りに就いていた。

    ゴトッ。

    何かの物音を聞き、エヒトは顔を上げた。思わず、ケイジの方を見る。しかしケイジは、壁に背を向けたまま、うずくまるようにして、眠り続けている。

    物音の原因は、彼ではないようだ。

    エヒトは、気にはなったものの、再び本へ視線を戻そうとすると…

    ガタン。

    外だ。エヒトはそう直感し、入り口の扉を開こうとした。

    「…あれ?」

    開かない。扉は外開きで、ドアノブをひねって押せば、簡単に開く仕組みになっていた。カギは、最初から付いていない。

    エヒトはもう1度、今度は先ほどより強く、扉を押してみた…わずかに、扉が動く。

    そこでエヒトは、1つの予測にたどり着いた。

    扉の前に、何かある。

    もしくは、自分かケイジを訪ねて来た、誰かが。
  28. 33 : : 2017/08/27(日) 21:36:38
    程なくして、エヒトは扉越しに、こちらへ近づいて来る足音を耳にした。

    その足音は、エヒトが立つ扉の前で止まった。

    「…こんな所に、いたんですか」

    疲労をにじませた声は、とても低いものだった。

    すると、扉越しに、何かが動くのを感じた。やはり、誰かが扉にもたれかかっているのだ。

    「…はは」

    「笑い事じゃありませんよ!」

    もたれかかる誰かが、弱々しく笑い、低い声の主が、声を押し殺しつつも、叱責する。

    扉にもたれかかる声の主は、深く息をついた。

    「…ごめんごめん」

    「まったく…頼みますから、ケガが治るまで大人しくしていてください」

    「そんなわけには、いかなくてね」

    エヒトは、低い声の主が発した、ケガ、という言葉に、はっとした。

    「ハンジ…さん」

    エヒトは思わず呼び掛けた。その声に、身をよじらせてこちらを向く様子が、扉越しにも分かった。

    「…エヒトくんだね。ちょうどよかった。扉を開けてくれないかな」

    ハンジはそう言って、扉の前から離れたようだ。

    エヒトは、そっと扉を開けた。
  29. 34 : : 2017/09/03(日) 21:28:50
    「…やあ、こんばんは」

    明るい口調とは裏腹に、ハンジの姿は痛々しいものだった。

    頭や腕には包帯が巻かれ、治療が施されているものの、その顔は、苦痛に歪んでいる。

    「…こんな夜中に、すまないね…」

    エヒトに向かって、そうしきりに詫びるのは、ハンジの隣に立つ男性兵士だった。扉の向こうで聞いた低い声の主は、彼で間違いないだろう。

    いきなり現れた、異様とも言える2人に、エヒトはただ唖然とするばかりだ。

    「…実はね…」

    ハンジはそう口を開くが早いか、エヒトの手を握った。いや、力強く、握り締めた。

    「エヒトくん。きみに、頼みたいことがあるんだ」

    「…あの、ハンジさん…本当に、こんなこと…」

    隣に立つ男性兵士が、おずおずと口を挟むが

    「モブリットは、黙ってて」

    と、あっさりとハンジに制されてしまう。

    エヒトはここで、おや、と思った。モブリットという名前に、聞き覚があったのだ。

    どこで聞いたのだろうと、思考を巡らせていると、再びハンジが口を開いた。

    「エヒトくん。協力してほしいんだ」

    「協力…ですか」

    エヒトが反復し、ハンジはうなずくと、辺りを気にするように、声をいっそう潜めた。

    「次回の壁外調査で、隊列を抜けだして私の所まで来てほしい。もちろん、上官には内緒でね」

    …その行動がどんな意味を成すのか。当時のエヒトが導きだした答えは、ただ1つ。

    死、のみだった。

  30. 35 : : 2017/09/10(日) 20:53:19
    朝を迎えた。

    朝食の席で、エヒトから昨夜のことを聞かされたケイジは、顔を、これでもかとしかめた。上官たちが近くにいなければ、イスの1つでも蹴飛ばしていたのかもしれない。

    それは、エヒトの話の内容に加え、そんなことが起こっていたのに、のんきに眠りこけていた自分に対する怒りでもあった。

    幼い頃から、カッとなりやすいケイジの性格を理解しているニファは、向かいの席に座ったまま、そっと彼をなだめた。

    「…落ち着きなよ、ケイジ。それにエヒトだって、引き受けたわけじゃないんだし…」

    そうだよね、と問うように、ニファはエヒトに視線を移した。

    「…う、うん…まぁ…」

    「なんだよエヒト、ハッキリしろよ!」

    エヒトの返答に、ケイジはとうとう拳で机を叩いた。

    「こら、ケイジ!」

    即座にニファに叱られ、一瞬怯んだものの、ケイジは続ける。

    「ちゃんと断れよ。オレはそんなバカな事で死にたくありませんって、ハッキリ言ってやれよ、マジで」

    やはりケイジも、壁外で1人隊列を抜け出して行動する事が、どういう結果に繋がるのか、想像しているのだろう。

    まして、ケイジもニファも、そしてエヒトも、まだ経験の浅い新兵である。

    「クソッ…あいつ、何のつもりでエヒトにそんな事を…」

    ケイジの言うあいつ、とは、ハンジの事である。

    新兵であれば、上官の命令には逆らえずに、ホイホイと引き受けるとでも、思ったのか…。

    ケイジはそんな推測を頭に描き、怒りに燃えていた。
  31. 36 : : 2017/09/17(日) 21:14:47
    「…でも…」

    そんなケイジに対し、エヒトは冷静だった。

    「ハン…あの人の目的は、何なんだろう」

    エヒトはそのまま、考え込むように目を伏せた。ケイジは不機嫌そうに、大きく息をついた。

    ニファは…そんな2人の幼なじみを前にして、素早く周りに目を走らせてから、こう切り出した。

    「…今から話す事、誰にも言わないでほしいんだけど…」

    「ん、なんだ?」

    「何か知っているのか、ニファ」

    エヒトは顔を上げ、ケイジはニファに向かって身を乗り出す。そして、3人は誰からともなしに、頭を寄せ合った。

    幼い頃から、内緒話をする時は、こうしてきたものだった。

    「これは、あくまでもウワサなんだけど…」

    そう前置きして、ニファは言った。

    「…捕まえようとしてるんだって」

    「捕まえるって…何をだ?」

    ケイジの問いかけに、ニファは少し、青ざめたようだった。

    「あの人…巨人を捕まえようとしているのよ…それも、団長の許可無しに」
  32. 37 : : 2017/09/24(日) 21:55:14
    壁の外の陽射しは、壁の中のそれとは違い、優しく、暖かいものに感じた。

    エヒトにとって2回目となる壁外の空は、どこまでも澄み、鳥たちは羽を広げ、ゆうゆうと飛び回っている。

    それは大地の上で繰り広げられる地獄とは、別の世界のようだった。

    エヒトはふと空を見上げ、その眩しさに思わず目を細めた。まるで、見てはいけないものを、見ようとしているかのように。

    「…エヒト!」

    何度目だろう。ケイジとニファから、何度となく名を呼ばれ、その度に返事をした。

    「エヒト…オレたちから離れんなよ!」

    ケイジがそう叫ぶ。エヒトは幸か不幸か、ケイジ、そしてニファと同じ班に所属していた。付け加えておくが、班長はハンジではなく、別の兵士である。

    ケイジもニファも、口には出さなかったが、気づいていたのだ。エヒトがハンジの申し出を、断らなかった事を。

    そして、友人が死地へと向かわないように、幾度となくその名を呼び続けているのだ。

    「エヒト…もう、あの人の事は忘れて、自分が無事に壁の中へ戻る事を考えて!」

    ニファが言った。続けて、ケイジも叫ぶ。

    「そうだ!あいつにはもう…味方なんて、いねぇんだからな!」

    今や、ハンジは調査兵団の中でも、孤立した存在になっていた。

    ハンジの部下だった者も、次々に、団長に他の班への異動を申し出ていった。中には、泣いて懇願する者もいたという。

    その原因は他でもなく、ハンジの仲間の命すら省みず、無謀に巨人に向かっていく行動にあった。よくそれで生きているものだと、感心すらしてしまうほどだった。

    そんな状態でありながらも、調査兵団の慢性的な人員不足故なのか、団長ももはや黙認する始末だった。

    「行くなよエヒト…あいつの所へ言ったらお前…」

    ケイジの瞳には、またもや怒りの色が見え始めていた。

    「し…ぜ、ぜっこーするからな!」

    「ケイジ…あんた、コドモじゃないんだから…」

    ニファが隣で呆れている。壁外にも関わらず、エヒトは思わず吹き出してしまった。そして、改めて思った。

    ケイジとニファ…2人は何よりも代えがたい、友人である事を。

    『私の所に…来てくれないかな』

    なぜだろう。どうして、こうもハンジの言葉が、頭をよぎるのだろう。

    ハンジの瞳に、まだ光が残っているから?その光に、自分もすがろうとしているから?

    死にたくなんか…ないのに。

    「エ…エヒト!?」

    「お、おい!お前…!」

    ニファとケイジが止める間もなく、エヒトは馬を操り、隊列を離れていた。

    場所は…分かっている。隊列の配置は、すでに暗記してある。

    「エヒト…エヒト!」

    ニファの声が、泣いているようにも聞こえる。

    「エヒト…てめぇ…」

    ケイジが何か言ったようだったが、馬の蹄の音に混じり、よく聞こえなかった。


  33. 38 : : 2017/10/01(日) 21:21:42
    兵士たちの驚きと不審に満ちた視線をかいくぐりながら、エヒトはハンジのもとへとたどり着いた。

    ハンジはすぐにエヒトの姿に気づくと、瞳を輝かせ、エヒトに向かって片目をつぶってみせた。エヒトはどう返したものかと、思わず視線をそらした。

    「おい新兵、何をやっている!早く元の班へ戻れ!」

    見かねた兵士の1人が、エヒトにそう促すも、ハンジは即座に一喝した。

    「うるっさいなぁ!私たちはこれから、大事な用があるんだよ」

    それに対し、兵士が口を開こうとした時、前方から悲鳴にも似た叫び声が聞こえた。

    「前方に、巨人発見!!!」

    その声から伝染するかのように、兵士全体に緊張した空気が張りつめる。

    もう誰1人、隊列を無視した新兵に構っている余裕などなかった。

    「よし、来た来た来た…」

    ハンジはまるで熱にでも浮かされているかのように、頬を紅潮させ

    「行くよ、エヒトくん!モブリットも来てくれるから!」

    エヒトは改めて、なぜモブリットという名の先輩兵士が、同じ班でもないハンジの言う事に従っているのか、疑問に思った。

    それと同時に、ようやく思い出すことができた。モブリットという名に、聞き覚えがあると思っていたのだが、それはすべて、“あの日”の出来事がきっかけだったのだ。

    そう、あれはエヒトが調査兵団に配属されて、初めての壁外調査を終えた夜のことだった…。
  34. 39 : : 2017/10/08(日) 21:02:42
    エヒトは自室のベットの上にうずくまり、布団をかぶり震えていた。

    頭の中で何度も蘇るのは、初めて壁外に出られた喜びや感動などではなく、巨人を初めて目の当たりにした衝撃と、数秒前まで隣にいた兵士が放った、断末魔だった。

    これが…現実なのか。

    壁の中に帰還し、まず始めにしたことは、便所に駆け込み嘔吐することだった。それはエヒトだけではなく、新兵のほとんどは、それをした。

    夕食など喉を通るわけもなく、自室に逃げ込み、忌まわしい記憶が中和されるのを、ただひたすら待つしかなかった。

    怖かった。そして、自分たちをそんな恐怖と絶望に突き落とす巨人が、憎くて憎くてたまらなかった。

    そうか、と、エヒトは布団の中で顔を上げた。

    こうして、調査兵は強くなってゆくのだと。その原動力は、巨人に対する恐怖と憎しみに他ならないのだ、と。

    タタタ…

    「…だ…にと…思っ…」

    何やら、廊下が騒がしい。エヒトは、そっと布団から抜け出した。隣のベットを見ると、先ほどまで自分と同じように恐怖に震えていたケイジが、スヤスヤと寝息をたてている。

    やれやれ、大したものだ、と、エヒトはふっと息をつくと、ケイジの腹にそっと布団をかけてやった。

    タタタッ…タタ…

    廊下の足音は、確実に増えてきている。それに伴って、ざわめきも大きくなる。

    「とにかく、看護兵を…」

    「おい、担架はまだか…」

    急病人でも出たのだろうか。それにしては、騒ぎが大き過ぎる。エヒトはそのまま、廊下の声に聞き耳を立てた。

    「おい、死んでるぞ!」

    …!?聞いてしまってから、エヒトは、びくりと体を震わせた。せっかく逃げてきた“死”が、追いかけてきている気さえした。

    エヒトは思わず扉を開き、外の様子をうかがった。その“死”が、自分とは関係のないものだと、確かめたかったのかもしれない。

    廊下では、何人もの先輩兵が、階段を駆け上がっている。

    そうか。“死”があるのは、この上の階なのか。

    エヒトは部屋着のまま、先輩兵の中をかいくぐりながら、そっと階段を登っていった。

    登ったすぐ先の部屋に、人だかりが見える。

    ここか。エヒトはふと、扉に掲げられた部屋の主の名前に目をやった。

    その名前の1つが、モブリット・バーナーだったのである。

  35. 40 : : 2017/10/15(日) 21:25:34
    部屋の前には多少の人だかりができていたものの、エヒトは少し背伸びをするだけで、中の様子を垣間見る事ができた。

    訓練兵団に入り、月日を重ねるにつれて、エヒトの体は劇的に成長していたのである。

    中の様子が明らかになると、エヒトの胸はドキリと縮み上がった。

    床に敷かれたシーツの先から、足が見える。裸足だった。その指先が2度と動く事は、無いだろう。人が、死んでいるのだ。

    その傍らに、じっと佇む人物がいた。エヒトはその人物の名前を知らなかった。ただ、同期ではないだろうと思った。見覚えの無い顔だったからだ。

    男性にしては細身の体で、髪を真ん中に分けた、見るからに人の善さそうな青年だった。この部屋の住人だろうか。

    だとしたら、はて、どっちだろう。扉に貼られた名前の、どちらの人物なのだろう。

    その疑問は、すぐに解決した。

    「…では、この事は団長に報告しておく。いいな、モブリット」

    部屋に入ってくるなり、そう声をかけた先輩兵士がいたのだ。

    モブリット…モブリット・バーナーか。エヒトは扉に貼られた名前を思い出し、改めて、死体のそばに佇む彼を見た。

    モブリットはまるで石膏のように、動く事なく、死体を見つめていた。その表情は悲しみに溢れていた。それほどまでに、目の前に横たえられた同室の兵士とは、親しい関係だったのか。それとも。

    「おいモブリット、聞いているのか!?」

    先輩兵士が声を荒げると、モブリットはビクリと体を震わせ、ようやく顔を上げた。

    「聞いているのかと、言っているんだ」

    先輩兵士は、少し声を落ち着かせ、再度モブリットに問う。

    モブリットは、わずかにはい、とも聞きとれる声を発した後、ようやく我に返ったのか、慌てた様子で先輩兵士に向き直った。

    「あっ…は、はい…す、すみません、ぼうっとしてまして…」

    先輩兵士は、ふうと息をついた。

    「同室者がこんなことになって、動揺する気持ちは分かるが…気を引き締めろ。お前も、兵士だろ」

    「は、はいっ!」

    モブリットの返事を合図にしたかのように、担架が到着し、死体はどこかへ運ばれていった。

    それを機に、部屋の周りにいた人々は、1人、また1人と自室へ戻っていく。

    エヒトもそれに倣い、きびすを返そうとした時、ふと誰かの視線を感じた。

    ハンジ・ゾエだった。

    ハンジはエヒトと目が合ったかと思うと、ふっと目をそらし、暗い廊下の奥へと姿を消していった。その様子はどこか、慌てているようにもみえた。

    するとまた、背後に視線を感じた。振り替えると、先ほどまで部屋の中にいたモブリットが、廊下に出て、エヒトと同様に、ハンジが消えた廊下の先を見つめている。

    まるでその先が、決してたどり着く事のできない、別世界であるかのように。
  36. 41 : : 2017/10/22(日) 21:12:19
    エヒトの回想を絶ち切るように、怒号や悲鳴が耳をつんざく。

    「モブリット!!!」

    ハンジがそう呼び掛けると、すぐさま1匹の馬が近づいて来る。そこには、何か縄のような物を持ったモブリットが乗っていた。

    「小さいのを狙うよ」

    見ると、10m級の巨人の足元に、2、3m級の巨人がいる。奴の事だろう。

    ハンジの隣に並走するかたちをとったモブリットは、おずおずと口を開く。

    「ハンジさん、その…この新兵が囮に…?」

    エヒトは思わず、心臓が縮み上がった。あの日、モブリットの部屋で死体を見た時のように。

    「いいや。そんな事はしないよ。せっかく私に協力しようとしてくれたんだし」

    はっきりと、ハンジは言った。おや、とエヒトは思った。ウワサによれば、ハンジは仲間の命などかえりみず、目的を遂行しようとする人物のはずだが。

    「エヒトくん!」

    「は…はい!」

    「君は、私とモブリットの援護をしてくれ!ただし、あの子は殺さないでくれよ…生きたまま壁の中へ連れて帰るんだからね」

    そう言って巨人を見つめるハンジの目は、まるで旧知の友でも誘うかのように、親しみすらこもっていた。

    エヒトは改めて、ハンジ・ゾエという人物を不思議に思うと同時に、これは無謀な賭けなのだと痛感した。

    今、巨人を捕獲しようとしているのは、新兵の自分を含む3人。他の兵士は、自分や仲間の命を守るため、必死に巨人を倒そうとしているのだ。

    この瞬間も10m級が1体、討伐されている。

    自分たちは、所詮組織で動いている。そんな中で、周りの反対を押しきってまで巨人を捕獲する意味とは、何なのだろう。

    「よしモブリット、縄を…あっ!!!」

    ハンジの悲鳴にも似た叫び声と共に、捕獲対象にしていた巨人が、他の兵士によって倒されてしまった。

    周りを見る限り、もう他の巨人の姿を確認することはできない。ハンジの策略は、失敗に終わったのだ。

    ハンジは倒された巨人の前で馬を止め、みるみるうちに蒸発していく姿を、呆然と見つめていた。

    「…ねぇ…」

    巨人の屍を前に、ハンジはポツリと言った。

    「ねぇ…君たちは…どこから来るの…」





    「ねぇ…どうして消えていくの…」





    「どうして…ねぇ…どうし…て…」

    …ハンジの問いかけから逃れるように、蒸気となった巨人の体は、まだ見ぬ空の向こうへと、消えてゆくのだった。
  37. 42 : : 2017/10/29(日) 21:13:36
    「…うん…そうだね、勝手な行動だったと思うよ…え?…はいはい、悪い子にはお仕置きしなきゃ、だもんね…うん?…エヒト…ヴォール…知らないな、そんな人…隊列を離れた?ははは、私たちは、壁外にいたんだよ、みんながみんな、冷静でいられるわけがないだろう」





    「…とにかく、そんな新兵なんか知らない。罰を受けるのは、私とモブリットの2人だけだ…異論は、ないよね」

    ギィ…

    …ガチャン。

    壁の中へ戻って程なくしてハンジとモブリットは、許可無く隊列を離れ、著しく規律を乱す行動をとったとして、懲罰を受ける事となった。

    エヒトも1度は糾弾されたものの、首謀者であるハンジが、エヒトとの関わりを頑なに否定したため、厳重注意のみにとどまった。

    ハンジとモブリットはしばらくの間、地下牢へと幽閉される事となった。

    エヒトは少し迷った末、彼らのいる地下牢へと、足を踏み入れるのだった。
  38. 43 : : 2017/11/05(日) 21:40:47
    簡素な椅子に腰かけたまま、ハンジはうなだれていた。

    それはまるで、途方もなく長い戦いの末傷ついた、兵士のようだった。隣の牢にはモブリットがおり、心配そうな視線をハンジに向けている。

    「…あの…」

    エヒトはそう言ってから、初めてハンジに何と声をかけたら良いか迷った。なぜここへ来たのか。理由も分からないまま、気づけばここに立っていた。

    「やあ…君か」

    ハンジは顔を上げた。少し驚いた様子で目を見開いたものの、すぐに力無く微笑んだ。そうする他、何もできないよ、とでも言うように。

    「あの…」

    エヒトは考えた。

    「大丈夫…ですか」

    ハンジは下を向いた。

    「大丈夫…だよ」

    うっすらと埃の積もった、誰が付けたとも知れないキズだらけの床を見つめたまま、ハンジは言った。

    「ごめんね。君にも、ずいぶんと迷惑をかけてしまって」

    「いえ…そんなこと…」

    ハンジが庇い立てしてくれたおかげで、エヒトは今、冷たい鉄格子の外にいる。

    「あの…」

    言わなければ、と、エヒトは自分をふるい立たせた。

    「ありがとう…ございます。あなたが僕を庇ってくれたお陰で…僕は懲罰を受けずに済んだ…」

    そんなエヒトの言葉に、ハンジはキョトン、とした顔でエヒトを見上げた。

    「ありがとうって…それを伝えるために、わざわざここへ…?」

    「はい」

    本当は理由など判然としなかったのだが、エヒトはとっさにうなずいた。

    「ふふ…ははは…」

    ハンジは笑った。力無く、ほんのわずかな間だったが、暗い地下牢に、その声はよく響いた。

    「君は…優しいね」

    「僕が、ですか」

    ハンジはうなずいた。

    「モブリットと一緒だ」

    エヒトは反射的にモブリットを見た。

    モブリットはじっと床を見つめていた。どこかに自分が口にすべき言葉が隠されているのではないかと、じっと探し求めているかのようだった。

    だが、そんなものはどこにもあるはずがなく、モブリットは悲しげな表情のまま顔を上げ、エヒトを見た。

    「エヒトくん…だったね」

    「はい…」

    モブリットは、ひとつ、深いため息をついた。

    「帰ってくれないか」

  39. 44 : : 2017/11/12(日) 21:27:06
    硬く、石のように冷たい声だった。それは努めてそう聞こえるように発しているようにも思えた。普段は温厚そうな彼には、似つかわしくない声だった。

    「これは、君が関わる事じゃない」

    そして、モブリットは言った。

    「誰も、関わる事じゃ…ないんだ」

    まるで、物語の最後を締めくくるかのようだった。とてつもない程に長く、悲しい物語を。

    「…モブリットさん」

    エヒトは言った。

    「うん?」

    「僕は…あなたを以前から知っていました」

    「そりゃあ、同じ兵団だからね。顔くらい知っていても、おかしくないんじゃないかな」

    ごまかそうとしている様子は見受けられなかった。

    「いいえ。そうじゃありません」

    「えっ、それじゃあ…」

    「モブリットさんは、以前同室の仲間を亡くしていますよね。それも、自分たちの部屋の中で」

    その言葉に、モブリットは明らかにビクリと反応を示した。いっぽうハンジは、椅子に座ったまま手を組み合わせ、じっと目を閉じ、エヒトの言葉を待っている。

    「そして、その現場には…」

    エヒトは、ゆっくりとハンジの方を見た。

    「ハンジさんがいた」

    ハンジは動じなかった。こうなる事が分かっていて、分かりきっていて、疲れ果ててしまったかのように、ぐったりとうなだれて、動かない。

    エヒトは続けた。

    「それで…僕は思ったんです…あの日の出来事には、お2人が…その…関わっていたんじゃないかと…」

    モブリットはハンジを見た。相変わらず、心配そうな視線を、ただ1人に対して向け続けていた。

    「…エヒトくん」

    目を閉じうつむいたまま、ハンジは口を開いた。

    「はい」

    「君は鋭いね」

    ハンジは、上目遣いでエヒトを見た。その表情からは、疲労の色がみえる。

    そして、ハンジは言った。

    「エヒトくん…実はね、モブリットと同じ部屋にいた彼を…死なせたのは、私…」

    「ちがう!」

    モブリットが叫ぶ。

    「ちがう!俺が…俺が…その…」

    ハンジは、やれやれといった調子で肩をすくめた。そして大きく息をついた後

    「あの日…死んでいった彼はね、こう言ったんだよ」

    ハンジの表情が、疲労から悲しみに変わった。

    「…死なせてくれって。自分を…殺してくれ…ってね」

    残酷ともいえる世界を象徴するかのようなその言葉に、エヒトは、思わず息をのんだ。



  40. 45 : : 2017/11/19(日) 21:30:10
    人は絶望する。

    しかしそれは、夢や希望といった光のもとに、影のように存在するものである。

    光が眩しければ眩しいほど、その絶望は色濃く、深いものなのかもしれない。

    「…モブリット」

    彼のその声は、聞き取れない程にかすれていたそうだ。

    モブリットは、彼と共に過ごした居室に佇み、彼と対峙していた。

    普段は同じ位の背丈であるはずの彼を、今モブリットは見上げている。

    彼は、部屋に備え付けの古びた椅子の上に立っていた。天井から釣り下げられた縄に、首をくくりつけたままで。

    ーこの椅子を、蹴ってくれ。

    この様な意味の言葉を、彼は放ったと、モブリットは記憶している。

    だが、そんなことができるはずもなく、モブリットは、ただ彼を見上げていた。

    彼には、夢があった。

    巨人をこの世から全滅させ、人類が未知とも言える規模の領土を取り戻す。そして、愛する人と共に生きる…彼女も、同じ志を持った兵士だった。

    しかし、その夢は脆くも崩れ去った。

    その日は、壁外調査だった。当然、壁の外は巨人の領土だった。

    巨人の手の中で苦しみ、泣き叫ぶ彼女を前にして彼は…

    逃げた。

    目の前で仲間が巨人に喰われる事は、初めてではなかった。しかし、そんな時も彼は、逃げることなく戦い続けた。

    それは、まだ彼の中に、希望という名の2文字が、残されていたからだった。

    自分は、あいつらとは違う。あんな風に死ぬわけがない。あんな風に涙と鼻水で顔を汚しながら、お母さんだとかお父さんだとか叫びながら、骨をじわじわと砕かれ悲鳴を上げながら、ボロボロになったブレードの刃を巨人の手に叩きつけながら、死んでゆくはずがない。

    それは、愛する人だって同じだ。そうだ、ああなるはずが…ない。

    だが、彼は失った。そして、どうすることもできない混乱と、絶望に犯され、逃げた。

    そして、のうのうと生きて戻った。

    空が、夕闇から逃れることができないように、彼の心に、絶望と言う名の闇が、押し寄せてきた。

    コンコン。

    「こんばんは~」

    唐突に扉がノックされ、モブリットも彼も、思わず扉の方を見た。

    「モブリットくん…だっけ?私さあ、君の帳面を間違えて持ち帰っちゃってさ~、開けても、良いよね…」

    モブリットの返事も待たぬまま、訪問者は扉を開けた。

    「やあ、こんばん……は…」

    そして、その光景を目にした。
  41. 46 : : 2017/11/26(日) 22:05:03
    友好的ともとれる笑顔を形どったまま、ハンジは彼の姿をその瞳に映すと、その表情をきゅっと引き締めた。

    まるで、果たさねばならない使命が、かたちとなって目の前に現れたかのように。

    「…何してるの」

    彼から視線を外すことなく、ハンジは尋ねる。

    「…」

    彼は答えない。モブリットも、何も言えず立ち尽くしている。

    ハンジは深いため息のあと、そっと後ろ手で扉を閉めた。

    「そんなことをしてたら、危ないよ」

    ハンジは、彼に手を差しのべた。

    「さ、降りておいで」

    しかし、彼は首に縄を巻いたまま、動かない。

    「…その縄でブランコ遊びをするのなら、私は止めないけど…」

    「…」

    「でもさすがにその縄の使い方は…まずいと思うんだよね」

    「…」

    「君に何があったのか…想像するのもおこがまし」「…えに…」

    震える声だった。

    「えっ、何?」

    「お前に何が分かるんだよぉぉぉっ!!!」

    それは、叫びだった。

    「お前は巨人が好きなんだろニンゲンなんかよりもずっと喰われろよお前がのうのうと生きやがってなんでお前が死なないなぜお前が喰われないなぜっなんでっなんでだっ…うう…」

    その先は言葉にならなかった。彼はひたすら泣いていた。

    「おい…もう…」

    モブリットは、ようやく口を開いたものの、取り乱し続ける彼を前にして、なすすべを失っていた。

    「ううっ…ぐっ…」

    彼の嗚咽が響くなか、ハンジは、ポツリと言った。

    「…ごめんね…」

    それは、悲しい言葉だった。

    「ごめんね…私…生きちゃっててさ…」

    決して皮肉を言っているわけでもなく、本当に本当に、どうしようもなくて、ようやく発した言葉がそれだった。

    その言葉が彼の心にどう届いたのかは、今となっては分からない。

    ただ、彼は泣くことを止め、ハンジへと、こう問いかけた。

    「ハンジさん…巨人は…どこから来るのですか」

    「…」

    「どうして…人間を喰うのですか」

    「…」

    「どうすれば…全ての巨人を倒すことができるのですか」

    「…」

    「…」

    しばしの沈黙ののち、ハンジはその場に座り込み、床に頭をこすり付けた。必死に許しを乞うような仕草だった。

    「ごめん…分からない」

    その言葉に、彼は哀しげに首を振った。

    そして、ハンジはゆるゆると立ち上がると、彼の元へと歩み寄った。

    「もし…今、私が君にしてあげられることといえば…」

    ハンジは、その視線を、彼が立つ椅子へと移した。

    彼も、ハンジの言葉の意味を悟ったようだった。ゆっくりと息を吐き、静かに目を閉じる。

    それを見届けると、ハンジは、大きく足を振りかぶり…。



  42. 47 : : 2017/12/03(日) 21:18:25




    振り子のように揺れ続ける彼を前にして、ハンジはひたすら床に頭をこすり付けた。

    そこから発する声は、もはや言葉にならなかった。

    「…ハンジさん」

    自分の名を呼ぶ声に顔を上げると、そこに立っていたのは、モブリット・バーナーだった。

    モブリットは、言った。

    「俺は上官に報告します」

    ハンジは、そこ言葉の意味を理解し、そして覚悟を決めた。自死を望んでいたとはいえ、彼を死に至らせたのは…。

    「俺は、上官にこう報告します…俺が部屋に戻った時には、彼は、すでに自死していた、と」

    そして、モブリットはこう締めくくった。

    「そして…部屋には彼以外に、誰もいなかった、と」

    「…モブリット…くん…それって…」

    それは結果として、虚偽の報告をすることになる。事実の隠蔽だ。もしバレたりすれば、モブリットとて、ただでは済まない。

    ハンジは困惑した。

    「どうしてそんなことを言うのさ…私が…私が彼を…」

    「それは俺も同じです」

    モブリットは、揺れが治まりかけてきた彼を見上げ、言った。

    「俺は何も出来なかった。やろうと思えば、あいつを無理矢理にでも引きずり降ろすことだってできたのに、しなかった。それどころか…」

    今度は、ハンジの方を見た。

    「あなたが…どうにかしてくれるだろうと…ただ、待っていた」

    「…そんな…私…なんかに…」

    私に何ができたと言うのだろう。ただがむしゃらに、真実を追い求め、ことごとく空回りに終わっている、自分に。

    「ハンジさん。人が集まって来る前に、早くここから出てください」

    「私を…逃がそうって言うのかい?」

    モブリットは笑った。ほんの一瞬…疲れきった笑みを。

    「あなたは、ここにいてはいけません。あいつの…最期の質問の答えを、見つけなければ…」

    巨人はどこから来るのか。どうすれば、人類は巨人から奪われた世界を、取り戻せるのか。

    モブリットは、ゆっくりと歩き始めた。

    「ハンジさん…俺も、あなたに質問させてください…」

    そして、静かにその扉を開いた。

    「この世界の、真実を」

    その後、モブリットは上官に同室者が自死した事を報告した。

    「部屋に入ったら…あいつがぶら下がっていたんです…壁外調査で恋人を失ったって聞いていたので…それがショックだったんじゃないかと…」

    失われた命は、もう戻る事は無い。











  43. 48 : : 2017/12/10(日) 21:46:44
    「それから先は…エヒトくん、君が見た通りだ」

    エヒトは押し黙ったままハンジを見た。ハンジはエヒトではなく、どこか遠くを見ていた。

    「これは…」

    口を開いたのは、モブリットだった。

    「これは俺とハンジさんの…罪なんだ。だから、君が介入する事じゃない。俺はハンジさんについていく。あの日救えなかった、あいつの償いをするために」

    ハンジは苦笑した。

    「言ってくれるじゃないか、モブリット」

    「俺は本心を言ったまでですよ」

    「…ついていく…」

    エヒトはモブリットの言葉の一部を反復した。

    「モブリットさん、さしでがましいようですが、1つだけ、教えてほしい事があるんです」

    新兵からの意外な申し出に、モブリットは少し驚いた様子で

    「な、なんだい、改まって」

    「さしでがましい、なんて、舌を噛みそうな言葉を使うんだね。君、本当に新兵なのかい?」

    ハンジは愉快そうに笑い、椅子の上で器用にあぐらをかいてみせる。

    「僕は、本を読むのが好きなんです…子供の頃から」

    エヒトの返答に、ハンジは、なんだあ、と何度もうなずいた。エヒトは再び、モブリットと向き合う。

    「モブリットさん。あなたは、ハンジさんについていく理由は…救えなかった同期への罪滅ぼしだと言いましたよね」

    「ああ、確かにそう言ったよ」

    果たして何を言われるものかと、モブリットは思想を巡らせたものの、見当もつかず、キョトンとした表情になった。

    その顔は、実年齢よりもひどく幼くみえる。

    「僕は…それだけの理由じゃないと思うんです」

    「…どういう意味だい?」

    モブリットはますますわけが分からない、とでも言うように、眉を潜めた。



  44. 49 : : 2017/12/17(日) 22:06:20
    「それだけの理由で、ここまでの事はできないと思うんです。ハンジさんの立てる作戦は…作戦と呼べないほど無謀で、自殺行為に等しいです。巨人を捕まえるなんて、考えてみればバカらしい…正気の沙汰とは思えません。目の前に巨人が現れたら、討伐するのが先決です。そうしなければ、こっちが…死んでしまいます」

    ふと、咳こむような声が聞こえ、エヒトはハンジを見た。ハンジは苦笑しているようだった。

    エヒトは続ける。

    「それでも…モブリットさん、あなたはハンジさんについてゆくと言った」

    モブリットは何も言わない。ただ、じっとエヒトを見据えている。

    「それは…ハンジさんに、光を、希望を見いだしたんじゃないかと…僕は思うんです」

    「…きぼう…」

    モブリットは口に出してみたものの、自分たちには果てしなく遠い存在の言葉に思えた。そう、まるで壁外の世界のように。

    「僕は…初めてハンジさんに会ったのは、まだ兵士になる前の、ほんの幼い時でした。ニファとケイジと一緒に、光の花を採りに行った帰りでした。その時、僕は見たんです」

    「見たって…何を見たんだい?」

    ハンジが問う。その目は、また遠くを見ていた。

    「光です」

    「光?」

    「はい。ハンジさんのその目に、他の兵士には無い、希望の光を、僕は見たんです。この人なら、必ず自分たちを救ってくれる…この世界を」

    「くっ…はははは!」

    ハンジは笑った。おかしくて、おかしくて仕方ないとでも言うように、腹を抱えて笑い転げた。

    ハンジの意外な反応に、エヒトは戸惑った。

    「何がおかしいんですか?僕は、ただ…」

    ひとしきり笑い終えると、ハンジは、笑い過ぎて滲み出た涙を拭いながら、こう言った。

    「君は本当におもしろいね…だけど」

    このあと、エヒトはどうやって自室に戻ったのか、記憶に無かったという。

    「甘い戯れ言にこれ以上付き合ってられないね。君は…兵士じゃないよ」
  45. 50 : : 2017/12/24(日) 21:46:38
    いつの頃からか、エヒトはニファと会うたびに、消毒液の匂いが鼻につくようになっていた。

    エヒトがその事にふれるたび、ニファはパタパタと体をはたきながら

    「いやだ、匂い染み付いちゃってるかな」

    と苦笑するのが常だった。彼女は今、医療班に従事しているのだという。

    「ニファが医療班ね…こりゃあケガしないように気をつけなくちゃな」

    ケイジがからかい口調でそう言い放つと

    「なによ、ケイジこそ巨人を見つけた後、信号弾打つのを忘れたりして」

    「忘れるわけねぇだろ!」

    「どうかしらねぇ」

    と言い合うのも、もはやある種の挨拶のようになっていた。

    ケイジは次回の壁外調査以降、第一班に配属される予定になっていた。

    第一班は、先任班長を筆頭に、壁外調査にて強行偵察を行い、常に隊に先行して巨人を発見し、信号弾を打ち上げる役目を負っていた。

    兵団内においては、もっとも名誉ある役を担う班なのである。

    「…すごいよな、ケイジは」

    エヒトがそう言うと、ケイジはいつも決まって、丸刈り頭をガシガシと掻きながら

    「そうか?オレ、そんなにすごいか…へへへ」

    と照れ笑いをみせていた。

    エヒトは、今度はニファに向かって

    「ニファも、新兵にしては手際も良くて、覚えも早いと、この前先輩方が誉めていたよ」

    「ほ、本当に!?よかった、あたし、認められてるんだ…」

    と、ニファは胸を撫で下ろしている。ニファは心の底から安心した時に、“私”から“あたし”に変わるのが、昔からのクセだった。

    ケイジの直情的で飾らない性格も、昔から変わっていない。

    …しかし…

    エヒトは、そんな彼らの背中に背負われた、翼を見た。それは、人類にとっての、自由の翼でもある。

    そして、思った。

    彼らは…兵士だ。

    『君は…兵士じゃないよ』

    ハンジの言葉が、エヒトの胸に深く突き刺さる。

    僕は…

    エヒトは、じっと自らの手を見つめてみる。

    僕は…ただ、あなたから光を見いだした…ただ、それだけなのに。

    その光は、絶望が渦巻くこの世界から、自分を救いだしてくれるのではないか。

    そう思っていた。

    それは間違いだったのか。

    その答えは、この先どんな書物を開いてゆけば、導き出されるのだろう。

    今のエヒトには、見当もつかなかった。
  46. 51 : : 2017/12/31(日) 21:42:46
    エヒトは、ゴーグルにこびり付いた汗をそのままに、ブレードを握りしめた。

    『私は、明日も生きていたい。だから、やるべきことがあるの』

    エヒトが幼い頃に読んだ物語の一説が、ふと、脳裏に過った。

    物語の少女は、生きたいと願っていた。生きて、自由を手にしたいと。そしてそれは、エヒトも同じだった。

    「どうしたエヒト、ぼうっとするなよ」

    隣に立つケイジが、怪訝そうにエヒトを見つめている。

    「訓練だからって気を抜くなよ」

    「ああ…そうだな」

    エヒトとケイジは、前にも増して懸命に訓練を重ねていた。ケイジは次回の壁外調査で、第一班の一員として成果を挙げるためだ。

    「エヒトも最近自主訓練することが増えたよな、マジで…何かあったのか?」

    「…いや、何も無いけど…」

    エヒトはゴーグルを外し、レンズに付いた汗を拭った。

    「強いて言うなら、兵士になるため、かな」

    「はあ!?」

    ケイジは、エヒトはついに頭がおかしくなってしまったのではないかと、半ば本気で思ってしまったらしく、かなり慌てた。

    「おま、兵士っておま、なってんだろおい…俺たち訓練兵団に入って…ん?こりゃひょっとして、夢か!?」

    「ケ、ケイジ…」

    「夢か!?夢なのか~!?」

    ケイジは両手で、自らの頬をつねり始めた。今度は、エヒトが慌てる番だ。

    「おいケイジやめろよ!これは夢じゃない、現実だ!僕はただ、兵士としての実力を伸ばすために、訓練を重ねているだけだ…おい、頬っぺた赤くなってるじゃないか、まったく…」

    エヒトの言葉で我に返ったのか、ケイジは痛そうに頬をさすり始めた。

    「痛ちちち…うわ、ヒリヒリしてきた…」

    「ニファの所へ行って、軟膏でももらってきたらどうだ?」

    「な、何て言って…?」

    夢かどうかを確かめようとしてケガをした、とは言いにくい。

    「虫に刺されたとか…理由はどうとでもなるだろ。早く行ったほうが良いぞ。左側、血が出てる」

    ケイジは、うわっと飛び上がると、そのままニファのいる医療班の元へと駆けて行く。エヒトは、その背中に向かって

    「ケイジ!」

    「ん~?」

    「変な事を言って…悪かったよ」

    ケイジは笑…おうとして、頬の痛みに気づき、顔をひきつらせながら

    「いいって!ただ、最近エヒト、元気無かったからよ!心配してたんだ、マジで!」

    ケイジはそう言い残すと、エヒトに背を向け、駆けて行った。

    エヒトは、ふと心が痛んだ。

    ケイジは昔から後腐れの無い性格であり、次に会う時は、先ほどの出来事など忘れてしまっているだろう。

    しかし、自分が知らず知らずのうちに、仲間に心配をかけてしまっていたとは、気づきもしなかった。

    もしかしたら、ニファも、ケイジと同じように、心配してくれているのかもしれない。

    その原因は分かっている…ハンジの、あの言葉だった。

    僕は、兵士になりきれていない。

    では、どうすれば良い?

    『すべては、明日が教えてくれる。そう思うの」

    物語の中の、少女の言葉だ。

    明日…生きていなければ、たどり着くことのできないもの。

    そして生きるには…強くならなくてはいけない。

    エヒトは再び、立体機動装置を駆使し、空へと舞い上がった。

    僕は、兵士になる…。



  47. 52 : : 2018/01/07(日) 22:00:19
    ニファは夢をみていた。しかしそれは、遠い昔の記憶でもあった。

    それは、消えない記憶として残されていた。

    1人泣き崩れる年老いた女性。それを呆然と見つめる幼子。

    …ああ、あれは、私。泣いているのは、私のおばあちゃんだ。

    おばあちゃんは、いつも明るく笑っていた。どんなに悲しいことがあっても、私が泣いている時も、泣くんじゃないよ、と、笑って慰めてくれた。

    そんなおばあちゃんが、泣いている。そしてその理由を、私は知っている。

    おばあちゃんの息子が死んだから。そしてそれは、私のお父さんが、死んだということだった。

    だけどその時、私は泣かなかった。それは、私が強かったからではなく、目の前で起きている出来事が、現実のものとは思えなかったから。そう、まるで何かの物語を読んでいるかのような。

    だけど、お父さんは帰って来なかった。どれだけ待っても。

    そしていつの間にか、お父さんの名前が刻まれた石が、同じような石の列の中に並べられていた。

    私は、石の前に花を供えているおばあちゃんに、こう尋ねた。

    『お父さんは…どこへ行ったの』

    すると、おばあちゃんは泣きはらした顔を上げて、答えた。

    『あの子はね…壁の外へ、行ったんだよ…』

    壁の…そ

    ドンドンドン!!!

    「ニファ!!!」

    扉を叩く音で、ニファははっと目覚めた。

    「ニファ、いつまで寝ているの!?もうすぐ会議が始まるよ!」

    同じ医療班に所属する、先輩兵士の声だった。

    「ご、ごめ…いや、すみません!すぐに向かいます!」

    ニファはベットから滑り降りた。

    …ガタン。

    窓ガラスが、音を立てて揺れている。今日は風が強いらしい。

    その風は、壁外から来たものなのだろうか。

    窓を開けて風を感じたかったが、時間がそれを許さない。

    ニファはすぐさま兵服に着替え始める。

    お父さん…私、兵士になったよ。

    壁の外へ、行くために。
  48. 53 : : 2018/01/14(日) 21:29:53
    ケイジは、痛む腕を忌々しげにさすり続けていた。

    自分でも、無茶をしている事は理解していた。訓練にあまりにも時間を費やした歪み、とでも言うのだろうか。とにかく、次の壁外調査までには完治しなくては。

    ケイジが追い求めているのは、強さだった。強くなければ、成し得ない事がある。

    守る。ただ、それだけ。

    ケイジは、向かい側のベッドで横になっているエヒトに視線を移した。

    エヒト…そして、ニファ。

    自分は2人に出会い、そして変わった。うまく言葉に表せないが、人の心の温かさに、触れる事ができたのだと思う。

    幼い頃。

    朝から酒びたりで、自分に暴力を振るっていた父親。外で愛人を作り、ほとんど家に帰らなかった母親。

    寂しかった。その寂しさから逃れるように、ケイジは外に出た。外に出れば、共遊びの相手になる子供は、いくらでもいた。

    しかし、夕焼けとともに、彼らは家に帰ってゆく。温かい、家に。

    ケイジは寂しかった。そして、いつしかこう思うようになっていた。

    壁の向こうにいるという、巨人。そいつらがいっそ、全部壊してしまえばいいのに。

    こんな世界なんていらない。こんな、寂しい世界なんて。

    ケイジが、エヒトとニファに出会ったのは、そんな頃だった。

    …ありがとな。

    ケイジは幾度となく、友の背中にそう呟いた…決して聞こえてはいないけれど。

    お前らに出会って、俺は変わる事ができた。

    家を飛び出し、兵士になって、たくさんの仲間ができた。

    人は温かい。そんな幸せが、この壁の中に、ささやかな灯火となって生き続けている。

    守ってやる。絶対に。

    俺は…兵士になったのだから。

  49. 54 : : 2018/01/21(日) 21:51:27
    揺れている。

    俺のなかで、あいつはまだ、縄に吊るされたまま、揺れ続けていた。

    『お前はどうして、調査兵団に入ったんだ?』

    同室になって初めて迎えた夜に、あいつは俺にそう問うてきた。

    『どうしてって…君は、どうなんだい?』

    俺が問い返すと、あいつは瞳を輝かせながら、切々と自分の意志だとか希望だとか、そんなものを語ってくれた事を覚えている。それがどんな内容だったのかは、あまり記憶に無いのだが。

    そして改めて、問われた。

    『お前はどうして、調査兵団に入ろうと決めたんだ、モブリット』

    俺はなんとかその場をごまかそうとした。しかし、あいつは譲らなかった。根負けした俺は、正直に答えた。

    『…葉っぱ』

    『…は…なんだ?よく聞こえなかった』

    『…葉っぱで決めた』

    嘘ではない。あの日、俺は可でも不可でもない成績で訓練兵団を修了し、所属兵課を決めなければならなかった。

    だけど、誰も決めてくれなかった。その時だけは。いつも、いつも誰かが決めてくれていたのに。

    今までの俺は、何をするにも誰かが決めた選択を選び続けていた。そしてその選択を疑った事など1度たりともなかった。

    どんなおもちゃで遊ぶのか。どの服を着れば良いのか。町で職を見つけるのか、訓練兵になるのか…。

    どうしよう。俺は迷った。お前はこっちに行けば良いんだよと、誰も言ってくれない。皆、自分の事で精一杯だ。

    どうしよう。

    その時、俺の目の前に、1枚の葉が、はらりと舞い落ちた。

    俺は何気なく、その葉を手に取った。そしてその葉脈を、そっと撫でてみた。幾重にも走る葉脈を見て、俺は思いついた。

    この葉先から、1筋だけ決めてその脈を辿る。付け根までたどり着く事なく途切れてしまったら、俺は、駐屯兵団へ行こう。

    もし、途切れる事なくたどり着いたのなら…。

    そう語る俺の姿を、まるで異質なものを見るような目でみつめていた、あいつの足が、揺れている。小便の滴を垂らしながら。

    そうなる事を望んだのは、誰だ。そう決めたのは、誰だ。

    俺は今日も、兵士になっている。

    そう決めたのは、誰だ。
  50. 55 : : 2018/01/28(日) 22:46:21
    壁外の風に色を付けるとしたら、それは鮮血の赤だと、エヒトはいつの頃からか、そう思うようになっていた。

    いったい、何人の兵士が犠牲になったのだろう。数えていないが、おそらく、両手両足を用いても数えきれないだろう。

    エヒトは再び壁外調査に参加していた。しかし、今回はいつにも増して状況は厳しさを極めていた。

    奇行種の襲撃によって、いくつもの班が壊滅した。エヒトは辛うじて繋ぎ留められた自らの命に震え上がりながらも、友の身を案じていた。

    ニファは医療班にいる。おそらく、荷馬車護衛班にいる自分よりも後方にいるだろう。まず、大丈夫だろう。きっと。

    エヒトは、第一班にいるケイジの身を案じた。

    『俺が真っ先に巨人を見つけて、ぶっ倒しておいてやる』

    壁外調査の前、そう親指を立てていたケイジの顔が、脳裏に焼きついて離れない。

    ケイジ…まさか。

    時おり視線に入る兵士“だった”残骸を見送りながら、エヒトはただひたすら、友の無事を祈った。

    そして、ふと気づいた。何かが来る…巨人ではない。

    2頭の馬だった。それぞれ兵士が乗っている。

    それはだんだんとエヒトの前まで近づいて来る。目を凝らして見ると、1人はケイジのようだった。ケイジは生きていたのだ。

    エヒトは安堵した。

    だが、ケイジの隣で馬にまたがる兵士の姿を目の当たりにした時、エヒトは思わず、目を疑った。

    しかし、それは現実だった。
  51. 56 : : 2018/02/04(日) 22:35:30
    ケイジの隣で馬にまたがる人物が誰なのか、エヒトには分からなかった。

    なぜなら、その顔が…いや正確には、胸から上の部分が無かった。おそらく、巨人に喰われたのだろう。

    「ケ…イジ…」

    ケイジは確かに、こちらへ向かって来る…屍を引き連れたままで。

    エヒトは馬を進め、ケイジの元へと近づいた。ケイジの目を見る…ダメだ、焦点が合っていない。

    「おい、ケイジ!」

    エヒトはケイジの隣に馬を寄せ、耳元で怒鳴りつけた。壁外で正気を失ってしまっては…巨人の餌食になるだけだ!

    「ケイジ!おい聞いているのか!!!」

    その時だった。ぐらり、と鈍い音がしたかと思うと、隣の屍が、馬から地へと落ちた。誰のものとも分からない、血に染まった自由の翼を遺して、落ちた。

    「…」

    エヒトはギリギリのところで、正気を保っていた。ここで死ぬわけには、いかない。それは、ケイジとて同じのはずだ。

    「ケイジ!!!頼む、目を覚ましてくれ!!!」

    するとケイジは、ゆっくりとエヒトに顔を向けた。しかし、まだ目に光は灯っていない。

    「エ…ヒト…」

    「ケイジ!すぐに本隊と合流するぞ。信煙弾が見えたんだ!」

    「…れ…した…」

    「ケイジ!」

    「…おれ…」

    その時だった。

    ズシ…ズシ…

    重々しい音が、地響きと共に近づいて来る。

    …巨人だ。

    エヒトは、自分の目の前がグラグラと揺れ、真っ暗になってゆくのを感じた。自分1人で逃げるか…いや、そんな事できない!

    「エヒト!!!」

    誰かが、馬で駆けて近づいて来る。

    「ニファ!!!」

    「エヒト、何してるの!?早く逃げないと!」

    「ケイジが…ケイジが動けないんだ!」

    ニファはケイジの目の前まで来ると、傍らにある屍に、少し顔を引きつらせた後

    「ケイジ…ちょっと!?」

    ケイジの身に何が起きたのか、今は想像している余裕は無かった。ただ、ケイジはまだ生きている。生き延びる可能性は、まだ残されている。

    「ニファ…僕があの巨人を引きつける。その間に、ケイジと逃げ」「何言ってるのよ!?」

    ニファも取り乱しているようだった。額に流血の跡がみえる。彼女もまた、想像を絶する死地を、くぐり抜けてきたのだろう。

    「もう…もう、誰も死んでほしくなんかない…だからそんな…」

    「ニファ!そんな事を言ってる場合じゃない、早く逃げろ!!!」

    もう、巨人はエヒトたちに狙いを定めているようだった。ニヤニヤと、その手を伸ばしてくる。

    その時だった。巨人の背後に影が走ったかと思うと、そのまま、巨人はその巨体を、ぐらりと地へと倒してゆく。

    「な…何が…起こったんだ…」



  52. 57 : : 2018/02/11(日) 22:44:17
    徐々に蒸気を発しながら朽ちてゆく巨人の死体を背に、その影は無駄な動きを一切することなく、エヒトたちの前に舞い降りた。

    「君たち…何をしているんだい」

    その低くもよく通る声は、怒気を孕んでいるようにも聞こえた。ただ、その声を発している人物の表情は、身につけたゴーグルが陽の光に反射して、うかがい知ることはできなかった。

    「ハンジ…さん…?」

    驚くエヒトとニファを一瞥し、ハンジは問う。

    「どうしたの。君たち、所属している班もバラバラだよね?」

    「あの…ケイジが…」

    「ケイジがどうかしたの?」

    「ど、どんなに呼び掛けても、応えてくれないんです!!!彼は…まだ生きているのに」

    ニファの必死の訴えに、ハンジはまっすぐケイジの前に向き合った。

    「ケイジ」

    「…」

    返答が無い。ハンジは、すぐ横に倒れている兵士の亡骸に視線を移し、その表情を歪ませた。まるで、何かの痛みに耐えるかのように。

    「…だ…」

    「…え?」

    「もう…いやだぁぁぁぁぁっ!!!」

    それは、叫びだった。ケイジは、血を吐くほどに、叫び始めていた。

    「もういやだ!!!何でだよ…何でこんな…し、みんな…死んで…こんなの、もう…」

    ひとしきり叫び終えると、ケイジは激しく肩で呼吸し始めた。流れ落ちる涙や鼻水を、拭う余裕は無かった。

    …沈黙が、辺りを包んだ。どうやら、近くに巨人はいないようだ。

    「…そっか」

    沈黙を破ったのは、ハンジだった。

    その場に似つかわしくない軽い口調に、エヒトもニファも、戸惑うしかない。

    「それじゃあ、仕方ないね…」

    ハンジは、戸惑うエヒトたちに構うことなく、ゆっくりとした手つきで、ブレードを引き抜いた。

    「ケイジ。君に選択肢をあげよう」

    意外な提案に、ケイジも思わずハンジを見る。

    「1つは、その涙と鼻水を拭いて、また兵士として生き残り、壁の中へ還る。もう1つは…」

    ハンジは、手元のブレードをかざしてみせる。

    「ここで…私に殺されるか…」

    皆、一瞬耳を疑ったものの、ハンジの鈍い光を放った瞳と、その表情から、それが決して冗談ではないことを、悟ったのだった。

  53. 58 : : 2018/02/18(日) 22:36:34
    「言っておくけど、君の首をはねる事くらい、簡単にできるよ。人を殺した事は…初めてではないからね」

    その言葉に嘘偽りが無い事を知っているのは、エヒトのみであった。

    「ハンジさん、何バカな事言ってるんですか!?ケイジの意識は戻ったんですよ!!!早く、本隊に合流しましょう!!!」

    声がかすれるのも構わず、ニファはそう叫び訴えた。しかし、ハンジはニファに一瞥もくれる事なく、ケイジを見据えている。

    その時、エヒトは、ぞくりとした。心の底から冷たい何かが競り上がってくる思いだった。

    おそらく、ハンジ・ゾエは、その気になれば躊躇う事なく、ケイジを手にかけるだろう。そして、何事もなかったかのように、本隊に合流するだろう。その冷酷とも受け取れる判断は、新兵であるエヒトたちを震え上げさせるのには、充分過ぎるものであった。

    しかし、と、エヒトは思い直した。もし…もし、今の精神状態でケイジが生きて本隊に合流を試みたとして、果たしてうまく生き残る事ができるのか…いや、言い変えれば、このままの状態のケイジを連れたままで、自分たちは壁の中まで生きて還る事ができるのか。

    ぷんと、血の臭いがした。どこから来たのかも分からない、名も無き死の臭い。

    「…やれよ」

    絞り出すように、ケイジが言った。
  54. 59 : : 2018/02/25(日) 21:50:23
    「あんたは…そうやって何人もの仲間を死なせてきた…自分の感情が先走って、周りが見えなくなって…」

    ケイジが言っているのは、入団当初から噂されている、ハンジに対する批評の事だろう。

    巨人の事しか頭に無い、無能な上官。それを否定する事実は、現時点ではどこにも無い。

    「殺せよ!」

    ケイジが叫ぶ。ハンジ、無言。

    「殺せよ!死なせろよ!」

    ハンジ、無言。

    「俺がバカだった!俺には何も変えられなかった!何が正しくて何が間違ってるのかも…分からねぇよ!」

    答えを知らない男が放つ叫びに対し、ハンジは終始無言だった。手にする刃に反射する陽の光だけが、時の経過を静かに告げている。

    「…分からない…」

    不意に、ハンジは口を開いた。

    「分からない…本当にそうだ。それは、私だって同じ。この世界…と言っても、ほんの一部だけど…その中で分かっている事よりも、分からない事の方が、圧倒的に多い。それだけは、はっきりと分かる」

    ハンジは顔を上げた。ケイジは、思わずその目を注視した。これ以上に無い、悲しみに満ちたその目を。

    「私にはね…大切な人がいた。私の、上官だった人…こんな変わり者の私にも優しくて、仲間想いで、そして、たった1人の娘を、誰よりも愛していた人…」

    その言葉を聞き、ニファは、はっとした。ハンジの語る人物は、もしかしたら…。

    「だけど、その人はもういない。どこにもね」

    よみがえる辛い過去を耐えしのぶかのように、ニファは顔を伏せる。エヒトは、その肩にそっと手を添えた。

    ハンジは続ける。

    「その人は、巨人に…喰われたんだ。私は、巨人が憎くて堪らなかった。だから、討伐した後の巨人の頭を、思いきり蹴飛ばしてやったんだ」

    意外な事実に、エヒトもケイジも、驚きを隠せなかった。
  55. 60 : : 2018/03/04(日) 22:32:37
    「そしたら…そしたらね…軽かったんだよ、異常に。巨人の体が」

    ハンジの言葉に、エヒトが口を開く。

    「あの、ハンジさん…巨人は、体の質量に対して、重さは軽いのが特徴であると、自分は、訓練兵時代に習った記憶があるのですが…」

    「それ発見したの、たぶん私」

    ハンジは、にっこり笑ってみせた。

    「笑っちゃうよね。私が蹴っ飛ばすまで、誰も巨人の頭を蹴っ飛ばそうなんて、考えなかったんだから」

    普通考える人間など、いないだろう…そう言いたかったが、エヒトはなんとか堪えた。

    ハンジは続ける。

    「それでね、私は思ったんだ。このまま、バカ正直に正面から物事を見続けていたら、何も見えてこないって。上から下から斜めから、他人が見たら、何でそんな所からって思うような所から、見てみなきゃダメだって」

    エヒトは、次第にハンジの言葉に、真摯に耳を傾け始めていた。それは、ニファやケイジも同じだった。目の前で自らの思いを語るこの人は、もしかしたら間違っていないのではないか。

    「私、変わり者だからさ。私しかできない視点の向き方が、あるんじゃないかって、思ったんだ」

  56. 61 : : 2018/03/11(日) 22:00:02
    ハンジはここで、深く息をついた。

    「…お喋りが過ぎたね」

    そして、改めてブレードをケイジの首筋にかざし

    「さあ、どうする。死ぬの?」

    エヒトとニファは沈黙を保ちながらも、いざとなれば、上官の腕にしがみついてでも友を助けようと、身構えていた。

    「く…」

    その時ケイジは

    「へへへ…ははは…」

    笑ったのだ。ぐっと奥歯を噛み締め、何かの痛みに耐えるように顔を歪ませながら、それでも笑っていた。

    「なに…笑ってるの?」

    さすがのハンジも、この反応には戸惑った様子だった。

    ケイジはひとしきり笑い終えると、右の袖口で涙と鼻水を拭い、こう言った。

    「あんたほどじゃないが…俺も、変わり者だなって思って…」

    「君は変わってなんかいないよ。ただ…ちょっとイヤなものを見続けてきちゃったってだけで…それは他の調査兵たちにも言える事だけどね」

  57. 62 : : 2018/03/18(日) 22:09:55
    慰めのつもりで放ったハンジの言葉は、ケイジには届いていないようだった。もはや、ケイジの中で、自分が放つべき台詞は、決まっていたのだろう。

    「俺は…あんたが大嫌いだ。仲間の命よりも、自分の…興味?…を…優先させて平然としてるあんたが。何考えてるのか、さっぱり分からないあんたが。大嫌いだ…ぶん殴りたいくらいに」

    ケイジは、まっすぐにハンジを見た。

    「俺は死なない」

    「…」

    「俺は生きて、あんたが本当に理解不能な奴で、とんでもないバカな奴なのか、見極めてやるよ、マジで」

    「ケイジ!」

    弾かれたように、友のもとへ駆け寄ったのは、ニファだった。

    「あんた、何言ってるのよ。上官に向かって、バカ?嫌い?バカなのは、あんたの方でしょ、バカ!」

    「バカバカ言うな!俺だって…自分がそれなりにバカなのは、昔から自覚してるっての、マジで!」

    「だからって上官にも言うわけ!?」

    「思ったんだから、仕方ねぇだろ!」

    「…もうやめろよ、ニファもケイジも…」

    言い争う友らを、やんわりと宥めたのは、エヒトだった。
  58. 63 : : 2018/03/30(金) 20:49:28
    なだめつつも、エヒトはこの瞬間が懐かしくもあり、自分にとって無くてはならない瞬間なのだと、改めて思った。

    幼い頃。どんなに追いかけても、求めても戻る事の無い過去。

    自分が守るべき、今…。

    ズシ…

    「!?」

    ズシン…

    地響きがする。この正体は、他の何者でもなく

    「巨人が来るぞ!」

    ハンジの一声で、エヒトたちはすぐさま身構える。

    来る。地平線の広がる草原で、それはすぐに確認できた。

    「くそっ」

    ブレードを抜き、今にも立体機動に移ろうとするケイジに

    「待て。今、この状況で戦闘に入るのは不利だ。なるべく戦闘を避け、本隊に合流することを最優先にするんだ!」

    と、ハンジが言い放つ。

    ケイジは、ぐっとハンジをにらみつけたものの、ブレードを納め、手綱を握りしめた。エヒトとニファも、それに倣う。

    「行くぞ!」

    ハンジの馬のいななきを合図に、エヒトたちは、本隊に向かい、馬を走らせた。

  59. 64 : : 2018/04/08(日) 21:38:55
    駆けろ。

    その言葉のみが、風を切り裂きながら、エヒトたちの頭の中に響き続けた。

    「ハンジさん!」

    ニファが叫ぶ。

    「本隊が見えて来ました!」

    「よし。すぐに合流しよう!」

    その時だった。

    ハンジは、視界の隅に何かが映るのを感じた。

    ただ、それだけだった。

    一瞬にしてハンジの体は、巨人の手の中に収められた。

    突然の巨人の出現に、エヒトたちはもちろん、本隊で馬を走らせる古参の兵士たちも、声を上げる暇すら無かった。

    通常種よりも素早い動きと、突飛な行動から、ハンジを襲ったこの巨人は、奇行種なのかもしれない。

    普段であれば、奇行種と聞けば小躍りすらしかねないハンジであっても、今その表情は、苦痛で歪んでいる。

    「ちくしょう!放しやが…!?」

    感情に身を任せ、ハンジを救出すべく立体機動に移ろうとしたケイジは、はっとしてその手を止めた。

    ガスが無い。自身の感情に振り回されたばかりに、装備に気を回す事を怠ってしまったのだ。

    「く…そ…」

    わずかに抵抗する動きをみせるものの、ハンジの動きは、徐々に弱まっていく。そして、それを楽しむかのように、巨人はにやにやと獲物を眺めすかしながら、大きく口を開き…。

    「や…やめろーっ!!!」

    全ての物音をかき消すかのごとく、エヒトの悲痛な叫びが、荒野に響きわたった。

  60. 65 : : 2018/04/15(日) 22:19:44
    「うおぉぉぉっ!!!」

    エヒトの叫び声の後、まるで獣の雄叫びのような声を上げ、巨人に刃を放つ兵士がいた。

    うなじに刃を受けた巨人は、ぐらりと体勢を崩し、そのまま倒れた。

    「モブリッ…ト…」

    突如として巨人から解放されたハンジは、朦朧とする意識の中であっても、その兵士が誰なのか、すぐに理解できた。

    モブリットは、巨人が絶命したのを確認すると、再び馬にまたがることなく、ハンジのもとへと駆け寄った。

    エヒトやニファ、そしてケイジも、モブリットとハンジのもとへと急ぐ。

    「ハンジさん…大丈夫ですか?」

    エヒトがきくと、ハンジは大丈夫だよ、とでも言うように、微かに笑みを浮かべ、片手を挙げてみせる。

    「本隊とはまた離れてしまったようですが…もうすぐ壁に着くみたいです」

    沈みかける太陽に目を細めながら、ニファ。

    ケイジは何か言いたそうな表情で、モブリットを見ている。

    「…馬に乗れそうですか」

    あくまで冷静に、モブリットはハンジに問う。

    「あなたを抱えたまま馬に乗るのは、酷なので」

    ハンジは、ニファやエヒトの手を借りながら立ち上がると、ゆっくりと馬にまたがる。

    それを確かめると、モブリットは自らも馬に乗り、手綱を握ると、ハンジに向かって

    「…あの…」

    「…えっ、何か言った?」

    モブリットは口を開きかけたものの

    「…いえ。何でもありません。とにかく帰還しましょう」

    エヒトたちは、再び馬を走らせた。

    道中、今回の壁外出来事を締めくくるかのように、モブリットはつぶやいた。

    「あとは…壁の中へ戻ってからだなぁ…」

    幸か不幸か、そのつぶやきを耳にした様子のある人物は、1人もいなかった。







  61. 66 : : 2018/04/26(木) 22:03:13
    諦めない。

    諦めたくない。

    だって…手を伸ばしたその先には…

    自由が…

    「う…」

    微かなうめき声を上げ、ハンジはうっすらと目を開けた。

    見慣れた天井。毎日のように眺めた窓。

    間違いない。ここは壁の中…調査兵団本部だ。そこの簡易ベッドに、自分は寝かされているらしい。

    徐々に意識がはっきりとしていくなか、ふと、鼻腔をくすぐる何かに、ハンジは顔を上げた。

    「…花?」

    それは花の香りだった。兵団本部に花が飾られることは珍しくない。張りつめてばかりの日常を、少しでも和らげようとする、主に女性兵士の計らいだった。

    しかし…。

    今、ハンジの周りを包むこの花の香りは、どこか懐かしい気持ちを呼び起こさせる。

    そう、あれはずっと昔の…。

    「目が覚めましたか」

    ふと穏やかな声に思考を遮られ、ハンジは声の主を探し、視界を巡らせた。
  62. 67 : : 2018/04/29(日) 22:07:44
    備え付けの椅子に腰かけ、自分を見つめる人物が、そこにいた。

    「エ…ヒト…くん…」

    名前を呼ばれ、エヒトはにっこりと微笑んだ。顎に髭を蓄え、男性らしい体つきになってはいるものの、その表情にはあどけなさが残る。

    「兵団本部に着くなり、そのまま意識を失われて…気分はどうですか?」

    「うん…まあまあかな…」

    ハンジはそう応じながら、ベッドの中で身をよじらせた。とくに、痛みを感じる箇所は無いようだ。

    そして、改めて辺りを見回した。

    「あれ…」

    「どうしました?」

    「えっと…エヒトくん…でしょ…あと、他にも…」

    自分には、その無事を見届けなければならない人がいる。それは…

    「モブリット…ニファ…それに、ケイジは…」

    「大丈夫。3人共無事ですよ」

    エヒトの言葉に、ハンジはホッと胸を撫で下ろす。そして思う。

    誰かの無事を聞いて、こんなに安心したのは、いつ振りだろう。

    パラ…。

    紙の擦れるような音を聞き、ハンジはエヒトの膝元を注視した。

    そこには、1冊の書物があった。

    「…何読んでたの、ずいぶんボロボロみたいだけど」

    ハンジに言われ、エヒトは苦笑しつつも、書物を閉じた。

    「これは、囚われの身となった少女が、過酷な運命に見舞われながらも、自由を信じて立ち向かってゆく物語で…子供の頃から、何度も何度も読み続けていたものなんです」

    「へえ…自由を信じて立ち向かう少女、か…」

    ハンジは興味深そうに身を乗り出した。

    開け放たれた窓からは、暖かな日差しが、彼らを静かに照らし続けていた。
  63. 68 : : 2018/05/09(水) 22:03:31
    「それで…その少女はどうなったの?」

    エヒトは書物の表紙をそっと撫でながら言った。

    「…死にましたよ」

    「処刑されたの?」

    「いえ…もう少しで自由の身になれるという時に…追ってきた王の手下に殺されてしまうんです…一緒にいた仲間をかばって」

    ハンジはそれを聞き、ふと、目を伏せた。

    「そっか…それで、仲間はどうなったの?」

    「仲間は辛うじて難を逃れ、自由の地にたどり着く事ができました」

    「…少女も、きっとたどり着きたかっただろうね…空想の中での物語だけど、なんか、悲しいな…」

  64. 69 : : 2018/05/20(日) 21:38:17
    ハンジは、ここでふっと息をついた。

    「…仲間か…」

    そしてぐうっと伸びをした後、

    「あのさ、さっきから気になってたんだけど、この香り…何かの花だと思うんだけど、何の花か分かる?」

    エヒトは、少し驚いた様子で

    「花なんて、兵団本部にはよく飾られているじゃないですか。どうして今さら、そんな事聞くんですか」

    「う~ん…自分にもよく分からないんだけど、なんか…懐かしい香りなんだよね…ああ、何だったかな、この香りは!」

    ハンジは、忌々しそうに頭をかきむしり始める。

    そんな時、コンコンと、扉を叩く音が響いた。

    「…はい、どうぞ。開いてるよ」

    ハンジがそう応じると、入室してきたのは、ニファだった。手には大切そうに何かを包み込んでいる。

    「…失礼します、ハンジさん」


  65. 70 : : 2018/05/27(日) 21:27:39
    ハンジは、ニファの手中に納められているそれを、注視した。

    「それは…」

    花だった。決して大きくはないが、窓から放たれる光を精いっぱい浴びながら咲き誇るその姿は、とても光輝いてみえる。

    「さっきから香っていたのって、その花の香りだったんだ…」

    「ニファ…また採ってきたのか」

    エヒトは少し呆れた様子で、ニファに声をかける。ニファは窓から射し込む光に目を細めながら

    「だって、嬉しかったんだもの。まさか光の花が、調査兵団本部の中庭に咲いていたなんて…」

    「光の…花?」

    首をかしげるハンジに、ニファはそっと手中の花を差し出した。

    その仕草を見たとたん、ハンジの脳裏に、ある記憶がよみがえってきた。

    そうだ。私は、この花を知っている。

    その光の花のもとに集まった、あの子たちのことも。

    「私…思い出したよ」

    ハンジが口を開くと、エヒトもニファも、そろって顔を向けた。あの日よりも、ずっと成長したその姿に、ハンジは時の流れの早さを感じながらも、こう続けた。

    「君たちは以前にも、その花を私に見せてくれたよね。もう、ずっと昔のことだけど」

    その言葉に、ニファは肩をすくめながら

    「そんなに昔じゃありません。10年も経っていませんよ」

    「それでも、遠いよ。もう2度と戻らない、遠い日だよ」

    ハンジはそう締めくくると、気を取り直すように伸びをしながら

    「そういえば、ケイジはどうしたの?」

    ニファは、幼い少女のように頬をふくらませると

    「ケイジったら、一緒に来てって言ったのに、逃げちゃったんですよ」

    エヒトも椅子に座ったまま、だらんと体を伸ばし

    「あいつ…まだ意地張ってるのか…しょうがない奴だな…」

    窓からは柔らかい風が入りこみ、小さく咲き誇る光の花を、そっと揺らしてみせた。
  66. 71 : : 2018/06/03(日) 21:45:42
    その頃ケイジは、ハンジのいる部屋から離れた広間にいた。

    1人ではない。もう1人、ケイジと向き合う人物がいた。

    「ニファと一緒に行かなくてもいいのかい?」

    その穏やかな口調の主は、モブリットだった。

    「大丈夫です。俺が行かなくても、エヒトがいるので」

    後輩を優しく見つめるモブリットに対し、ケイジの表情は固いままだ。

    「あんた…いや、モブリットさんこそ…あいつ…ハンジ…さんの所へ、行かなくていいんですか」

    モブリットは、ふうっと息をついた。ため息のように。

    「そうだね…俺は行かなくちゃいけないな…」

    「1つ…質問があるんすけど…」

    敬語が不慣れな後輩に気を悪くする様子もなく、モブリットは応じる。

    「質問…俺に答えられることなら…」

    「なんで…あいつを助けたんですか」

    ふとモブリットから、笑みが消えた。

  67. 72 : : 2018/06/13(水) 20:49:27
    先輩兵士の明らかな表情の変化にも動じることなく、ケイジは続けた。

    「あいつが巨人に喰われそうになった時…モブリットさんは、命懸けで助けてた…貴重なガスや刃を使って…」

    モブリットは押し黙ったまま、人形のように表情を変えない。じっとケイジの次の言葉を待っている。

    「俺には出来ない…だってあいつは…上官だけど…巨人のことしか頭に無くて…やってることも、みんなから理解されてないのに勝手にやるし…何考えてるのか、さっぱり分からなくて…」

    数少ない語彙のなかで、ケイジは必死に自分の思いを絞り出そうとしている。そこでようやく、モブリットが口を開いた。

    「…俺もさ…」

    その声はひどく掠れていた。ケイジは、思わず顔を上げた。モブリットは続ける。

    「俺も…ハンジさんが何を考えてるのか、分かってるわけじゃない。むしろ君たちと同じように、理解し難い存在だと思っているくらいだよ。人類にとって最大の敵である巨人に、あれだけの興味を持ってるんだからね。ウワサだと、訓練兵時代は、もっと奇異な目で見られていたみたいだよ…」

    モブリットはここで言葉を切り、ふっと力無く笑ってみせた。

    「もちろん、あの人は気にもしてなかったみたいだけどね…」

    今度は、ケイジがモブリットの次の言葉を待つ番だった。

    「だけど…俺は、何となく感じるんだ…」

    外はいつの間にか日が暮れ始め、窓から射し込む光を赤く染めていた。

    「あの人は…ハンジさんは、きっと真実にたどり着くことができる人だ、と」

    「しんじ…つ…」

    「ケイジ!」

    突然背後から名前を呼ばれ、ケイジはとっさに振り向いた。

    そこには、ニファ、そしてエヒトが立っている。

    「こんな所にいたのね。捜したんだから」

    夕日に照らされた頬を緩ませながら、ニファが声をかけてくる。

    いっぽう、エヒトはケイジの向こうに佇むモブリットを見つけると、驚いた様子で目を見開いた。

    「モブリットさんもいたんですか。どうしたんですか、こんな所で2人して…」


  68. 73 : : 2018/06/21(木) 22:04:38
    ケイジは、友の方へゆっくりと振り向き、そして言った。

    「答えを、聞いていたんだ」

    「…答え?」

    「どうして…あいつを助けたのか、って」

    拙い言葉ではあったが、エヒトもニファも、その言葉の意味を理解したようだった。

    ケイジは続ける。

    「そしたら…モブリットさんは言ったんだ…あいつは…ハンジ…さんは…真実にたどり着ける人だから…だから、助けたって…」

    エヒトは、思わずモブリットを見た。以前、エヒトは自分が読み続けていた物語の主人公の姿と、ハンジの姿を重ねていた。そして、ハンジにその事を伝えると、君は兵士ではないと、一蹴されてしまった。

    もしかしたらモブリットも、ハンジの姿に、何かを見いだしているのではないか。

    エヒトは、モブリットが口を開くのを待った。

    そんなエヒトの心を汲み取るように、モブリットは言った。

    「俺は…ハンジさんに何かを求めようとは思ってないよ。そりゃ、俺だって知りたいよ。この世界の真実ってやつをさ…」

    そんな台詞を吐く彼の表情は、夕暮れの赤い光に照らされ、どこか悲しげに映るのだった。

    「誰かに頼るとか、誰かに着いていくだとか…そんな考えだと、もう通じないと思うんだ…この、残酷って言葉が羅列する世界にはね」
  69. 74 : : 2018/07/01(日) 21:29:55
    エヒトたち新兵の前でそう語る兵士は、屈強な体つきでもなければ、顔つきも温和で、兵服を着ていなければ、兵士だと気づかれることもないかもしれない。

    そんな外見にあっても、彼の瞳には、幾多の死を乗り越えてきた色があった。深い深い、闇の色。

    それは、壁外で散っていった仲間たちの死を乗り越えてきたためのものなのか。それとも。

    「私…」

    ふと、ニファが口を開いた。何かを決意したかのような、凛とした表情を浮かべ、まっすぐに前を見ている。

    「私も知りたい。この世界のこと…私たちの周りは、分からないことで溢れているんだもの…知りたい知りたい…もう知りたいことばかり!」

    ニファはたまらず、頭を左右にブンブンと振ってみせると

    「…私、ハンジさんの班に志願する。もちろん、これは私の意思。誰に着いていけば、真実にたどり着けるかなんて、分からないもの」

    これには、一同驚きを隠せなかった。

    「ニファ…何言ってんだよ、マジで」

    「そのままの意味よ。私も、モブリットさんと同じように、ハンジさんは真実にたどり着ける人かもしれないって思う。だけど、そんな風に誰かを頼ったままでは、この世界の真実にはたどり着けない…もしダメになったとき、自分が頼った誰かのせいにしてしまう…それじゃあ、いけないと思うの。自分の意思で戦い続ける…それが兵士なのよ」

    「それが…兵士」

    エヒトは、ニファの言葉を反復した。いっぽう、ケイジはニファの目を見ていた。彼女の意思を確認するかのように。

    「…そうかニファ、お前は…」

    ニファは、友であるケイジの口からどのような言葉が出るのか、思わず身を固くした。





  70. 75 : : 2018/07/08(日) 21:26:25
    「お前は…兵士になろうとしてるんだな」

    ケイジの言葉に、ニファは重々しく頷いた。その目に、迷いはなかった。

    はたから見れば、おかしな光景に映るのかもしれない。ニファもケイジもエヒトも、自由の翼を背負った兵士にしかみえない。そんな彼らが、未だ兵士になろうと、自らを奮い立てている。

    エヒトはふと、自分の手を見た。わずかだが、ブレードを手にし続けてできたであろうマメが、所どころにある。

    これは、兵士の手と言えるのだろうか。マメならば、農民の手にだってできる。職人の手にも。

    「俺も…」

    ケイジが口を開く。

    「俺も、ニファと同じだ。この世界の…真実が知りたい…それに、この世界の…人の温かさっての…それを守りたいんだ、マジで。これは、俺の意思だ。たとえニファが違う道を選んだとしても、俺の答えは変わらない」

    そして、窓から降り注ぐ光を背にして、ニファとケイジはそろってエヒトを見た。その表情に、もはや言葉はいらなかった。

    「…あ…」

    エヒトの脳裏に、幼き日の記憶がよみがえった。

    あの日。ニファとケイジと一緒に、光の花を見つけた日。

    『飛べぇ!!!エヒト!!!』

    目の前には、崖があった。飛び越えたことのないもの。怖かった。できることなら、逃げ帰ってしまいたいとさえ思った。

    でも…飛び越えたその先には、光がある。

    その光のもとに、行ってみたい。それは、エヒトが幼いながらにも抱いた、最初の意思だった。

    そしてエヒトは、その1歩を踏み出した。
  71. 76 : : 2018/07/16(月) 22:02:56
    カチャ…

    あれから何年か経った。

    …カチャ…

    人類の歴史が変わろうと…いや、自分たちが変えようとしていた。

    カチャン…

    目の前に座る、少年たちと共に。

    「…君たちにも、紅茶持ってきたよ」

    声を潜めて、モブリットは素早くエヒトたちに声をかけた。

    「すみません」

    かすれた声で、エヒトは応じた。モブリットはそれを見届けながら、丸いテーブルの上にポットを乗せたトレイを置き、ハンジと向かい合うようにして腰を下ろした。

    エヒトは目の前に座る少年たちを見た。

    自分たちよりも年下ではあるものの、彼らもまた、調査兵団の兵士だった。たしか、104期生だったと思う。

    紅茶が入ったティーカップを目の前にして、104期生たちは緊張した面持ちで、一言も発することなく座り続けていた。

    そして時おり、未だに空席となっている、入り口にもっとも近い席へ視線を移しては、すぐに目をそらす…そんな事を繰り返している。

    その空席に対峙するように腰かけている金髪の少女は、ただまっすぐに、じっと入り口を見つめ続けている。

    まるで人形のようだなと、エヒトは思った。

    ガチャ…

    扉が開き、1人の男が姿を現した。小柄ながらも屈強な肉体を持つその男は、人類最強の兵士、リヴァイだった。

    リヴァイは席に着くなり、右手で机の裏を撫で、何か呟いたようだった。エヒトの位置からは聞き取れなかったが、そのリヴァイの言葉が聞こえたらしい少年の1人が、苦痛な表情を浮かべて頭を抱えている。

    名前はたしか…エレン・イェーガー。巨人に姿を変える事ができる少年だったと、エヒトは上官から聞いている。

    巨人になれる、か。エヒトは自分を落ち着かせるように、深く息をついた。

    自分たちが今まで知り得なかった事が、明らかにならうとしている。幾つもの命を捧げてさえも、得られなかった真実が。

    エヒトは腕を組み、平静を装いながらも、その心は高ぶり続けていた。左隣に座るケイジも、ニファも、同じ気持ちなのだろう。

    その時、リヴァイが口火を切った。

    全員に緊張が走る。いよいよだ。

    エヒトはケイジと、ニファとそれぞれ目で合図を送った。来るべき時が、訪れようとしている、と。

    右隣には、ハンジがいる。ハンジの表情は、エヒトの視線からよく見えた。

    そしてハンジのその顔には、自分の影が覆っている。自分が陽の光を背にして座っているのだから、当然だ。

    兵士となった彼らに、温かな光が届く事を願いながら、この物語の頁を、そっと閉じることにしよう。




    < 了 >
  72. 77 : : 2018/07/16(月) 22:05:15
    ※…以上で終了とさせていただきます。最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

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kaku

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